Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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私の、怒り、の気持ちについてケジメをつける!―自身の心のコントロール、怒りとの戦いむしろ、上手に避けて、怒りに有利に自分が立ち回る事

2023年10月13日 20時20分22秒 | 人生訓・人生論・人の生き様・年末年始賀正・正月祝・祝誕生日・記念日・祝祭日旗日
 長文失礼、私事ながら、非常に御無礼仕ります。

 我々、日蓮正宗を代表とする仏教徒は、すべからく、怒りの感情は、起こしては成らざるべきもの、それはすなわち、「貪瞋痴(とん、じん、ち)」、むさぼり、いかり、おろか、の三毒に当たり、この三つは、仏教上、最大の悪事、大罪である。
 特に、怒りは地獄、と呼ばれ、地獄界に通ずることから、これは戒めなければならない。
 しかし、私などは、これは昨日、栃木のKさんと電話でお話したのだが、その中で、彼は、私がその前日に発した言葉を聞き逃さなかった。
 それは、私いわく、「怒りを起し、怒りを発し、相手を怒鳴るなり、すると、スカーッとする」の一言である。
 これを引いて、ここまで言うのはもう、その世界、詰まりは、地獄界の住人そのもの、とまではKさんは言わなかったが、とにかく、重大な発言であり、それらを無くす、自身、自分を改めたいならば、「今こそ、一心にお題目だよ、○○さん(私の事)!!」とKさんは強く薦め、言う。
 私は、それは宗教に誘い込む、お追従(ついしょう)、いつもの、宗教論なんでしょ、それとも、今時でも、お酒でも飲んで酔っているの?と私が軽く言うと、随分、それとは違う、私を心配した風であり、問題が深刻な感じが次第に私の身を襲う如くに、自分事として、実感し出してきた。

 それについては、私はここ一週間くらい、通販関係や、運送業者と、怒りのもめ事があり、怒鳴る感じの感情の乱れがあり、これは昨日の訪看、訪問看護の、看護師さんの長の方ともそれに付いて語り合い、私に、それらを看護師さんが言うには「いつも怒る事によって、かなりの損をしている、それにより重い損失をこうむっている。被害は他に向かっているのだが、その源は○○さん(私)であるが、一番損をしているのが又○○さんだ」と言われたばかりであった。
 そうして、その怒りが、今は穏やかでいる○○さん(私)が、怒り出したら、もしかしたら、もう二度と来なくなるかも知れない、と看護師さんは脅すように言った。次第に私も不安になる。

 この問題に、上手く取り組み、勝利し解決しなかったら、私の立場も危うくなる、と次第に疑心暗鬼となる私がその場にいた。

 今日も、今度は、私の相談員の、A相談室のSさんに電話で今朝話すと、その時の語気の荒さからか、又もや、私がコワい感じがする、と言う始末である。

 それらについて、又、栃木のKさんに話すと、一番は、私がどうしたいか、その結果、今は、それら、怒る事をやめたい、と思うならば、相手の気持ちに寄り添う事、自分がされた場合の事を考えてみる、等々、色々話された。
 昨日の、訪看さんのお話では、怒るのをやめたければ、以前私が買ったと言っていた、電子書籍の「アンガーマネジメント」の本を、もう一度読み返してみたら、と言う。

 しかし、栃木のKさんは、私(Kさん)も一度、それらの本を読んで研究した事もあるが、一番の希望の特効薬は、我々日蓮正宗信徒ならば、何と言っても、「お題目」、これに限る、と。
 とにかく、お仏壇の前に座ってみる。そうして、一遍でも二遍でも三遍でもいいから、とにかく、お題目が一番のお薬だ、これしか効き目のある薬はない、と仰る。
 私も、事の深刻さに、自分の過ちに、自身を反省し返して見て、これは、怖ろしい事だ、とも思う。

 けれども、不思議と、私をコワがるのは、皆、私より年下、五十歳以下の人ばかりなのだ。
 私より年上の人、特に私を良く知るお寺の人々は、私をコワいとは思わない、と私自身が、強く感じる。それがウソだったら、誰も私に近寄りはしないだろう。
 彼ら彼女らは、年上であり、高みから俯瞰して、私の様な低みにいる、こんな私などにすら、仏教の慈悲の精神に基づいて、私の育成、励ましに非常に熱心である。その温かさ、親切さは、こちらが涙ぐましい、と痛く感じ思う程である。

 では、どうして、私はお寺以外の、特に年少の者には私は人気が無い、コワいと思われるのか?これが今の私の不満、不安の渦中・最中にいる原因。 

 反対に、私もそれら年少者、若い人達が、何かコワい、と感じ始めている。逆に、又、色々、コワい、と思われたらどうしよう、と、不安にも心配にもなる。

 これでは、相互不信だ。私は、二重人格で、お寺の人、特に高齢の方には優しく、外部にはコワく当たっているのか?
 私は別段、普通に振舞っていると思っているが、世間では、そうとは受け取られていないのか?

 しかし、私が、「感情家」、情にもろく、時には涙を流して、不正には慨嘆(がいたん)して、誰よりもその人を思って泣き叫び崩れ、笑える場所にはどこへでも行く、と言う、笑い声を出す時は、私ほど、笑い上戸はいない、一旦笑いだせば、本当に心底面白いと思えれば、私は楽しく笑い声をあげる。

 喜怒哀楽の幅の大きさ故の自身のセンチメントなのか?

