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福島県立安積高等学校桑野会名簿届く。昔懐かしさと、現罰の怖ろしさ。途中から日蓮正宗の大仏法論へ

2024年08月28日 12時59分06秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 我が家に本日、福島県立安積高等学校の安積桑野会から、待ちに待った会員名簿が届いた。

 これは過日、既に郵便局に払い込みを済ませて、届くのを今か今かと待っていたものである。

 ここに記されている、まずは学校職員名簿を見てビックリした。私らまでの学校長から何から、その後まで、皆、ほとんどが逝去、物故者となっていた事にだ。

 それに、私が嫌いだった、私が意地悪をされたと個人的に感ずる、それら教職員の一人も、これが怖ろしい事に、逝去、となっていた事実だ。

 それに、生徒欄、生徒の名簿でも、私に対して、悪事を為すというのか、事実上、イジメに近い事を為したりした人も、ほとんど残らず、逝去、か、(行方)不明、となっている。一時的には、名誉ある学校・会社・団体に入ったり作ったりしたものが。

 この現実をこれを見てこれを思うに、私は、私自身を、一人の日蓮正宗の仏法者、仏様の子供、仏のお使いの一人一分と任ずる者だが、その時からも今に至るまでにも、何者か、詰まりは、仏様の加護には増し加え与えられていた事となり得る証左となり得るものではないのか。善業悪業だ。現罰だ。現証だ。まさしくこれは。

 だから、今も、政治の世界、それ以外の実生活でも、私にも憎い人もいる。確かにいる。しかし、これとて、この世の出来事は一瞬で変化(へんげ)し、変わり得る世の中なのだ。最終的には仏様、御本尊様が冥の照覧で、照らし出してくださる。

 自分は何一つ、手を貸して、手を汚している必要などどこにもない。勝手に自動的に、それらは、ベルトコンベアにのって終着点に行くが如くに、自ら身を持ち崩して、滅び去る。

 それがこの世の仏法仏教の定理だ。諸行無常だ。盛者必衰の理をあらわす、だ。

 ここで重要なのは、一切、御本尊様には呪詛、恨み言などは一切合切決して祈らぬ事である。こちらの精神性までが穢れてしまう。それじゃあ、邪教創価学会の祈りと何一つも変わらなくなってしまう。バカな祈りはしない事である。全ては御本尊様、天に潔く任せる生き方。

 それに比べて、呪詛して恨み言を祈る、創価の祈りの欠陥については、論を又の機会に譲りたい。

 天網恢恢疎にして漏らさず、の世界なのである。まさしく。

 ボブディランが、歌「時代は変る」の中で「先の者が後になり、後の者が先になる」とのフレーズを残している。

 これはこの思想は、基本、「聖書」がその典拠だが、聖書も、言う事は言う。

 しかし、私は、日蓮正宗の、御本仏宗祖日蓮大聖人様の「三世永遠の生命論」「宿命転換論」「後生善処」「生死即涅槃」「煩悩即菩提」「事の一念三千の法門」「破権門理の折伏破折論・仏道修行・実行実践編」の方に魅力を非常に感ずる。というより、命を懸けたい。これこそに、正に。まさしく。

 こうして私が、身を生き永らえられているのも、三歳ころか、家の隣の車道にて、大型バスに轢かれて重傷を負った我なれば、この世に生きているのが、何かの縁の不思議である。全くの不思議である。

 それを、宗祖日蓮大聖人様は御書の中で、こう仰る。

 「善からんは不思議、悪からんは一定とをも(思)へ」(「聖人御難事」一三九八頁)

 「難来たるを以て安楽と意(こころ)得べきなり」(「御義口伝」=「就註法華経口伝上 安楽行品五箇の大事 第一 安楽行品の事」一七六三頁)
と示されたのである。

 本来ならば、不具の身で、重い身体障碍、否、命にも及ぶ大難に遭ってもおかしくない所を、私は、心の病という、十代後半で発症した、正に「転重軽受」という、重きを転じて軽く受く、であり、その病すら普段は感じぬ程の、極めて軽症の、この毎日の軽快な生活を満喫享受しているのであるからして、これに多大なる感謝を捧げ、頭(こうべ)を垂れねばなるまい。素直に。心から。愚直にも。

 そして、これは私が重々、仏法の大事を預かる者として言わなければならない事は、何か、自分に不都合な事でも、或いは、何か、自分に利する事があろうとも、まさしくそれこそ、

 「善からんは不思議、悪からんは一定と思へ」であり、決してみだりに、自分の御蔭で、せいで、こうなった、ああなった、などと騒ぎ立てぬ事である。

 全ては御本尊様の御照覧の下、仰せつかったままに、是は是、非は非、と、黒白を決するが如くに、決して自分の御蔭だなどと言ってはならぬ。

 それではわたくしが増上慢、慢心の誹りを受けてしまう。それだけは避けたい。私が仮初にも、死んでも生きていたとしても。

 それこそが、この日蓮正宗の大法興隆への、一助となれば幸いである、とばかりに、今日も私は、生き続ける事に意味がある、この世は生きてなんぼ、との念慮から、正にこの世の中を、生きて生きて生き抜いてやろう、と思いつつ、まさしく今日を又、楽しく生きるのである。

 要するに、結論としては、人を恨んでばかりもいられない。人はいつかは死ぬ。憎い奴も死ぬ。この身も滅びる。 必ずに。それが仏法の方程式、定理、定め、だ。

 悪い事した奴はうんと苦しんで死ぬ。その死相を見れば死後どこへ行ったかが判る。地獄だ。地獄はこの我が身の内にある。悪党の創価学会池田大作・顕正会浅井昭衛の情けない最期を見れば全てが判る。

 その代わり、良い事をした人は、特に日蓮正宗の信徒、縁した人は善相で、死後、安らかで、死後硬直もなく、その身は柔らかき事、とろめんの如し、と大聖人様も大いに褒め、仰る。

 この死の論理、定めは人とても動物である以上、逃れる方法はない。しかし人は、十界の中の、畜生界よりは上位の存在である。人の上には天界が控えているが、この世では順に下に降りれば、喜びは天、平らかなるは人、愚かなるは畜生、争うは修羅、貪(むさぼ)るは餓鬼、瞋(いか)りは地獄。ここまでが六道。これらをぐるぐる回る境涯を「六道輪廻」と仏法ではいう。

 人界はちょうど、十界の内の、真ん中に位置する。

 その逆に天界の上に、次第に上がって、声聞界、縁覚界、菩薩界と仏様になる為の修行段階の世界が来て、最後に最高最上至高至宝至上の存在の、この世の最高の悟りの境地、正に一仏乗の、「仏界」があり、具わる。

 この「仏界」を現じている時とは、我ら日蓮正宗信徒僧俗一同が、大御本尊様から伝わる正統正真の流れをひく御本尊様の御前で五字七字のお題目、南無妙法蓮華経と唱える時こそが、正に「仏界」を湧現している時だとこそ言えるのである、これはまさしく。

恐々謹言。以上。よしなに。wainai

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