聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




黙示録12:7 さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、
12:8 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。
12:9 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
12:10 わたしは、天で大きな声が次のように言うのを、聞いた。「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。
12:11 兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
12:12 このゆえに、もろもろの天と、その中に住む者たちよ、喜べ。地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」

本日は天使ミカエルの日となっている。
聖書における天使ミカエルの記述には、悪魔とその支配下にある者たちを打ち倒す、力強い姿が描写されており、頼もしい存在であるように思う。
しかし、イエス様との関連で見るとき、果たしてイエス様はどうであったか。
イエス様も最終的には悪魔を打ち倒されたが、ある時は、悪魔の手によって様々な誘惑にさらされ、あるいは、一人の人として、十字架の死に至る御受難をお受けになられたことを思う時、ある意味、ミカエルとは対照的なようにも思える。
ミカエルは力強く悪魔を退治し、一方で、イエス様は、まるで悪魔に翻弄されてばかりの我々人間と同じように悪魔と立ち向かわれたように思う。
しかし、だからこそ、このようなイエス様のお姿に、「私たちのために」「私たちの身代わりとなって」悪魔との闘いに立ち向かっていかれたイエス様の心を見ることができるのではないだろうか。

今、世間では、軍事力を使することに関して、あちこちで取りざたされている。
イエス様はどうであられたか。

マタイ26:51 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
26:52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
26:53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
26:54 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」

イエス様は、天使ミカエルにもお命じになられることのできるお方。
その方が、剣を用いず、御自分の身一つで、私たちの完全な救いを成し遂げられたことに大きな意味があるのではないだろうか。
偉大なる勝利者、神の御子イエス・キリストをほめたたえます。

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ローマ4:1 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。
4:2 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。
4:3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
4:4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
4:5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
4:6 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
4:7 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。
4:8 主から罪があると見なされない人は、幸いである。」
4:9 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
4:10 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
4:11 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
4:12 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。

私たちの救いの約束が、行いによらず、「神がお救い下さる」という約束への信仰によってもたらされるものであるということ、これが私たちの信仰である。

ちょっと複雑な言い方ではあるが、このことは、実に幸いなことである。
私たちの救いの根拠は、神の約束の御言葉である聖書の中にあり、聖書を開くとき、いつでもこの約束が私たちのものとなるのだ。
たとえそれが、日々、わずかずつしか聖書を読めていないにしても、私たちの聖書の御言葉に対する信頼が変わりない限り、聖書はいつでも私たちに救いを約束してくれている。

「聖書になんと書いてあるか」

日々、聖書に聞き入る者でありたいと願う。

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ローマ3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
3:30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

この個所は、聖書における最も重要な御言葉の一つであろうと私は思う。
福音とは何か、律法(人間の業)によるのではなく、ただただ神の一方的な憐れみと恵みの御業(イエス・キリストの贖いの十字架)を信じる信仰の故に救われるということ、これ以上の幸いな約束はない。
そして、それは、信仰によって与えられる恵みだからこそ、全ての国民に開かれたものであると言えるのである。

神の御子イエス・キリストの尊い血による贖い。
これが全てであり、そこに全ての希望を見出していけるような者でありたいと願う。

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ローマ3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
3:14 口は、呪いと苦味で満ち、
3:15 足は血を流すのに速く、
3:16 その道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。
3:18 彼らの目には神への畏れがない。」
3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

ここしばらく、このローマ3章の御言葉が頭から離れず、「自分は全く罪人である。しかし、それゆえ、イエス・キリストの救いは素晴らしい」という思いが与えられている。
何か、私の内に、神に目に留まるような優れた能力や善い行いがあるのではない。むしろ、あるなどと思うこと自体がおこがましいこと。
それよりも、徹底して自分の罪と向き合い、これを償うための身代わりのイエス様の十字架と、神の子の犠牲だからこそ成り立つ完全な赦し、そこに注目することができることは、なんと幸いなことであろうかと思う。
私はどうしようもない罪人である。でも、だからこそ、神の恵みと憐れみなしには生きられないし、感謝して受け留めたい約束であると思う。

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ローマ3:1 では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。
3:2 それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
3:3 それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
3:4 決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
3:5 しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
3:6 決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
3:7 またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
3:8 それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。

主なる神がユダヤの民をお選びになられたのは、彼らが比較的、神に対して忠実な民であったという理由によるものなのだろう。
しかし、彼らが完全な民であったかというと、必ずしもそうでない部分もあり、そういう意味では、何故、神はそのような不完全な民をお選びになり、お用いになられたのか、神もまた不完全ではないのかという主張に対し、この個所では、たとえ人間が不誠実であったとしても、神はそうではないということが述べられている。
つまり、神は、あえて不誠実な民をお用いになられるお方なのだということが言えるのである。
それゆえ、私たちも神にあって選ばれ、用いて頂ける幸いに与ることができるのだ。
これは、本当に感謝なこと。
ありえないはずのこと、選ばれるはずのない者が選ばれた喜び。
ここに注目し、神をほめたたえていきたいものである。

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ローマ2:17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、
2:18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。
2:19 -20 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。
2:21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。
2:22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。
2:23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。
2:24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。
2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。
2:26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。
2:27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。
2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。
2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

