たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

吉備の中山

2019-05-22 09:23:32 | 鉄の神々1

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

現在、津山市の中山神社の呼称は

「なかやま」が一般的ですが、

その昔は「ちうさん」「ちゅうぜん」

「ちゅうざん」などと呼ばれていました。

何でも、中国の鉄に関する古書、

中山経(チュウサンキョウ)の影響を受け、

チウサンと音読みされるようになったのだとか……。

また、ご祭神に関しても、「吉備津彦命」

「金山彦命」「オオナムチ」「猿神」、

さらには吉備津彦が退治した「温羅」ではないかなど、

多様な説が取り沙汰され憶測を呼んでいます。

 

いずれにせよ、それらの伝承を拾っただけでも、

この神社がいかに古くから「人間の干渉」

を受けてきた場所であるかがわかるでしょう。

つまり、それほどまでにこの地は権力者たちにとって、

「魅力的な土地」だったということなのですね。

 

ちなみに、中山神社がもともと鎮座していたのは、

「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」という、

『古今集』の神遊び歌に登場する「吉備の中山」でして、

美作国が備前国から分立した際に現在地に移ったのだそうです。

吉備津彦神社や吉備津神社との関連も含め、

中山神社がこの地に勧請された裏には、

一筋縄では行かない複雑な経緯があったのかもしれません。


石凝姥神

2019-05-21 09:19:44 | 鉄の神々1

<中山神社 なかやまじんじゃ>

 

石上布都魂神社を後にし、次なる目的地である

美作国一の宮・中山神社へ到着したのは、

日没間近の夕暮れ時。その途中、道を間違える、

脱輪した車を避ける、渋滞に巻き込まれる……等々、

冷や冷やしながら町まで下りてきたのですが、

なんとか予定ギリギリのタイミングで

参拝することができました。

 

岡山県津山市の郊外に鎮座する中山神社は、

播磨・備前と並ぶ鉄王国、美作国の中心的神社で、

鏡作神(かがみつくりのかみ)を主祭神とし、

相殿に天糠戸神(あめのぬかどのかみ)、

石凝姥神(いしこりどめのかみ)

の二神をお祀りしています。

 

鏡作神という神は、読んで字のごとく「鏡」

つまり鉱物を司る神と言われており、由緒によりますと

「鏡作部の祖神・イシコリドメ神の御神業を称えた御名」

とのこと。これらの内容からも、この中山神社が

「鉄」と深い関わりを持ち、さらに何らかの形で

「鏡」と結びついていることがわかります。

 

ちなみに石凝姥神という神は、天孫降臨の際、

ニニギに随伴し地上に降り立った五伴緒の一柱であり、

岩戸に隠れた天照太御神を招き出すための鏡を作りました。

恐らくは、中臣氏の祖神・天児屋命や、

忌部氏の祖神・天太玉命らとともに来日した、

天孫族に縁ある有力部族でもあったのでしょう。


国魂ライン

2019-05-20 09:10:02 | 鉄の神々1

<倭大国魂神社 やまとおおくにたまじんじゃ>

 

石上布都魂神社から南に延びるレイラインの線上には、

興味深い聖地がいくつか存在します。

その中のひとつが、以前「剣山ツアー」で訪れた、

徳島県美馬市の倭大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)です。

この神社には倭大国魂神という名の奈良・大和神社ともつながる

「国魂神」が祀られており、倭大国魂神のご神体は、

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)だといわれています。

 

当初この神は、豊鍬入姫命とともに神器の奉斎を託された、

崇神天皇の皇女・渟名城入姫命(ぬなきいりびめのみこと)

がお祀りしていましたが、倭大国魂神の霊威が

あまりにも強すぎたことから、

渟名城入姫命はやせ細って神事ができなくなり、

市磯長尾市(いちしのながおち)に引き継がれたのだとか……。

 

この伝承を元にするなら、備前国・石上布都魂神社と

阿波国・倭大国魂神社の間には、

スサノオの神剣と国魂神の勾玉という、

強力なエネルギーが流れていたことになりますね。

ちなみにこのラインの近辺に存在するのが、

非業の死を遂げた2名の天皇ゆかりの地です。

豊鍬入姫命が吉備という遠地に神器を持ち込んだ裏には、

前後の世を見据えた深い理由があったのかもしれません。


完全なる草薙剣

2019-05-19 09:59:15 | 鉄の神々1

<熱田神宮 あつたじんぐう>

 

崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命が、

「八咫鏡」と「草薙剣」を携え

吉備の国へと向かったのは、

この地に「スサノオの神剣(布都御魂剣)」

が安置されていたことと、

無関係ではないような気がします。

石上布都魂神社の社伝によれば、

神剣が大和国へと移されたのは、

崇神天皇の時代(仁徳期という説もあり)

だったといいますから、豊鍬入姫命の

吉備滞在をきっかけに、神剣が吉備から

大和へと持ち込まれた可能性も大です。

 

考えてみますと、もともと草薙剣は、

ヤマタノオロチという異民族の所有物であり、

剣に宿す御魂は国津神でも天津神でもありません。

恐らく、世情不安や三種の神器の鳴動を抑えるためには、

八咫鏡を皇居(三輪山)から遠ざけることはもちろん、

草薙剣を「理想形」にする必要があったのだと思われます。

もしかすると豊鍬入姫命の役目のひとつが、

各国の神剣が宿す国魂を草薙剣に集約させ、

草薙剣の力を完璧なものにすることだったのでしょうか……。


国魂の移し替え

2019-05-18 09:50:40 | 鉄の神々1

<美作やまなみ街道>

 

倭姫命の巡幸に先立ち、天照太御神の御魂の安住先を探した、

豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)の滞在先のひとつが、

「吉備国・名方浜宮(なかたのはまみや)」と呼ばれる場所です。

名方浜宮の比定地としては、岡山県岡山市、広島県、

和歌山県などが有力候補に挙げられますが、

倉敷市、高梁市、総社市、そして赤磐市などにも、

それらの伝承を残す土地があるのだとか……。

明確な証拠はないものの、古代の海岸線や宮の比定地の数を

念頭に置けば、豊鍬入姫命が訪れたのは、

岡山(の内陸部)である可能性も否定できないのでしょう。

 

倭姫命しかり豊鍬入姫命しかり、

巡幸という言葉を聞きますとまず思い浮かぶのが、

天照太御神のシンボルである「八咫鏡」です。

ただし、天皇が2人の姫たちに託した神器の中には、

八咫鏡だけでなく「草薙の剣(のレプリカ?)」

も含まれていたと聞きます。恐らくそれら二つの神器は、

訪れた国々の「神剣」や「宝物」と同坐され、

姫たちの手により何らかの神事が執り行われたのでしょう。

もしかするとそれらの神事とは、各国の「大国主神」

が所持していた神剣に宿る「国魂」を、天叢雲剣

(のちの草薙剣)に差し替えることだったのかもしれません。


独創的な風土

2019-05-17 09:44:20 | 鉄の神々1

<国立歴史民俗博物館>

*画像は甕棺です*

 

古代の葬儀で用いられた棺桶にはいくつかの種類があり、

木で造られた木棺、石で造られた石棺、

甕を二つ合わせた甕棺などがそれらの代表例です。

そんな中、ここ石上布都魂神社が鎮座する岡山県は、

「陶棺」と呼ばれる焼き物の棺桶が多数発見された土地で、

全国的に見てもその出土数は突出しているのだとか……。

また、お隣の兵庫県は「石棺」の一大生産地であり、

特に播磨地方には、石棺の蓋や側板などに

「仏像」や「梵字」を刻んだ石棺仏(せきかんぶつ)」が、

広く分布することでも知られています。

 

つまり、岡山東部から兵庫西部にかけての一帯は、

ある意味「独創的」ともいえる、固有の葬送風土が

形成されていたと考えられるわけですね。

恐らくそれらの元にあるのが、

この地に住み着いた刀工(陶工)の技術と、

物部氏らが取り仕切る葬送の儀式だったのでしょう。

もしかすると、石上布都魂神社付近で彼らが行っていたのは、

棺桶や鉄製品などの製造とともに、

様々な思いを抱えながらこの世を去った

「死者」を鎮める神事だったのでしょうか……。


剣の行方

2019-05-16 09:39:16 | 鉄の神々1

<伊雑宮 いざわのみや>1336

 

