聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マルコ 4:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。
4:14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。
4:15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
4:16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
4:17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
4:18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
4:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
4:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

イエス様のたとえによるメッセージは分かりやすい反面、信じて受け入れようとしない人には、全く無意味なお話しにしか聞こえないかもしれない。
聖書のメッセージもそれと同じで、特に難しいことが語られているわけではないのだろう。
シンプルなメッセージだけに、聞く者の態度によって、いかようにも受け止める事ができてしまうのかもしれない。
種を蒔く人のように、聖書のみ言葉が語られる。
種が落ちた地の状態によって実がなるかどうか違ってくるように、聖書のみ言葉を聞く人の態度によって、その結果もおのずと違ってくるだろう。
それだけのメッセージでしかない。
しかし、それだけのことであるが、御言葉の種を受け取るかどうか、その違いは大きい。
シンプルな言葉ではあるが、これを神の言葉として受け取る時、その受ける恵みは大きい。
神などいないと思えば、自分の人生もこの世も何ら無意味なものとなってしまうが、神は存在し、今もなお我々を愛していると信じれば、これほど意義深い人生はないし、尊いものとなる。
意味のある人生を送るためには、神の言葉を受け取ることは有益であり、必須であると思う。

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