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『経王殿御返事』(新編六八五)令和六年一月度御講(御報恩御講)PM1時

2024年01月14日 19時29分11秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。妙楽云はく、『顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給ふ 経王御前にはわざはひも転じて幸ひとなるべし。あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき『充満其願 如清涼池』『現世安穏 後生善処』疑ひなからん」

 一、本抄は、文永十(一ニ七三)年八月十五日、日蓮大聖人様御年五十二歳の御時、佐渡配流中に鎌倉の四条金吾殿夫妻に与えられた御書です。宛名の経王殿とは、四条金吾殿とその妻日眼女の間に、一年前に生まれた子供の名前です。経王殿は病気を患っておられたようで、四条金吾殿が、大聖人様に病気平癒を願って使いを遣わされ、それに対する返書がこの御書です。

 ニ、拝読のポイント
 (1)本尊とは
 本尊とは、礼拝の対象であり、「根本尊崇」「本有尊形」「本来尊重」の意義があり、それぞれ体・相・用を意味している。当に大聖人という御本仏様を根本と崇め、その姿は十界互具・一念三千の当体であり、決して三十二相などによって荘厳された方便の姿ではなく、その身そのまま、つまり、凡夫に即して仏界を顕しておられ、その働きは無始以来変わらず、私達が境智冥合して仏果を得る唯一の存在にして、真に尊いものである。それ故、御本尊を離れて成仏はできません。
 仏様だからこそ為せるわざです。私達凡夫が、いくら真似て作ってみたとしても、それは迷いや苦しみや慢心や欲望を元にしたものですから本尊とはならないのです。逆にそれは、拝む者を地獄に堕とす魔物なのです。
(以下略)

 御住職様の御説法のメモ。
 四条金吾殿夫妻。四苦八苦。罪障。大聖人様を外護させまいとする「魔」の働き。
 人生は「苦」だ=釈尊⇒信心する事で喜びに変える。勤行唱題・折伏。実に不思議なものだ、仏法とは!
 「煩悩即菩提」仏様が金持ちだったか。
 信心を成し遂げる事で魔も退散する。

 仏様=御本尊様。我々も仏さまに成れる。御本尊様に縁すればそうなる。
 御本尊の脇書=因縁・日蓮並びに在信徒、寿海寺。
 一機一縁の御本尊。

 弘安二年に起こった熱原法難の農民たち。入信一年未満の日蓮大聖人様の信徒。日興上人に教化されて、一度も大聖人様にお会いしたこともないのに、一人も漏れず全ての人が、不自惜身命の信心を貫いた。そこに、大聖人様は末法万年にわたって妙法を護持し、令法久住・広宣流布していける因縁を感じられ、出世の本懐として一切衆生に授与する本門戒壇の大御本尊様を顕された。
 大聖人様の出世の本懐=「余は二十七年なり」立宗宣言から二十七年。

 安穏な境涯。
 私利私欲⇒そこから抜け出し⇒仏道修行、罪障消滅、成仏。

 誰かに不幸にされているのではなく、自分が法華経に背くから不幸。
 無始以来の罪障消滅が出来る、「御開扉」信心あっての喜び。

 願いを叶える為には、黙っていてはダメ。
 仏様に悩みなどない・自行化他・折伏、大御本尊。

 万里の外より幸せを集む。法華経を信ずる者=仏法聴聞。同じ話を百回聴いても、自分も変わるし、相手も変わる。
 ちゃんと知っている、という事は、実践するという事。精進してゆく。
 猊下様の御言葉、一年に一人の折伏。
 それら、自行化他・折伏を行う者は悪い事が出来なくなるから。
 一水四見。
 仏の境涯。
 災い転じて福となす。それこそが、「煩悩即菩提」
(御住職様御説法、令和六年一月十四日・日曜日午後一時から)


以上。よしなに。wainai


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