先日、律法について学ぶ機会があり、そもそも、モーセの時代に律法が与えられた時、エジプトの奴隷から解放された後に、シナイ山において、「奴隷から解放された民」に対しての契約の言葉として、律法が与えられたということを学んだ。
つまり、律法とは、神が救われた者たちとの間に結ぶ契約なのであるということであり、それを守れば救われるというような性質ではないということである。
律法とは、神の御心に適うものであり、神の御心を知り、これに従うならば、律法を知らなくても律法に従っているのに等しい。
そして、割礼とは、律法が与えられる以前に、神がお選びになったアブラハムとの間に結ばれた、子孫繁栄、多くの民の父祖となる契約のしるしであった。
つまり、一方的な選びによることを表していると言えよう。
これら二つの契約の重要な要素は、どちらも、神の主体的な働きかけに由来しているというところにあり、イエス・キリストによる偉大な救いの御業と結びついていると言えるだろう。
私たちには成し遂げることの出来ない全ての神の御心(律法)を成就するため、イエス様は、私たち罪人の受けるべき律法の求める裁きの全てをも引き受けて下さり、神の御心に適う歩みを徹して下さり、そして、この救いの約束は、信じる者に恵みとして与えられる、つまり、人間の側の行為や功績によらない、神の憐れみによってもたらされた恵みの約束であることを思う。
イエス様以外、誰一人、律法を達成することの出来る人はなく、神の恵みの故に、神の国の民とせられたこと感謝して受け留めたい。これが、霊によって導かれる、真のイスラエルの民のなすべきことであるのだから。

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ローマ2:1 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
2:2 神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
2:3 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
2:5 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
2:6 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
2:7 すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
2:8 反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
2:9 すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
2:10 すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
2:11 神は人を分け隔てなさいません。
2:12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
2:13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
2:14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
2:15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
2:16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

私たちは、ついつい他人を裁いてしまう。
しかし、いつも思うことであるが、他人を裁くということは、自分の内にも同じ罪があるからこそ、他人の罪を見抜くことができるのであり、結局は、他人の中に自分自身の姿を見ているのだろう。
自分の身の回りにいる赦せないタイプは、案外、自分と似ていたりするものである。
他人を裁く前に、まず、それと同じ罪を自分も犯してはいないか、吟味してみたいものである。そうすれば、安易に他人を裁くことはできなくなるだろう。
そもそも、罪を裁くということは、私のような罪人がすべきことではなく、本当に正しい方、唯一の主なる神がなさることなのだ。
そして、その裁きすら、悔い改めに導くためのものであることを覚えておきたいものである。


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マタイ9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

先週から、ずっと「私の内には、一切の義なるものは無く、ただ、神が憐れみの故に与えて下さる、恵みによる義の故に救われる」ということが頭から離れず、神の約束して下さった偉大な恵みの御業に、ただただ感謝するばかりである。
そう、本来ならば、決して救われるような資格の無い者。
にも関わらず、こともあろうに、神は御自分の御子キリストの命を犠牲にして十字架に捧げ、こんなちっぽけな、何の役にも立たないような者をお救い下さったのだ。
しかし、それこそが神の御心なのである。
何ということでしょう。
願わくは、このような素晴らしい神の恵みの御心を、一人でも多くの方にお知らせしたいと願うものである。

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ローマ1:18 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
1:19 なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。
1:20 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
1:21 なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。
1:22 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、
1:23 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
1:24 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
1:25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。
1:26 それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、
1:27 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
1:28 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
1:29 あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、
1:30 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、
1:31 無知、不誠実、無情、無慈悲です。
1:32 彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。

この個所を読んでいて、創世記6章における、ノアの時代の大洪水のきっかけとなった人類の罪に関する記述を思い出した。

創世記6:1 さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。
6:2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。
6:3 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。
6:4 当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。
6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、
6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
6:7 主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」

人間というものは、いつの時代も変わらない愚かな存在なのだろう。
私もそのような愚かな存在の一人なのだ。
頭に思い描くことは、よこしまなこと、己の利益となること、快楽、欲望・・・数え上げたら、きりが無い。
しかし、神はかくも愚かな人間を、御自分の御子イエス・キリストの命を犠牲にしてお救いくださったのだ。
何ゆえ?
もちろん、人間をお創りになられたのは、この神ご自身であるということもあろう。
しかし、それ以上に、「神は愛である」という事実を思う。
神が愛そのものであられるからこそ、私たち人間は生きていられる。
そのことの恵み、幸い、祝福を思う。

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ローマ1:16 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

私たちルーテル教会の信徒にとって、この御言葉ほど重用な意味を持つ言葉はない。
かつてルターは、聖書に語られているところの救いの約束は、ただただ、神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによってのみ成し遂げられるものであり、その事実を信じる者に、無償で与えられる神の義であるということを主張し、聖書の持つ真の福音の言葉に再び光を当てた。
「神の義」という言葉、そして、それを可能にする「信仰による義認」。
これらの事柄は、全て、「福音」という言葉において言い表すことができよう。
そして、この「福音」こそ、イエス・キリストの恵みの本質に他ならない。

本来ならば、全くありえなかったことが、無償で与えられる。
信仰とは、そのような完全に実現不可能とも思えるようなことが成し遂げられた奇跡の業であり、それゆえ、ある意味、一線を超えるところがあるからこそ、信仰によってしか受け取ることの出来ないものなのだと言えよう。
しかし、その一線を超えたとき、それは、もはや、「恥」として受け留められるようなことのない、驚くべき祝福に満たされているのだということを思う。

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