『民主党出身の西岡武夫参院議長は16日の記者会見で、中国漁船衝突事件での船長釈放について「(政権は)検察に全部丸投げした形でこの問題をすり抜けようとしている。仙谷由人官房長官の責任は重い」との認識を示した。同時に「検事が判断して釈放したのか、国会として直接聞くべきだ」として、今国会中の那覇地検検事の国会招致を各会派に働き掛けたい考えを明らかにした。 西岡氏は「(政権は釈放判断を)検察がやったとなお言い通そうとしている。各会派は政府の明快な考え方をあらためて問うべきだ」と指摘。「仙谷氏は弁護士で法廷闘争的な答弁をしているが、政治的には通らない。責任が問われてしかるべきだ」と強調した。 衝突映像に関しても「(流出で)かなりの人が見ているのに、なぜ一般公開しないのか。納得いかない」と批判した。 また、行政刷新会議の「再仕分け」をめぐっても「自民党の概算要求ならともかく、自分で概算要求をつくっておきながら仕分け対象にしているのは言葉もない。論外だ」と酷評した』2010年11月16日22時12分 / 提供:2010年11月16日22時12分>共同通信
日本の政治家 西岡 武夫 にしおか たけお | |
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生年月日 | 1936年2月12日(74歳) |
出生地 | 長崎県長崎市 |
出身校 | 早稲田大学教育学部卒業 |
前職 | 長崎新聞社論説委員 |
所属政党 | (無所属→) (自由民主党→) (新自由クラブ→) (無所属→) (自由民主党→) (改革の会→) (自由改革連合→) (新進党→) (自由党→) (民主党→) 無所属 |
称号 | 文学士(早稲田大学・1958年) |
親族 | 西岡竹次郎(父) 西岡ハル(母) 倉成正(従兄) 倉成正和(従甥) |
公式サイト | 西岡武夫のホームページ |
第28代 参議院議長 | |
任期 | 2010年7月30日 - 現職 |
第112代 文部大臣 | |
内閣 | 宇野内閣 |
任期 | 1989年6月3日 - 1989年8月10日 |
内閣 | 竹下改造内閣 |
任期 | 1988年12月27日 - 1989年6月3日 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 2回 |
任期 | 2001年7月 - 現職 |
選挙区 | (旧長崎県第1区→) 長崎県第1区 |
当選回数 | 11回 |
任期 | 1963年11月 - 1998年2月 |
西岡 武夫(にしおか たけお、1936年2月12日 - )は、日本の政治家。参議院議員(2期)、参議院議長(第28代)。
衆議院議員(11期)、新自由クラブ幹事長、文部大臣(第111・112代)、自由民主党総務会長、新進党幹事長、自由党参議院議員会長、参議院議院運営委員長などを歴任した。
経歴
生い立ち
長崎県長崎市に父・西岡竹次郎と、母・ハルの子として生まれる。海星中学校では同期に美輪明宏がいた。長崎県立長崎東高等学校を卒業後、早稲田大学教育学部社会学科に入学。雄弁会入会。雄弁会の代表幹事を務めた。早大在学中より、父・竹次郎が創刊した長崎民友新聞の経営に携わる。1958年(昭和33年)に早稲田大学を卒業。1959年(昭和34年)には長崎日日新聞社と合併し、長崎新聞社を発足。長崎新聞社では常務取締役社長室長、論説委員などを歴任し、長崎青年会議所広報委員長、長崎県青年団連合会の初代会長なども務め、長崎の若手経済人として活動する。無所属~自民党 1963年(昭和38年)11月、衆議院議員を5期務めた父・竹次郎と、吉田茂が率いる自由党初の女性参議院議員として婦人参政権運動に尽力した母・ハルの地盤を引継いだ世襲候補として第30回衆議院議員総選挙に無所属で立候補。4位当選を果たし、自民党の追加公認を受ける。自民党青年局長、文教部会長をつとめていた。
新自由クラブ
ロッキード事件を期に、衆議院議員の河野洋平、田川誠一、山口敏夫、小林正巳、参議院議員の有田一寿と共に、6人で自民党を離党。1976年(昭和51年)6月25日に「保守政治の刷新」を掲げて新自由クラブを結党し、西岡は幹事長に就任した。新自由クラブは、結成直後の第34回衆議院議員総選挙で、自民党に不満を持っていた保守層の受け皿になる形で、一挙に17人を当選させた(さらに追加公認1人)。しかし、政策、党の路線をめぐり、野党として革新にも配慮を示す河野や田川と、あくまで保守主義を念頭に置く西岡、山口らとの間に亀裂が生じ、1979年(昭和54年)7月に西岡は単独で新自由クラブを離党した。1980年(昭和55年)12月に自民党に復党したが、1983年(昭和58年)12月の総選挙では落選する。
