さて、花風社クラスタ限定記事です。
ていうか花風社クラスタって何? って思うだろうし、その定義はまあ人それぞれでいいんですけど、一応この記事に関しては
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/0c/12dc2b1d88e6ceb8a30d0bd39b6a23c8.jpg)
「自閉っ子の心身をラクにしよう!」(通称黄色本・黄本)をすでに読んでいる方、という限定をさせていただきます。そうじゃない人は読まないでね。というかもしどっかブログとかツイートとかでこの限定記事に言及している人が黄色本読者じゃなかったらただよみの請求書を送りますよ。一億円くらい? それか後付けでいいので本買ってください。本は1500円+税です。
というわけで花風社クラスタじゃない人は帰った帰った。
===キ===リ===ト===リ===線===
さて、野次馬がいなくなったところで、花風社クラスタの皆さん。
実は今回の対談を経て、私が今うっすら(婉曲表現)思っているのは
「発達障害は治るけど、医療はむしろ治療を妨げるのではないか?」ということなんですね。
というか以前から考えてきたことを、はっきりと明文化できるようになった、というのが正しいかもしれない。
私の10回にわたるシリーズを読んで、ある読者の方が
「杉山センセ拒否があったけど、(浅見さんがこき下ろしてくれて)いやな気分が吹っ飛んだ」とおっしゃっていました。
私はそれにとても興味を持ったんですよね。
なぜなら私の目から見て、その方はお母さんとしての本能が賢い方だからです。
重度のお子さんを、とても気品のある青年に育て上げている。
それで「なんで杉山先生に拒否感が?」とお尋ねしたら、まあ著作等の印象もあるんだろうけど、
NHKでやった東田さんの番組で気分が悪くなったそうです。
見てないし私。
なんかね~私、NHKの発達障害系の番組ってダメなんです。見ると毎回、悲しみがこみあげてくるから。東田さんくらい見ようよ自分、と思いつつ見ていない。そして何があったの? ってきいたら、中で杉山先生が東田さんにMRIを撮るよう説得なさったとか?
東田さん迷われたとか?
うわぁ、それは見なくてよかった。それは今回決着をつけた杉山トラウマが再燃しそうな展開なので、私はやはり見ません。自分の身を守るためにね。
迷われた東田さんがなんのために撮るのか、ときいたら後進のため、と答えたとか。
東田さんかわいそう。立派だけどかわいそう。
これこそ研究者が当事者の主体性を奪う現場ですね。
そこで思ったのです。医療っていうのは本質的に他人の主体性を奪う、ということを原罪のように抱えているんだな、と。
私の身体が病気をしないのは、その医療から逃走しようと身体が選んでいるから、っていう気もします。私は主体性の毀損に敏感に反応する人なのでね。
そしてその原罪を意識しつつなんとか目の前の人をラクにしようと努めていらっしゃるのが神田橋先生。杉山先生にはないんでしょうね、そういう医療がその成り立ちの中に抱える原罪に対する罪の意識は。じゃなければ東田さんにそういう真似はできないはず。撮りたいとしても、番組の中で追い込むようなそういう真似はしないはずです。関係性を作ってから、見世物にならない場面で心をこめてお願いするはずです。
皆さんもね、置き換えてみるといいですよ、東田さんをわが子に。
そうしたらその行為の残酷さがわかるでしょう。
東田さん自身にはメリットのない検査のためになぜ身体に負担をかけなければいけないのか、と私が信頼しているそのお母さまは憤慨しておられました。
佐々木正美先生には信者()がいますね。
神田橋先生にも信者()がいますね。
でも杉山信者ってきいたことないですね。いるとしたら研究者の世界でしょうね。
番組の中で東田さんを追い込んで画像とって杉山先生GJ! とか言ってる鬼畜な研究者の集団が一山いるような気がしますよ。
愛甲さんはどう思うんだろ。
