聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




詩篇 90:1 主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。
90:2 山々が生まれる前から大地が、人の世が、生み出される前から世々とこしえに、あなたは神。
90:3 あなたは人を塵に返し「人の子よ、帰れ」と仰せになります。
90:4 千年といえども御目には昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。
90:5 あなたは眠りの中に人を漂わせ朝が来れば、人は草のように移ろいます。
90:6 朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい夕べにはしおれ、枯れて行きます。
90:7 あなたの怒りにわたしたちは絶え入りあなたの憤りに恐れます。
90:8 あなたはわたしたちの罪を御前に隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
90:9 わたしたちの生涯は御怒りに消え去り人生はため息のように消えうせます。
90:10 人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
90:11 御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれてあなたの憤りをも知ることでしょう。
90:12 生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
90:13 主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。
90:14 朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。
90:15 あなたがわたしたちを苦しめられた日々と苦難に遭わされた年月を思ってわたしたちに喜びを返してください。
90:16 あなたの僕らが御業を仰ぎ子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。
90:17 わたしたちの神、主の喜びがわたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きをわたしたちのために確かなものとしわたしたちの手の働きをどうか確かなものにしてください。

昨日は、義父が召されてから1周年の記念会が行われた。
とても尊敬でき、りっぱな父であった。
記念会に参加された遺族からも、口々に義父の思い出が語られ、まじめで、努力家で、非の打ち所のない人、という感じの生涯であったことを思う。
もちろん、多くのご苦労もあったであろう。けれど、幸いな生涯であったのだろうと思う。
人生は長くても70年か80年ほど、その間、どうやって幸いな人生を歩むことができるだろう。
人として、りっぱに生きることは、誰もが望んでいるが、なかなかそれは難しい。
あるいは、幸いに生きることは、平安のうちに生きることは、もっと難しい。
いや、本当は簡単なことなのだけれど、人はそれを難しく考えてしまう。
神を信じれば、幸いは約束される。
たったそれだけのことなのだが、それが一番難しいのだろう。

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ヨナ 4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
4:3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
4:4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
4:5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
4:7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。
4:8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
4:9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

怒り、つぶやき、失望と投げやりな態度、いかにも人間らしい生の姿が現されている。
ヨナに共感できる人も大勢いるのではないだろうか。
しかし、主なる神は、変わらずニネベの町の人たちの救いをひたすら願い続けている。
ちょっとしたことで心が揺らぎ、すぐに絶望してしまう人間と、永遠に変わらない愛の対比ともいえるかもしれない。
私たちは、そのような神の変わらぬ愛の中に生きている。感謝なことである。


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ヨナ 3:1 主の言葉が再びヨナに臨んだ。
3:2 「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」
3:3 ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。
3:4 ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」
3:5 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。
3:6 このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、
3:7 王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。
3:8 人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。
3:9 そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」
3:10 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

ニネベの町へ行くことを拒み、タルシシュ行きの船に乗り、嵐の中、海に投げ出され、そして、大魚に飲み込まれ、三日三晩をそこで過ごしたヨナ。
もはや息も絶えようとしていたであろうヨナは、悔い改めと救いを確信する祈りをささげ、ついに、魚から吐き出され、一命をとりとめるのであるが、主なる神様は、そんな助かったばかりのヨナを、ただちにニネベへの宣教に遣わそうとするのである。
こんな激動の数日を過ごしたヨナにとって、少しは心も体も休ませて、体調を整え、英気をやしなってから、それからでもいいのでは?と思うかもしれない。
しかし、主なる神様は、すぐさまヨナをニネベに遣わそうとするのである。
人の心は移ろいやすいものであるし、とりわけ心変わりの激しいヨナに対して、主なる神は、すぐに行動に移すように命じたのかもしれない。
しかし、それ以上に、ニネベの町の人たちの罪が大きくなり、このままだと、滅びゆくしかない現状に対して、一時の猶予もなかったということなのだろう。
このことは、いつの時代でも同じ。終わりの時は、刻一刻と近づいている。
滅びゆく人々を救うことは、待ったなしである。
もちろん、ニネベの町の人たちのように、すぐに悔い改めて神を信じるようになるとは限らないかもしれないが、宣教は待ったなし、今、始めなければならないことと覚えたいものである。

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ヨナ 2:1 さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。
2:2 ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、
2:3 言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めるとわたしの声を聞いてくださった。
2:4 あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み波また波がわたしの上を越えて行く。
2:5 わたしは思ったあなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。
2:6 大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
2:7 わたしは山々の基まで、地の底まで沈み地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。しかし、わが神、主よあなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。
2:8 息絶えようとするときわたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き聖なる神殿に達した。
2:9 偽りの神々に従う者たちが忠節を捨て去ろうとも
2:10 わたしは感謝の声をあげいけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。
2:11 主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。