自由民主党-新進党
1986年(昭和61年)の総選挙で当選した後は宮澤派に所属。文教族としてキャリアを積み、1988年(昭和63年)に発足した竹下改造内閣で文部大臣として初入閣。続く宇野内閣でも文相に留任した。1989年(平成元年)、海部内閣で消費税の見直しが持ち上がった際、辞任した自民党税制調査会長の山中貞則に代わり、後任の税制調査会長に就任する。1990年(平成2年)2月には早稲田大学雄弁会の先輩で、同じ文教族である海部の強い意向で自民党総務会長に就任し、党三役入り。幹事長は竹下派の小沢一郎、政務調査会長は安倍派の加藤六月であった。のちに総裁の海部を含めた四人は自民党を離党し、新進党結党に至るが、この時期にその強い関係ができたと思われる。同年12月、党三役に加藤紘一を送り込みたい宮澤派は西岡に総務会長職の交代を求めるが、これを拒否したため、派閥から除名された。
政治改革が頓挫したのを契機に海部内閣が総辞職した後、海部を会長とする政治改革推進協議会を自民党に結成。1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙では、自民党から立候補し当選するが、政治改革推進派として執行部批判を強め、梶山静六幹事長が党内の混乱を収拾するために「結束前進の会」を作ろうとしたときはこれを「屋上屋を架すもの」と批判した。結局、西岡は同年12月に自民党を再び離党。改革の会代表、自由改革連合事務局長を経て、翌1994年(平成6年)に新進党結党に参画し、海部党首実現に動く。国会対策委員長、幹事長を歴任。小沢一郎を補佐するが、1997年(平成9年)に新進党は解党した。
自由党-民主党(現在)
1998年(平成10年)1月、小沢、海部、加藤六月らと共に自由党を結成し、副党首に就任。同年2月、高田勇知事が引退を表明した長崎県知事選挙に党内の慎重意見を抑えて出馬するも、同じく新人の金子原二郎に敗れ落選する。国政復帰を目指し、2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙に自由党公認で出馬するが、落選。
2001年(平成13年)7月、第19回参議院議員通常選挙に自由党公認で比例区から出馬し、当選。国政復帰を果たした。党参議院議員会長、参院会派「国会改革連絡会(自由党・無所属の会)」代表をつとめる。2003年(平成15年)、民主党との合流が決定すると、当初不参加の姿勢を示した。しかし最終的には参加を決断し、参院会派「民主党・新緑風会」常任役員・顧問に就任した。2006年(平成18年)、皇位継承問題で、皇室典範改正に慎重な立場を明らかにし、党内の保守系議員を中心に「皇室典範改正を慎重に考える会」を結成し会長に就任した。党内では渡部恒三と共に保守派の重鎮であり、党内の保守系議員で構成される永住外国人の地方参政権を慎重に考える勉強会にも参加し、外国人参政権反対を表明している。
2004年(平成16年)の年金未納問題の際には9年11か月間未納であったことが発覚した。
参議院議院運営委員長
2007年(平成19年)8月、議員歴が長く、国会対策に精通している点が評価され、参議院議院運営委員長に就任した。
同月9日、西岡は「次の国会からクールビズの申し合わせを廃棄し、本会議場、委員会室での議案審議に際してはネクタイ着用を義務化したい」と提案した。「制服を着用して国会見学する子どもがいるのに、議員がリラックスした格好をしているのはいかがなものか」と説明した(8月10日付の各全国紙)。これに対し、すでにクールビズが3年目になり広く浸透していること、参議院先例集にクールビズ以前の1951年(昭和26年)8月から半世紀以上にわたり「ネクタイは外していい」という申し合わせが確認されていることなどから、与党のみならず、他野党や身内の民主党内からも批判が出て、この提案を撤回することとなった。
この突然の提案については、環境大臣としてクールビズの旗振り役を務めたのが小池百合子であったことから、民主党参院国対幹部の見方として「新進党、自由党と行動を共にしながら、自民党に移った小池への意趣返し」ではないかといった見解も報道されている。
2009年(平成21年)10月23日、岡田克也外務大臣が閣議の席で、国会開会式での天皇の「お言葉」について「陛下の思いが少しは入った言葉がいただけるような工夫を考えて欲しい」と宮内庁に求めたのに対し、「天皇陛下の政治的中立を考えれば、お言葉のスタイルについて軽々に言うべきではない。極めて不適切だ」と批判した(なお天皇の「お言葉」の文面の検討は宮内庁の業務ではない)。