愛甲さんは別に杉山信者ではないけれど、臨床家としての杉山先生を尊敬しています。その愛甲さんが今回の対談レポを読んで送ってくださった感想の一部をご紹介します。
前略
(2) 主体性を奪われる哀しみは人類の歴史そのものです。民主主義の時代を生きるようになった我々は、今、ようやく、主体性を奪われることに対して怒りの声をあげられるようになりました。障害者の歴史は弱者の歴史です。花風社や神田橋先生の偉業は、「障害があってもなくても、人は本来尊ばれるべき存在であり、ひとりとして100%ダメな人間はいない」といったことに加えて、資質を開花させる方向で修業を続けていくことこそが、その人の主体性を取り戻す最短の道であることを指し示してくれていることだろうと考えます。
中略
(4) 発達障害がある人の多くには愛着障害があります。愛着障害があるということは、主体性が育ちづらいことでもあるわけです。身体アプローチや「選んだり決めたりする体験の積み重ね」が発達障害のある人を主体的に変えていくのは、愛着障害が社会性の育ちの根っこの部分を侵害しているからです。赤ちゃんは、言葉の内容よりも養育者とのスキンシップや声のひびき(体や気持ちのやり取り)によって社会性や主体性を育んでいきます。身体アプローチが有効なのは、かつて赤ちゃんだった自分と今の自分とがお互いにスキンシップ(イメージ)を通じ合わせて、体を緩めることができるようになる(主体性の基盤である安心感の体得が可能となる)からではないかと思います。
後略
なるほど。発達障害の人たちは主体性の育っていない人たち。これは気づかない視点でしたが、その通りでした。
「発達障害を治す」ということをやたら被害的にとるのもその所以でしょうね。
勝手に「自分ではない誰かになれ」って受け取る様子は滑稽で仕方ないですね。
「どこを治してどこをそのままでいいか主体的に選び取れるんだよ」と本能的にわからないし誰も彼らに教えてあげてない。
だって杉山先生にもわかっていないんだもん。
うちが森口さんの「変光星」を出したとき、辻井大先生はその押し付けあとがきの中で
「中年期以降も書いてほしい」と言っていた。
書いたら面白いでしょうね。
でもギョーカイはそこから何も学ばないでしょう。学ぶ気もないでしょう。
彼らは本質的に「発達」を見たくない人たちだからね。
そしてニキさん、藤家さんはアラフォー、アラフィフの実像を本にしてますよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/10/f60546b23aebfb517d727ec3039253f1.jpg)
なんでこういうおめでたい表紙にしたかっていうとね
発達を寿いでですよ。
神田橋先生はこの本を読んで
「またいい本ができたねえ」とおっしゃいましたよ。
でも杉山先生は、まだセシールのパジャマのよそいきに見えるやつを一生懸命選んで外出していたころのニキさんの姿を後生大事にして(まだ外出着になれてなかったんです。人前でぽんぽん頭叩きの自傷してたころですよ)
黴の生えたニキ・リンコ語録で回してる。
おしゃれなアラフィフマダムになったニキさんの姿は見ようともしない。
それこそが発達であるのに。
その後彼女が、この社会の中でラクをするために、手抜きをするために積み重ねてきた努力も知らずにね。
今考えると
ニキさんは主体性がある人なんだな。
彼女は自分の中の自閉文化の好きなところを上手に遺しつつ
不便さは解決してきた人だからね。
それは一次障害にももちろん及んでる。
そして人が発達していくのに絶対必要な主体性と医療は本質的に利益を共有しない。
っていうことに自覚的で、それを乗り越えようとされているのが神田橋先生、っていう気がします。
10年前、「もっと支援があれば」というのが発達障害の人たちの共通のシュプレヒコールだった。
そして支援がそれなりにできてみれば
「あってもつかえねー」ってことがわかった。
でしょ?
支援はつかえねーけどほかに使えるものあるよ?
