さて、昨日の記事にいただいたShihokoさんのコメント一部抜粋させていただきます。
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“適応するための能力が消える方向の変化は「なおる」とは言えない”
全くその通りだと思います。
なのに、その当たり前の前提を曲げたい人たちや、曲解してしまう当事者が、案外多いのだろうな、というのが、あの本を読んでの私の感想でした。
読めばわかるのに、勿体ない…と、思ってしまうのです。
でも、曲解も含めて、それが正しき分断というものなのでしょうね。
どうも私は、治りたくない人でも、治ってほしいと思うことを諦めきれないようです。
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率直に言って、けちくさい考えですね。(ブ)ですみません。
以前から「みんなに治ると知ってほしい」と言う人たちの発言にうっすらと違和感を抱いていた私です。そして昨日このコメントを何度か読み返していて、なんでか気づきました。
つまりね、花風社がやっていることに対して「インチキだ」と攻撃してくる人と「治るんだからもっと知ってほしい」と思う人って、根っこが同じような気がするのです。
それは何かというと、ある意味素朴な(ほめてません)「人は一律な考えを取るべきである」という思い込みです。そしてそれが私にはないんですね。
私は治る人が増えてほしいし、今になってみると「治らないという考えは治りませんか?」って本当に的を射たフレーズだと思います。治ることを広めるために活動し続けるつもりです。でも全員がそうなるとは思っていないんですね。多様なのが社会ですから。
それでも最初はインチキ扱いしていた人たちがどんどん(部分的にせよ)花風社の提言を受け入れるようになってきた。増えてきた手ごたえは私にはわかるんです。私は一次情報を持っていますからね。
そもそも今の時代、もはや「標準療育」なんて幻でしょう。発達障害者支援法ができた当時にでかい顔していた(そしてどんどん信頼を減らしつつある)ギョーカイ人と世の中の切り替えが呑み込めないガンコ頭の当事者保護者の中にしかありませんよ、標準療育なんて。
なんでかっていうと、みんななんとかしたいからです。そしてTEACCHやABAでは物足りないからです。だからこそ勇気のある人はあれこれ試して自分はこれ、っていうものを見つけるからです。勇気のない人はそれを見て唇かみしめ「エビデンスガー」をするでしょう。それはただの負け惜しみです。もしくはおせっかい。そして治りたくない人、曲解にしがみついていたい人にオルグするのはやはりおせっかいですから、やめましょう。専守防衛です。
勇気をもって試すものはたいてい、ギョーカイが絡んでいないことですね。花風社はその選択肢の一つになれたと思います。
そして「治るってもっとわかってほしい」という人は、「わかってもらうための活動」を実践すればいいんです。それをしないで「わかってほしい」と思っている人も相当数いらっしゃるんじゃないかと思ってます。
花風社がやっていることを応援する手はいくつも他にあるのです。
私は気づかなかったけど、読者のどなたかがここで、「Amazonの花風社レビューに☆一つを付けて回る人がいる」って忠告してくれたことがありましたよね。
一方で私のもとには「自分が(あるいは自分の子が)こんなに治って、感謝してもしきれないのにやってあげられることがない」なんて言ってくる人が後を絶たないんです。「いや、やってもらえることいっぱいあるけどそれを実行していないだけだよね」って私はまったり思っています。
自分も読んでいいと思った本にはレビューを書く。ブログを書く。親仲間に話す。それだけでも花風社を応援することになるのです。
そしてそのとき何よりもエビデンスとなるのは「うちの子は治ったわ」というエピソードなのです。
エピソードでは受け入れられない、という人も当然います。そういう人は後回しにすればいいです。その人たちは比較的長い間ギョーカイと言うライオンの餌食の役を務める逃げ遅れのシマウマです。シマウマとしての天寿を全うさせてあげましょう。
そして花風社は、足の速いシマウマさんたちを歓迎します。選択肢を用意して待っています。長城の外で。
そもそもこれを読んでいる中で、途中まで花風社が言っていることインチキだと思っていた人、でも今は黄色本芋本人間脳根っこ本読んで実践している人たくさんいるでしょう。
それでいいのです。
曲解方面はほっとけばいいのです。それがその人の現時点での実力なんだから。本当はまず曲解を治すよう、つまり負け惜しみを言わなくても自我が保てるよう、背面へのケア等から始めた方がいいけど、そこまで聞く耳も持たないのならほっとけばいい。実力に応じた人生を送らせてあげればいいんです。彼らは「最後に治る人」あるいは「最後まで治らない人」です。そんな人たちに時間を使うほうがもったいないですね。
先に花風社の存在に気づいてトクをした皆さんの仕事は何かというと
とにかく治ること。
そして伝えること。
中には栗本さんを定期的に地元に呼び始めた人たちもいます。でもそこまでできなくても、今いる場所でできる伝達をすること。オンラインでもオフラインでもいいでしょう。それが、曲解と言う負け惜しみに歯噛みするより、ずっと有効な時間の使い方です。
いまだに「花風社インチキだ」と広めたくてたまらないギョーカイ人に対して喧嘩を売らないまでも(それは私がやりますから、読者の皆さんは別に喧嘩する必要はありません)「うちは助かった」というエピソードを様々なチャネルで広め、「みんなちがって、みんないい」を本当の意味で実践することです。そうすると「治りたい人」から近づいてきます。治りたい人は、曲解クラスタより、ずっと治りやすいです。
「発達障害、治るが勝ち!」から抜粋しておきますね。有料読者にしか読ませたくない部分もあるので、一部文の途中を省略して出します。
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エビデンスエビデンスの人たちは一面切り取り型の療育方法を広め、一面切り取り型マインドを持った後進を育てる。そこで中途半端に育った人材には就職先も必要だろう。後進の職場開拓のためにも攻撃的に、エビデンスを振り回す。
ところがよく観察してみると、エビデンスエビデンス姦しいわりにはそのエビデンスもあまりエンドユーザーには具体的に提示されない。誰も見たことのないエビデンスを振り回す支援者と、具体的に見たこともない「エビデンスのある方法」という支援者のセールストークに乗っかって、いつまでも改善が見えなくても、あるいは改善が見えてもまたすぐ崩れやすくても、唇かみしめてしがみつく保護者。「エビデンス」という言葉は実はただの枕詞だと気づくと、その姿は滑稽である。
そしてその「エビデンス祭り」に参加するもしないも、個々人、個々の家庭の主体的な選択なのである。
エビデンスがある、とドヤ顔して、私たちが「治った」と喜ぶのを「エピソードにすぎない。身体アプローチにはエビデンスがない」とこき下ろす人たちに指摘しておきたい。
あなた方のやり方に惹かれないのはその「エピソード」がないからである。あるのはエビデンスがある、という主張だけで、実際に良くなった人のエピソードがない。むしろ、エビデンスにしがみついている人はそろって成果を見せていない。それが私たちの目に映っている現実である。
エピソードがない。だから信用できない人もまたいるのである。
みんなちがってみんないい、なのだから、エビデンスを選ぶ人もいれば、エピソードを選ぶ人もいるのである。
信用してほしかったらエピソードを出してみろ!
てなもんである。
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「発達障害、治るが勝ち!」
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