ヨナは大魚に飲み込まれ、今にも息が絶えそうななか、主なる神に救いを求めて祈りをささげている。
その祈りの内容は、救いを求める内容ではあるが、祈ったと同時に、そのことがすでに聞き届けられているかのような告白ともなっている。
もちろん、ヨナは、この祈りの直後に大魚から吐き出されて助かるのだが、すでに祈る前から、そのことが実現するという確信を伴った祈りともいえるだろう。
それほどに、神のなさる救いの御業は確実なのだということを示しているのであろう。
ヨナの祈りの言葉にみられる確信をともなった信仰が素晴らしいのか、それとも、そもそも神は信じて祈る者に先んじて救いの約束を実現しておられるから素晴らしいのか、どちらかというと後者であろう。
神が必ず救いを実現されるお方だから、我々はその約束に信頼して祈るのである。
これからもヨナの祈りのごとく、確信を伴った信仰と祈りの生活を続けていきたいものである。

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ヨハネ 21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
21:24 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

ヨハネの福音書を描いたであろうヨハネは、イエス様の弟子として、イエス様の公生涯のほとんどの時を共に過ごし、イエス様の行動や言葉などをできるだけ正確に記録しようとした、
そのことについて触れられている箇所であり、ここでは、自分自身のことについてイエス様が語られたことについても、そのまま記している。
それは、ヨハネ自身に関することというよりも、他の弟子たちが自分のことをどう思っていたかということについても、そのまま記しているということであろう。
ペテロはイエス様にヨハネが今後どうなるかを尋ねているが、イエス様の答えは、ヨハネがどうなるかということは、ペテロには関係ないことであるというものである。
人は常に他人のことが気になるし、さらに、他人よりも自分のほうが優れたものであったり、祝福された生涯を送りたいと願うものである。
けれど、自分の人生は、神がその人のために備えられたものであって、他人の人生と比較するようなものでもないし、すべきではない、ということなのであろう。
私たちの国では、とかく他人と自分の人生を比較しがちであるが、自分にしか味わうことのできない、かけがえのないただ一人の人生を歩むことができるという特権であり幸いを覚えつつ、与えられた人生を全うしていきたいと願うものである。

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マタイ 23:34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
23:35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
23:36 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

本日は教会暦で殉教者ステファノの日となっている。
ステファノと言えば、使徒言行録6~7章あたりで記されている通り、教会の成長に伴って執事として召された人の一人であり、"霊"と知恵に満ちた評判の良い人であったと記されている。
そして、それおどころか、彼は最後までキリストの証人としての使命を全うし、殉教の死を遂げるのである。
それゆえに、聖人扱いされているのであろう。
ステファノに関する記述を見ると、確かに立派な人物のように見えるが、彼は、彼自身の信仰を守り通しただけに過ぎない。
与えられたところで、与えられた務めを全うし、そして、与えられた使命を果たしていったということなのであろう。
そう考えていくと、必ずしも殉教の死を遂げることだけが素晴らしいのではなく、穏やかに与えられた人生を全うしていくことが求められている人もあってよいし、それぞれになすべき務めを果たしていくことが大切なのではないかと思う。
大切なことは、どんな生涯であれ、常にキリストと共にあって生きることであろう。

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ルカ 2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

クリスマスおめでとうございます。
全ての人の救い主、イエス様のお誕生を心から感謝します。

昨夜は、教会でもクリスマスの祝会が行われました。
毎年、礼拝のあとお楽しみ会でビンゴゲームをするのですが、準備を担当してくれた方が、しきりに「何が欲しいか」と聞いて下さり、景品の準備に頭を悩ませていらっしゃいました。
贈る相手が決まっていても、何をあげたら喜んでくれるか、プレゼント選びは難しいものです。
誰もが喜んでくれる贈り物があるなら、悩むことなく、それを用意すればいい。
でも、それが難しいから悩む。
神様からの贈り物は、誰もが喜ぶもの。
それは、一人一人が大切な存在として愛され、滅びることのない命の約束であり、同時に、愛する人たちと共に天国で必ず会えるという約束。
それを実現するためにイエス様は人としてお生まれになり、あの十字架と復活の御業を成し遂げて下さったのです。
だから、イエス様のお誕生こそ、すべての人にとって、大きな喜びとなる最高の贈り物。