ってうのが「治ってますか? 発達障害」のテーマ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/b8/5c5d1009d6fcc031d7ec0122b75210ef.jpg)
そして今私たちは「治せる医者がほしい」と思っている。
でも私はもう、それを期待するのやめようと思います。
神田橋杉山対談を見たからこそ。
続く
ていうか花風社クラスタって何? って思うだろうし、その定義はまあ人それぞれでいいんですけど、一応この記事に関しては
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/0c/12dc2b1d88e6ceb8a30d0bd39b6a23c8.jpg)
「自閉っ子の心身をラクにしよう!」(通称黄色本・黄本)をすでに読んでいる方、という限定をさせていただきます。そうじゃない人は読まないでね。というかもしどっかブログとかツイートとかでこの限定記事に言及している人が黄色本読者じゃなかったらただよみの請求書を送りますよ。一億円くらい? それか後付けでいいので本買ってください。本は1500円+税です。
というわけで花風社クラスタじゃない人は帰った帰った。
===キ===リ===ト===リ===線===
さて、野次馬がいなくなったところで、花風社クラスタの皆さん。
実は今回の対談を経て、私が今うっすら(婉曲表現)思っているのは
「発達障害は治るけど、医療はむしろ治療を妨げるのではないか?」ということなんですね。
というか以前から考えてきたことを、はっきりと明文化できるようになった、というのが正しいかもしれない。
私の10回にわたるシリーズを読んで、ある読者の方が
「杉山センセ拒否があったけど、(浅見さんがこき下ろしてくれて)いやな気分が吹っ飛んだ」とおっしゃっていました。
私はそれにとても興味を持ったんですよね。
なぜなら私の目から見て、その方はお母さんとしての本能が賢い方だからです。
重度のお子さんを、とても気品のある青年に育て上げている。
それで「なんで杉山先生に拒否感が?」とお尋ねしたら、まあ著作等の印象もあるんだろうけど、
NHKでやった東田さんの番組で気分が悪くなったそうです。
見てないし私。
なんかね~私、NHKの発達障害系の番組ってダメなんです。見ると毎回、悲しみがこみあげてくるから。東田さんくらい見ようよ自分、と思いつつ見ていない。そして何があったの? ってきいたら、中で杉山先生が東田さんにMRIを撮るよう説得なさったとか?
東田さん迷われたとか?
うわぁ、それは見なくてよかった。それは今回決着をつけた杉山トラウマが再燃しそうな展開なので、私はやはり見ません。自分の身を守るためにね。
迷われた東田さんがなんのために撮るのか、ときいたら後進のため、と答えたとか。
東田さんかわいそう。立派だけどかわいそう。
これこそ研究者が当事者の主体性を奪う現場ですね。
そこで思ったのです。医療っていうのは本質的に他人の主体性を奪う、ということを原罪のように抱えているんだな、と。
私の身体が病気をしないのは、その医療から逃走しようと身体が選んでいるから、っていう気もします。私は主体性の毀損に敏感に反応する人なのでね。
そしてその原罪を意識しつつなんとか目の前の人をラクにしようと努めていらっしゃるのが神田橋先生。杉山先生にはないんでしょうね、そういう医療がその成り立ちの中に抱える原罪に対する罪の意識は。じゃなければ東田さんにそういう真似はできないはず。撮りたいとしても、番組の中で追い込むようなそういう真似はしないはずです。関係性を作ってから、見世物にならない場面で心をこめてお願いするはずです。
皆さんもね、置き換えてみるといいですよ、東田さんをわが子に。
そうしたらその行為の残酷さがわかるでしょう。
東田さん自身にはメリットのない検査のためになぜ身体に負担をかけなければいけないのか、と私が信頼しているそのお母さまは憤慨しておられました。
佐々木正美先生には信者()がいますね。
神田橋先生にも信者()がいますね。
でも杉山信者ってきいたことないですね。いるとしたら研究者の世界でしょうね。
番組の中で東田さんを追い込んで画像とって杉山先生GJ! とか言ってる鬼畜な研究者の集団が一山いるような気がしますよ。
愛甲さんはどう思うんだろ。