「古代の剣」の鎮座地について調べている最中、

地図を見ながらふとあることに気づき、

スサノオの神剣をお祀りしていた

赤磐市の石上布都魂神社から、

真南の方向に向けて直線を引いてみました。

 

するとその先にあったのは、剣山を要する

「奥祖谷・名頃集落~栗枝渡集落」、

そしてその山向こうにあたる

「物部村・別府集落~別役集落」です。

さらに、その中間点から東へと線を伸ばしてみると、

葛城山⇒金峯山寺の真上を通り、

最終的には伊雑宮へと到達しました。

 

また、これ以外の「剣」の聖地に関しても、

点と点とを縦横無尽に結んで行くと、

色々な暗示が浮かび上がってくるのですが、

いずれにせよ古代「神剣を置いた(隠した)」

と噂されるいくつかのポイントが、

ぴったりと一本のライン上に重なるという現象に、

「人為的なもの」を感じざるを得ないのですね。

 

恐らくそれらが示唆しているのは、

古代の神剣たちが「ある意図と綿密な計算のもとに」、

あちこちの聖地を転々と移動していた

という事実なのかもしれません。


霊的な楯

2019-05-15 09:34:41 | 鉄の神々1

<石上布都魂神社 いそのかみふつみたまじんじゃ>

 

赤磐市の石上布都魂神社を訪れた際にまず感じたのは、

「ここは何かを隠すには打ってつけの場所だ」

ということでした。ここ中国山地の山並みというのは、

四国山地などとは対照的に、適度に標高のある山々が

折り重なるようにして連なる「なだらかな形状の山脈」

であるため、他と比べると人工的な開発や

砂鉄の採取なども容易だったと考えられます。

 

恐らく、採掘跡の洞穴なども無数にあったことから、

武器や神宝などを「一時的に」保管するのに

適していたのかもしれません。

また、出雲の荒神谷遺跡でも思ったのですが、

「盗まれては困るもの」というのは、

たいてい神が鎮まる「神聖な場所」

の近くに置かれていることが多く、

「ここは禁則地」「近寄ると祟りが起きる」

などという理由で、人々の立ち入りを

禁じるケースが間々あります。

 

石上布都魂神社の近辺に、

それらしい伝承の類は確認できなかったものの、

ご神体山の山頂にある古代の磐座の存在が、

無関係の人間の立ち入りを禁じる「建前」となり、

武器や宝物を守る「霊的な楯」

となった可能性もあるのでしょう。


タタラと陶芸

2019-05-14 09:30:12 | 鉄の神々1

<石上神宮 いそのかみじんぐう>

 

十拳剣に比定される神剣が初めて神話に登場するのが、

イザナミの死因を作ったカグツチを切るために、

イザナギが剣を取り出したシーンです。のちに、

その神剣から陶器を司る神々が誕生しましたが、

恐らくこれは、タタラと陶芸技術とのつながりを

示す話であり、それらに深く関与していたのが、

物部氏などの「呪術集団」だったのでしょう。

 

現代の刀工や陶工の立ち居振る舞いからもわかるように、

刀を打つ、あるいは陶器を焼くという仕事は、

紛れもなく「神事」でして、完成までの

過程においては独特のしきたりがあるそうです。

恐らく、この地で物部氏(および関連氏族)が、

青銅製や初期の鉄製武器を製造保管し、

日々大規模な祭祀を執り行っていた

可能性は高いのだと思われます。

 

ちなみに昨日、崇神天皇が岡山・石上布都魂神社から、

奈良・石上神宮へとスサノオの剣を移動させた理由を、

「イズモの力を削ぐため」と推測しましたが、

もしかすると、十拳剣(布都御魂剣)は、

物部系の呪術師たちの祭祀により、

他の剣とは異なる特別な霊力を

宿していたのかもしれません。


イズモの武器庫

2019-05-13 09:01:32 | 鉄の神々1

<石上布都魂神社 いそのかみふつみたまじんじゃ>

 