 とにかく、お題目も、福徳も、功徳も、大歓喜が、今の私には、非常に足りない、不足感は全く否めない。

 これらそれらが、欲求不満となって、今の様な、怒りのやり場に困った、鬼の様な、地獄の業、相を現じているのであろう。

 もっと、十界中の最上階の、仏界・菩薩界を目指して、自分がへりくだる、この場合、人様を、自身の手段、目的化して、利用する事ばかり考えてはいやしないか、他人様とのお付き合いのルール、を学び直す必要性をひしひしと感ずる。 

 特に、栃木のKさんも、私が先ほど挙げた、「アンガーマネジメント」の本も、全く否定はせず、それらも有効だし、相当の効果がある、と仰っていたので、私は、もう一度、アンガーマネジメントの本を物色して見ても良いかな、と、今は切実に思い致している昨今だ。

 それに加えて、この「お題目」を最重視、最大限のお薬、怒りへの処方箋として、これを苦しい時の唯一の頼みとして、今、一番に、怒りを収めるツール、と言っては失礼だが、私にとっては、御護りの言葉、この身心を護る護法の旗印として、ここが正念場だな、今が踏ん張りどころであるからして、唱えるべきは御本尊へ向かってのお題目である。

 問題の端緒に就いたばかりの私ではあるが、あんまり怒りに振り回されずにこじらせずに、もしも、人様に迷惑を掛けてしまったならば(そうなる前にいち早く気付く事!)素直に謝るなり、御無礼にならないよう努力する責任は当然私に有る。

 結局、仏法は「自業自得」の自己責任の世界なのだ。元々、自業自得の言葉も仏教に由来している。全ては種をまく自分に原因がある、そしてそれを刈り取る結果責任が自分にあると喝破し見抜く、とこの世を俯瞰して見る習慣をつける事。この世の森羅万象までをも、冷徹に見通し見渡す智慧の産物が、大仏法仏教の、日蓮正宗の、総本山富士大石寺におわします、三大秘法の戒壇の大御本尊様なのである。それそのものその御方への絶対の信の一字に尽きる。

 これを正にいただく、自ら信徒の粘り強い、脳髄(なづき)を砕かんばかりの、ひたぶるの勤行唱題折伏の、自行化他行にて、今年の後、残り少ない二か月と少しを過ごす事に極め尽くしたい。 

 祈りを持って乗り切り、私に関わる人々全員には「和顔施」で穏やかに、和やかに、たおやかに、柔らかく応えつつ、今度は「不自惜身命」で、私自身をこれら「命題」「宿命転換」「罪障消滅」「大願成就」の為にこの身を自省的に静かに泰然と向かわしめ、捧げ尽くしたい。

 怒りを無くす。怒りを収める。人様に軽々(けいけい)に、怒る姿を見せない。自らの怒りの感情をコントロールする。無論勿論、怒りを自身の内面に溜め込まない。怒りのフラストレーションを何事かで発散する事に何事にも熱心に取り組む。人の怒りを負ったり加担したりしない。義勇心に駆られて、勝手な方向を向いて怒りの矛先を他へは簡単に向けない。決して他人様に迷惑を掛けない。その自信を養う為に、自身、なるたけ多くのお題目、勤行唱題に励む事。

 とにかく、怒らない事に尽きる。この、堪え性の有るなしが、自身の成長進化にも関わる。 

 今年や来年の目標の一つに、「怒らない」を加えても良かろうと思います。私の悪いクセ、今の自分の課題が又一つ、これで見つかりましたね。実に有難い事です。

 これを、不言実行だろうが、有言実行だろうが、両方含めて、長年「感情家(屋)」と言われ続けた私が、自分を変えようという。これは、私の人生生活上、非常なる進歩である。新たなスタートとなる。

 いずれもの対応をも、し尽す事が、これが私自身への至上最大命令命題である。

 これに失敗する気は、敗北する事などは、今は全く考えに及ばず、有り得ませんね。

 魔には負けません、必ず勝つ!

 慢心・驕慢謗法(きょうまんほうぼう)では全くないと誓う、私の今思う所の、自身のこの度の必定(ひつじょう)、決定(けつじょう)であり、最大限の、覚悟、決意、確信です。

 「怒り」と上手に付き合う。人様に二度と「コワイ」と思わせず、言葉遣い、気の持ちよう、常に笑顔を心掛け、話題も暗くならずにむしろ明るく豊かに、常に楽しく、常に自分も楽しい人生を味わいつつ、敢えて悪い方へと差し向けたり、いざなったりしない。

 そこだけは、曲げず譲らずに、強い自分でいたい。
 
 我が静かなる、自身の黎明の、この身の夜明け前の、「革新」「刷新」の大なる願望を、今日のこの日に、我が心肝に刻み付けよう。

 これが私の、ズバリ、「悔悛」「懴悔滅罪」「悔い改め」である。

 それらが仏法の、「宿命転換・罪障消滅」に、全ては通じ、連なる事を、我は強く頑なに信ずる。

 「怒り」が必要な場面、時、「怒り」を抑えてはいけない場合、場所、「怒り」が身を助ける事も本当にあるにはある。

 がしかし、所詮、怒りは怒りそのもの自身でしかなく、低い最低の境涯そのものであり、しかも自分に全て帰ってくる。自分が損をするだけである。その全責任をその時、果たして自身で全て起こった結果を背負えるのか。

 大抵の場合、「怒り」は、見苦しい失敗、見苦しい恥の結果結末へとなり果て得る事が多分にある事を非常に私はわきまえ思い知る必要があるだろう。

 もう、全ての「答え」は出ている。ただ、実行実践あるのみ。

 以上。よしなに。wainai


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