愛甲さんは別に杉山信者ではないけれど、臨床家としての杉山先生を尊敬しています。その愛甲さんが今回の対談レポを読んで送ってくださった感想の一部をご紹介します。
前略
(2) 主体性を奪われる哀しみは人類の歴史そのものです。民主主義の時代を生きるようになった我々は、今、ようやく、主体性を奪われることに対して怒りの声をあげられるようになりました。障害者の歴史は弱者の歴史です。花風社や神田橋先生の偉業は、「障害があってもなくても、人は本来尊ばれるべき存在であり、ひとりとして100%ダメな人間はいない」といったことに加えて、資質を開花させる方向で修業を続けていくことこそが、その人の主体性を取り戻す最短の道であることを指し示してくれていることだろうと考えます。
中略
(4) 発達障害がある人の多くには愛着障害があります。愛着障害があるということは、主体性が育ちづらいことでもあるわけです。身体アプローチや「選んだり決めたりする体験の積み重ね」が発達障害のある人を主体的に変えていくのは、愛着障害が社会性の育ちの根っこの部分を侵害しているからです。赤ちゃんは、言葉の内容よりも養育者とのスキンシップや声のひびき(体や気持ちのやり取り)によって社会性や主体性を育んでいきます。身体アプローチが有効なのは、かつて赤ちゃんだった自分と今の自分とがお互いにスキンシップ(イメージ)を通じ合わせて、体を緩めることができるようになる(主体性の基盤である安心感の体得が可能となる)からではないかと思います。
後略
なるほど。発達障害の人たちは主体性の育っていない人たち。これは気づかない視点でしたが、その通りでした。
「発達障害を治す」ということをやたら被害的にとるのもその所以でしょうね。
勝手に「自分ではない誰かになれ」って受け取る様子は滑稽で仕方ないですね。
「どこを治してどこをそのままでいいか主体的に選び取れるんだよ」と本能的にわからないし誰も彼らに教えてあげてない。
だって杉山先生にもわかっていないんだもん。
うちが森口さんの「変光星」を出したとき、辻井大先生はその押し付けあとがきの中で
「中年期以降も書いてほしい」と言っていた。
書いたら面白いでしょうね。
でもギョーカイはそこから何も学ばないでしょう。学ぶ気もないでしょう。
彼らは本質的に「発達」を見たくない人たちだからね。
そしてニキさん、藤家さんはアラフォー、アラフィフの実像を本にしてますよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/10/f60546b23aebfb517d727ec3039253f1.jpg)
なんでこういうおめでたい表紙にしたかっていうとね
発達を寿いでですよ。
神田橋先生はこの本を読んで
「またいい本ができたねえ」とおっしゃいましたよ。
でも杉山先生は、まだセシールのパジャマのよそいきに見えるやつを一生懸命選んで外出していたころのニキさんの姿を後生大事にして(まだ外出着になれてなかったんです。人前でぽんぽん頭叩きの自傷してたころですよ)
黴の生えたニキ・リンコ語録で回してる。
おしゃれなアラフィフマダムになったニキさんの姿は見ようともしない。
それこそが発達であるのに。
その後彼女が、この社会の中でラクをするために、手抜きをするために積み重ねてきた努力も知らずにね。
今考えると
ニキさんは主体性がある人なんだな。
彼女は自分の中の自閉文化の好きなところを上手に遺しつつ
不便さは解決してきた人だからね。
それは一次障害にももちろん及んでる。
そして人が発達していくのに絶対必要な主体性と医療は本質的に利益を共有しない。
っていうことに自覚的で、それを乗り越えようとされているのが神田橋先生、っていう気がします。
10年前、「もっと支援があれば」というのが発達障害の人たちの共通のシュプレヒコールだった。
そして支援がそれなりにできてみれば
「あってもつかえねー」ってことがわかった。
でしょ?
支援はつかえねーけどほかに使えるものあるよ?
ってうのが「治ってますか? 発達障害」のテーマ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/b8/5c5d1009d6fcc031d7ec0122b75210ef.jpg)
そして今私たちは「治せる医者がほしい」と思っている。
でも私はもう、それを期待するのやめようと思います。
神田橋杉山対談を見たからこそ。
続く