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

世界の片隅で、独りぼっちのクリスマス(クリぼっちと言うらしい)を過ごしている人にも大きな喜びがありますように。

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ヨナ 1:1 主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。
1:2 「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」
1:3 しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。
1:4 主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。
1:5 船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。
1:6 船長はヨナのところに来て言った。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」
1:7 さて、人々は互いに言った。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」そこで、くじを引くとヨナに当たった。
1:8 人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。
1:9 ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」
1:10 人々は非常に恐れ、ヨナに言った。「なんという事をしたのだ。」人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。
1:11 彼らはヨナに言った。「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。」海は荒れる一方だった。
1:12 ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」
1:13 乗組員は船を漕いで陸に戻そうとしたが、できなかった。海がますます荒れて、襲いかかってきたからである。
1:14 ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」
1:15 彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。
1:16 人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。

ヨナはニネべへ行けとの神様の命令に背き、タルシシュ行きの船に乗り込むのだが、海は大荒れとなり、ついに、彼は自分のせいでこんなことになったことを告げ、船の乗員たちに自分を生みに投げ込めば嵐は収まるだろうと告げるのである。
ここに至るまでに、ヨナには幾つか誤算があったのだろう。
まず、神に逆らっても、それほどの怒りを買うことはないだろうと考えていたであろうし、何より、悪に満ちたニネベの町へ行くことの方が恐ろしいことと考えていたであろう。
結果的には、ニネべに行くよりも恐ろしい出来事に巻き込まれてしまうのである。
さらに、ヨナは、まさか本当に自分が海に投げ込まれるなどとは思いもよらなかったのではないだろうか。
やや投げやりな態度で適当なことを言ったところ、怒りに満ちた周囲の者たちは、ヨナの言った通り、ヨナを生みに投げ込んでしまうのである。
ただ、ヨナが言った通り、彼を海に投げ込んだところ、嵐も静まるのである。
ヨナにしてみれば、適当なことを言ったところ、その通りになった驚きや恐れを感じていたであろう。
しかも、ただ一人、大海の真中に投げ出され、どれほど恐怖と孤独に悩まされることになったであろうか。
神を恐れず、自暴自棄になって生きるヨナは、まさに、神を畏れず、希望を見失って生きている人そのものであると言えるだろう。
ヨナの場合は、たまたま自分が言った通りにはなったが、多くの場合、自暴自棄になって、どうにでもなってしまえと考えている以上に不幸な出来事に巻き込まれていくもの。
どんな時も、神を見上げ、救いを求めて生きる、信仰者の歩みを保ち続けていたいものである。

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コロサイ 4:7 わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。
4:8 彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。
4:9 また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。
4:10 わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。
4:11 ユストと呼ばれるイエスも、よろしくと言っています。割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。
4:12 あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。
4:13 わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。
4:14 愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
4:15 ラオディキアの兄弟たち、および、ニンファと彼女の家にある教会の人々によろしく伝えてください。
4:16 この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。
4:17 アルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と伝えてください。
4:18 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。恵みがあなたがたと共にあるように。

パウロがコロサイの人々にあてた手紙の最後には、彼の協力者たちの名前が綴られている。
その中で、オネシモと呼ばれる人物は、ピレモンの手紙にも出てくる人で、かつてはピレモンを困らせたこともあったようではあるが、パウロの獄中に回心したか、今となっては、パウロの信頼の厚い人物となっていることが伺える。
さらに、バルナバのいとこのマルコも、かつては伝道旅行の際、逃げ出すようにパウロから離れていった人であり、時を経て、ここでもパウロの信頼の厚い協力者の一人となっていることが伺えるのである。
かつては役に立たないと言われた者たちが、時を経て、様々な体験をし、練られ、成長していく様をパウロも目の当たりにしていたことであろう。
今は様々な試練や困難があるかもしれないし、何一つ希望など見出せず、真っ暗な闇の中を歩いているような時もあるかもしれない。
けれど、神は生きて働いておられ、時が満ち、すべてのご計画が明らかにされる時が来る。
少なくとも、そう信じて歩んでいきたいものである。

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ヨハネ 20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

トマスの主張はもっともである。
誰も自分の目で見たことのない事柄を信じるのは困難だからである。
しかし、それ以上に、トマスの場合、他の弟子たちにはイエス様が現れたのに、自分だけがその場にいなかったことによる疎外感のようなものによって心を頑なにしていたことの方が大きいのかもしれない。
案外、神を信じない理由とは、そういうものなのかもしれない。
見たかどうかよりも、自分も仲間と共に体験を共有できたかどうかによって人の信仰とは左右されるものなのかもしれない。
そう考えるなら、神を信じるかどうかはじっくりかんがえることとして、共に時間を過ごしたり、共に生きていくことを大切にしていくならば、きっと私たちの信じている事の大切さが伝わっていくのではないかと思う。
愛する家族や友人へんも伝道ということを考えるとき、時間を共有していくことを大切にしながら、共に大切なことを共有していけるものでありたいと願うものである。

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