岡山県赤磐市のお隣・和気町を本拠地としていた和気氏は、

「鉄」を掌握することで力を蓄えた氏族でした。

和気氏の氏神・和気神社のそばを流れる吉井川近辺では、

その昔盛んに製鉄が行われており、また砂鉄のみならず

銅も鋳造していた形跡が見られるのだとか……。

一説に、スサノオの剣は青銅製だったという話もありますし、

当時の状況を総合すれば、奈良・石上神宮の

ご神体である十拳剣(布都御魂剣)が、

この地で造られた可能性も否定できないのでしょう。

 

恐らく、古代この一帯は「武器庫」のような場所で、

全国の「イズモ」と呼ばれる国々に、

銅製の武器や初期の製法(野タタラ)で造られた

鉄製の武器を輸出していたのだと思われます。

当初それらを管理していたのは忌部氏、物部氏、

土師氏系の氏族だったと推測されますが、

後年になり何らかの理由で、

和気氏へと支配権が移ったのかもしれません。

崇神天皇がこの地から大和国へと

スサノオの剣を移動させたのは、

布都御魂剣を自らの手元に置くことで、

イズモ族の力を削ぐ狙いもあったようです。


物部と土師方

2019-05-12 09:56:05 | 鉄の神々1

<国立歴史民俗博物館>

 

日本書紀の一書が示すように、

現在石上神宮のご神体となっている

十拳剣(布都御魂剣)は、もともと岡山県赤磐市の

石上布都魂神社にお祀りされていたものでした。

由緒によりますと、この霊剣は崇神天皇の命により

大和に移されたのち、当時流行していた

疫病を鎮めるために用いられたのだとか……。

ゆえに、この石上布都魂神社は「元石上」とも呼ばれ、

奈良の石上神宮と同様、現在も物部氏に

つながる家系が神社を守っていると聞きます。

 

となると気になるのが、なぜこのような山間の地に

「霊剣」が置かれたかということ、そしてなぜ崇神天皇が

その剣を災厄祓いのために所望したかということでしょう。

ちなみに、この近辺は砂鉄だけでなく銅の産出地でもあり、

山の裏側の「土師方(はじかた)」という地区は、

備前焼の発祥地との肩書を持つ場所だそうです。

何でも、陶工たちはこの一帯に窯を構えたのち、

備前の伊部に移住し、備前焼の前身である

須恵器の生産に従事したとのこと。

もしそれが真実だとすれば、この地と忌部氏との

関わりも考慮しなければならなくなりますね。


スサノオの神剣

2019-05-11 09:44:18 | 鉄の神々1

<国立歴史民俗博物館>

 

日本書紀の異伝において、

「素盞嗚命の蛇を断りたまへる剣は、

今吉備の神部(かんとものを)の許に在り」

と記される赤磐市の石上布都魂神社は、

古代の神剣とたいへんゆかりの深い場所です。

「素盞嗚命の蛇を断りたまへる剣」とは、

ヤマタノオロチを切り倒したスサノオ所有の剣のことで、

現在、奈良県天理市の石上神宮に安置されている

「布都御魂剣」を指しているのだとか……。

 

このスサノオの剣には様々な名称があり、 

● 十拳剣(とつかのつるぎ)

アマテラスとスサノオの誓約の場面での名称

● 天羽々斬(あめのはばきり)

ヤマタノオロチ退治の場面での名称

● 天之尾羽張(あめのおはばり)

イザナギがカグツチを斬る場面での名称

● 神度剣(かむどのつるぎ)

アヂスキタカヒコネが喪屋を切り倒した場面での名称

● 布都御魂(ふつのみたま)

タケミカヅチが大国主を恫喝した場面、

および神武天皇を救うため高倉下が参上した場面での名称 

……などが代表的なものです。~By Wikipedia

 

ちなみに、石上神宮ではこの布都御魂剣とともに、

天羽々斬剣に相当する剣も出土していることから、

これらの異称は、ある特定の剣を示すのではなく、

多くの「霊剣」が存在した可能性を

示唆するものだと考えられています。


石上布都魂神社

2019-05-10 09:39:57 | 鉄の神々1

<石上布都魂神社 いそのかみふつみたまじんじゃ>

 

