柴又の老舗「川甚」の秘話、全公開 コロナはつらいよ、31日で231年の歴史に幕
東京新聞2021年01月29日11時00分

明治の文豪にも愛された老舗、寅(とら)さん映画の舞台、川魚料理の名店―。どの代名詞も一級品だ。31日で創業231年の歴史に幕を下ろす東京・柴又の料亭「川甚(かわじん)」。江戸から令和にまたがる長い歩みは、後世に伝えたい秘話であふれている。
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◆川の描写は川甚で
寛政年間の1790年に創業。目の前を流れる江戸川と初代甚左ェ門の名前から一文字ずつ取って「川甚」と名付けられた。水上交通が主流だった時代。客はマイカーならぬマイボートで乗り付け、そのまま座敷に上がって新鮮なコイやウナギを堪能した。
明治に入ると、文学作品で江戸川を描写する際、川甚の座敷から見た風景を書くのが定着する。発端となった幸田露伴は「付焼刃(つけやきば)」で、舟が行き交う初冬の江戸川を「対岸は霜枯れ時ながら緑色を留(とど)め」などと記した。
夏目漱石の「彼岸過迄(ひがんすぎまで)」や谷崎潤一郎の「羹(あつもの)」にも実名で登場し、文豪に愛されていたのがうかがえる。今も館内には松本清張や三島由紀夫らが来店時にしたためた直筆サインが並ぶ。
◆タコ社長が乗り付けた玄関も健在
1918(大正7)年、土手にあった建物は河川の改修で現在の場所に移った。その後の発掘調査では、幕末のものとみられる食器がこの辺りで多く見つかっている。とっくりの底には墨で「川甚」とあった。
64年には4階建てに建て替えられ、客室から手こぎの舟が行き交う「矢切の渡し」を一望できるようになった。都会の喧噪を忘れさせる穏やかな景色が、人々の心を癒やしてきた。
69年に柴又を舞台にした映画「男はつらいよ」が公開されると一躍、川甚の名が広まった。第1作では寅さんの妹さくらの結婚披露宴会場として描かれた。
仲人のタコ社長が原付きで乗り付けた玄関は、半世紀を過ぎた今も変わらない姿で客を迎えている。8代目の天宮一輝さん(69)は一日がかりとなった撮影の日を「正面玄関が使えないので、お客さんに頭を下げて裏口から入店してもらった」と振り返る。
◆コイに利息はつかない
名物は東京では貴重なコイ料理だ。調理場の脇に日本庭園のような立派ないけすがある。このいけすこそが川魚特有の泥臭さを抜く秘策だった。井戸水をため、仕入れた活魚を泳がせる。都心ではまねできないスタイルで食通たちをうならせてきた。
天宮さんが先代の父の教えを明かす。「お金は銀行に預ければ利息がつくが、川魚はいくら置いても鮮度は増えない。だから作り置きは絶対するな」。37歳で後を継いで以降、毎日仕込み、毎日売り切る、それを理想にやってきた。
川魚への愛は、こんな数字にも。2つある電話番号の下4桁は「5151(コイコイ)」と「2727(フナフナ)」。トラックのナンバープレートも「5151」で天宮さんが申請した。「窓口で5151が空いているか聞いたら『禁忌だ』とくぎを刺されたよ。『来い来い』と追突を呼び込みかねないってね。でも抵抗はなかった」とあっけらかんと語った。
◆「店は預かり物だから」
売り上げの要だったバスツアー客や冠婚葬祭などの会合はコロナ禍で激減した。昨年夏ごろ、天宮さんの脳裏に閉店がちらついた。「自分の代で終わらせてたまるか」。見えもあったし、世間体も気にした。あらゆる支援策を申し込み、光熱費も節約してもがいた。
葛藤の末、決め手になったのは客への思いだった。「これ以上気持ちが追い込まれたらお客さんと向き合えなくなってしまう」。昨年12月20日、従業員を集めて閉店の方針を伝えると、菩提寺に向かい、「バトンをつなげず申し訳ありません」とわびた。
江戸の食文化を伝えてきた名物料亭はこれで幕引きとなる。天宮さんは「創業から直系で受け継いできたこの店は私にとって預かり物。他人に譲ることは考えられない」と打ち明けた。老舗を背負う重圧は相当のものだったのだろう。「後悔はない」と繰り返し、大きく息を吐いた。