2009年(平成21年)11月17日の記者会見で、2008年(平成20年)3月に武藤敏郎元財務次官を日銀総裁に起用する国会同意人事案に反対したことについて当時の自公政権と対決するのが主眼であったと説明し、「財金分離を理由に不同意としたのは、今でもおかしいと思っている」と語った[1]。翌18日に江利川毅前厚生労働次官を人事院人事官に起用する政権の方針が脱官僚に矛盾すると批判を浴びていることから、過去の過ちを率直に認めることで、江利川人事案に理解を求める狙いがあったとされた。
2010年(平成22年)6月16日、国会最終日で野党が提出していた江田五月議長不信任案、菅直人内閣総理大臣問責決議案、荒井国務大臣問責決議案について、与党民主党の意向を受けて委員長職権で本会議を流会とし、国会最終日に参議院本会議が開かれない異例の事態となった。
参議院議長
2010年(平成22年)7月の第22回参議院議員通常選挙で民主党が大敗し、民主党は参議院で過半数を割り込んだ。しかしなお参議院第一党であり帝国議会以来の慣行では議長を出すこととなっている民主党は西岡を議長に推すものの、前国会での江田参院議長、西岡参院議院運営委員長らの国会運営に反発する自民党執行部とみんなの党は自民党からの議長選出を主張する。しかし野党共闘は不調に終わり、自民・みんなの2党は議長選挙への野党統一候補の擁立を断念。西岡を江田五月の後任の参議院議長とする流れが固まり、自民党は副議長候補を擁立することになった。西岡は21日、議院運営委員長として理事会で国会運営について野党に謝罪した。しかし、通例では全会一致で決まる議長選挙では西岡は過半数の139票を獲得したものの、白票88票、江口克彦(みんなの党)が11票、尾辻秀久(自由民主党、副議長に就任)が1票と異例の投票結果で、参議院議長に就任した。なお、参議院議長就任に伴い離任した参議院議院運営委員長の後任には、自民党の鈴木政二参院国会対策委員長が就任し、議院運営委員長のポストは野党に明け渡すことになった。
参議院議長として史上初めて記者会見の定例化に踏み切り、「一票の格差」是正等を目指し全党派の代表が参加する会議を新設するなど、参議院の改革に取り組む。
9月の民主党代表選挙に関し、候補者の出馬表明前の8月23日に「菅直人首相が続投を表明すれば、対抗する候補者は相当の覚悟が必要だ。党を去ることも選択肢に入る。」と発言し小沢一郎の立候補を牽制する。中立性の求められる議長の職にありながら党派的スタンスを表明した理由として「日本の政治には、もう『余白』が無くなっているからだ。」と述べた。ただし自らの投票権は棄権することもあわせて表明した。
民主党出身ながら、菅改造内閣に対しては参議院議長として是々非々の立場を採る。内閣総理大臣菅直人の外交政策について「作戦、展望を持っていない」[2]と痛烈に批判するなど、閣僚らに対し苦言を呈することも多い。衆議院側で国土交通大臣馬渕澄夫や内閣官房長官仙谷由人らに対する不信任決議案が否決された際には、「責任は官房長官のほうが重い」[2]と指摘している。さらに、尖閣諸島中国漁船衝突事件をめぐる仙谷の答弁について「法廷闘争的な答弁はしているが、政治的には通らない」[5]と批判した。これを受け、仙谷は「参議院の議長が言っているのだから、重く受け止めたい。別に反論はない」[6]とコメントした。
人物・エピソード
- 小学生の頃から父に憧れて政治家志望だったので、小学校5年生から、同級生全員(約300名)に毎年年賀状・暑中見舞いを送っている。
- 中学校は中高一貫の私立海星中学校に入学したが、選挙の際に役立つよう知り合いを増やしたいと言う理由で、わざわざ高校受験をして、長崎東高校に進学している。高校進学の際には、父の母校である早稲田大学志望と言うことで、東京の高校受験も考えたが、父の「政治家になるなら、いまのうちに、地元にたくさんの友達を作っておけ」との言葉に従い、地元の長崎東高校に進学した。
- 身だしなみや礼儀に厳格で、国会の本会議場は大変神聖な場所だと言う考えに徹しており、ある若い議員が紺のブレザーとグレイのズボンで議場に入るのを見て、「あれは許せない。神聖な議場には揃いのスーツで入るべきだ」と苦言を呈したこともある。前述のように国会内でのクールビズにもあまり賛成していない。真夏でもスーツとネクタイを着用している。
- 人前で食事をする姿を晒すのは恥ずかしいと言う考えを持っており、自民党総務会長在職中、選挙の応援や講演で地方に出張した際、時間がない時は移動の乗り物の中で弁当などを食べなければならないが、決まって「僕はいいよ」となるので、同行した党職員も総務会長を差し置いて弁当を食べるわけにもいかずに、困ったことがあると言う。
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