石上布都魂神社・本殿までの登山にかかった時間は、

意外にも5分程度。早めの到着に安堵したのもつかの間、

予期せぬタイミングでの筋トレにより、

ふくらはぎの筋肉はプルプル震え、

酷使した膝も見事なくらいに笑っています。

鉛のように重くなった体を引きずりながら、

ようやく手水舎の前にたどり着くと、

見えてきたのは想像以上にこじんまりとした境内でした。

 

備前国一の宮のひとつであると同時に、

神社マニアの間ではパワースポットとして

知られる場所であるがゆえに、

もっと大仰なイメージがあったのですが、

実際に訪れてみるとそれほど「変な空気感」はなく、

参拝客も思った以上にまばらです。

 

調べてみたところ、こちらの社殿は近年になって

山頂付近から移されたもので、本来はさらに

400mほど急な山道を登ったところにある

本宮(磐座)にお参りしていたのだとか……。

 

さすがに今回は、これ以上の登山は厳しいと

参拝は断念したものの、こちらの神社の「本体」が、

山頂付近で行われていた古代の磐座祭祀

であることは確かでしょう。だとすれば、

石上布都魂神社に伝わる「剣」の伝承とは、

いったいどんな経緯で残されたものなのか……。

まずは、頭の整理を兼ねて当時の

「剣事情」を調べ直してみることにします。


ザ・登山道

2019-05-09 09:34:07 | 鉄の神々1

<石上布都魂神社 いそのかみふつみたまじんじゃ>

 

石上布都魂神社の参道入り口?

と思われる地点に立った私は、

想像とはかなりかけ離れた光景に、

「これはたぶん裏参道だよね……」と

自分に言い聞かせるようにつぶやき、

近くに存在するはずの「表参道」の

鳥居を探して歩き回りました。

 

しかし、どこをどう見渡しても、

入り口のような場所はその山道しかなく、

「七五三詣り」と書かれた幟が

「いいから登れ」とでも言いたげに、

晩秋の夕風に吹かれてヒラヒラと手招きしています。

 

ふと顔を上げると、先に車から降りた老年のご夫婦が、

肩で息をしながら急な坂を歩いて行く姿が目に入り、

その様子を確認してようやく、

「石上布都魂神社の参道は登山らしい……」

という涙目の現実が飲み込めたのでした

(噂によると、本殿近くにも駐車場があるとかないとか……)。

 

ちなみに私が通ったのは、

「距離は短いが傾斜がハンパない」形状の山道でして、

野見宿禰の陵墓への石段とは違うタイプでありながらも、

同等の体力を消耗するようなザ・登山道だったのです。

 

数秒間その場で逡巡したものの、

避けられない運命を悟った私は、

覚悟を決めて参道へと一歩足を踏み出すと同時に、

明るいうちに山を下りることを

近々の命題として掲げたのでした。


山間地トリック

2019-05-08 09:27:25 | 鉄の神々1

<赤磐市天納>

 

しっかりと事前調査をしていたにも関わらず、

石上布都魂神社へと向かう道中が、

想像以上の難路であるということを、

実際に訪れてつくづく実感いたしました。

まあ、紀伊半島や四国山地のような険しさはないものの、

集落の数がそこそこ多いための功罪か、

「蓋のない水路」「ガードレールのない山道」

「スピードを落とさない軽トラ」

「境目がわからない田んぼの畔」といった、

「山間地あるある」があちこちに仕掛けられ、

のどかな里山風景を楽しむどころか、

数分前に側溝に落ちたと思われる車を慎重に避けながらの、

手に汗を握るスリル満点のドライブとなったのです。

 

ちなみに以前、石上布都魂神社への参拝計画を立てた際、

時間の都合で立ち寄りを断念した経緯がございます。

よって、ようやくここまでたどり着いた今回は、

引き返すという選択肢はありません。

ひたすら日没前の参拝のみを願いつつハンドルを切り続け、

ようやく石上布都魂神社には到着したのは、

西日の眩しさがピークに達した時間帯。

崖を切り崩したような急勾配の駐車場に車を駐め、

「間に合った……」とホッとしたのもつかの間、

歩き出した私の目の前には次なる試練が待ち受けていたのでした。