教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

jlj0011のblog やっちゃんも逝く!<本澤二郎の「日本の風景」(3510)

2019年12月02日 13時20分03秒 | 国際・政治

2019/12/02 07:13
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やっちゃんも逝った!<本澤二郎の「日本の風景」(3510)


<ロ事件で三木武夫首相と稲葉修法相に助けられた中曽根康弘幹事長>


 人間の運命はわからない。誰もわからない。幸運な人もいれば、悪運の強い人もいる。不運な人はたくさんいる。11月29日に中曽根さんが亡くなったという。12月1日のネット情報で確認した。101歳は政治家としては、最高齢なのか。彼の最大の危機はロッキード事件だった。児玉誉士夫・中曽根ルートを三木内閣が回避して助かった。法務検察の不正の最たるものだった。




 昨夜、書いたのだが、複写する場面で大半の記事が消えてしまった。


 しかし、平成の妖怪と命名したジャーナリストとして一言思い出を書き残しておきたい。




 大平側近の田中六助は、田中角栄から「犯人は中曽根」と聞かされていた。中曽根の大敵だった。中曽根は首相権限で、六助を幹事長に起用して、ロ事件に蓋をした。これは事実である。検察の堀田は悪人である。彼は検事総長候補に駆け上ったが、息子の失態を蓋するために辞任した。


 それはオウム事件に関与した息子のことで、石原慎太郎は国会議員を辞めたことと似ている。石原は血税泥棒であろう。




<首相になる前はやや支援した宇都宮徳馬と筆者>


 大平さんが40日抗争で敗れて、とどのつまりは、命を奪われてしまった。中曽根は後継者になろうとしたが、無駄なことだった。原因は財閥が信用しなかった。「変節漢」ゆえである。


 筆者が知恵をつけた。鈴木善幸内閣の行政管理庁長官でしょげ返っていたやっちゃんに、行政改革こそが中曽根天下の好機だと進言した。当時の財閥は、ややまともで、行革の推進を訴えていた。土光臨調はそのはしりとなった。


 財界の支持を得て、やっちゃんは鈴木後継に成功した。




 平和軍縮派の巨頭・戦闘的リベラリストの宇都宮さんも、首相になる前までの中曽根をある程度評価していたのだが。




<「改憲陰謀」「平成の妖怪 大勲位・中曽根康弘」で反撃>


 ナベツネを男にしたのは、宇都宮さんである。しかし、彼は読売新聞を改憲新聞にして、恩師を裏切った。宇都宮さんは「忘恩の徒」と断じた。


 首相になった中曽根も同じだった。改憲軍拡に舵を切った。レーガンに対して「日本列島は不沈空母」とわめいて、国民まで裏切った。




 このころからである。我が恩師は「権力に屈するな」と口が酸っぱくなるほど叫んだ。「ボロは着てても心は錦」の人生が始まった。


 「改憲陰謀」と「平成の妖怪 大勲位・中曽根康弘」の2冊を恩師に捧げて、抵抗した。宇都宮さんの旧制水戸高の後輩、剃刀の後藤田正晴は「わしの目の黒いうちは改憲させない」と公約した。




 かくして二松学舎大学の教授の椅子も逃げた。出版社の健友館は破産させられてしまった。自業自得である。権力に対抗すると金にも地位・名誉も無縁となる。これが我がジャーナリスト人生となる。




 知らなかったが、ナベツネによると、85歳で引退を強いられたことに大憤慨だったと証言している。ということは、我欲の塊だったことになる。




 とはいえ、人の死は身内や縁者は泣く。ナベツネだけではない。中曽根の金庫番はどうしているだろうか。最期をみとったであろうか。人間は、所詮一人では生きられないのだから。


(無事にブログに複写できるか、不安なので、この辺でやめよう。ネットの世界も素人には厳しい。昨日の北京レポートも半分、消えてしまったのだから)


2019年12月2日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・上海交通大学研究員)







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