Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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「人生、皆、師なり」は大嘘

2023年05月16日 08時57分01秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 私は最近、自身の格言としてきた、「人生、皆、師なり」を、疑い出した。
 何故かならば、良く、私の菩提寺、お寺において、受け答えに、疑問符を投げかける人に、出逢ったからだ。
 例えば、有る、大変にお世話になっている人に、一カ月ぶりに会うと、最大限の挨拶、お辞儀をする。
 そうしてからに、今度は、それ程、お世話にならない人や、その、大変お世話になっている人に取り、気に食わない人、一番警戒している、感じの人、誰彼にも、私は平等に、挨拶、お辞儀をする。
 それには、私に対して、無視を決め込むような人にもそうしてみたり、そのお世話になっている方々が警戒している人と共に、私にも酷い扱いをもってかつて行った人、それら、私にとり、敵の、仇のような人にも、私は平等に、挨拶、お辞儀を行なっているのを、私がお世話になっている大恩人の方が見て、ありゃー、この、○○君(私の事)は、完全に、おかしいな、と常々思っているのを、私は承った事も有る。
 だから、私には、プライド、誇りも何もなく、ポリシーも持ち合わせていない、誰でも、構わずに、尾っぽを振っていると。
 それらお世話になっている方々に言わせると、挨拶はまだ良い。その後の、私の振る舞い、お世辞をその、私の、敵、というか、ひどい扱いをした人に、ゴマをすってみたり、それら、お世話になった人も被害を受けている方々にとっては、筆舌に尽くしがたい程、私の、調子の良さ、調子の軽さが、非常に気にはなっていたらしい。
 それを、私は読み解くと、「人生、皆、師なり」の、あのことわざの実践にあったと見抜いた。
 あれは、大ウソだと私は見抜いた。
 それは、宗祖日蓮大聖人様が、御書の中で、師匠を選びなさい、選ぶならば、法華経の師匠を選びなさい、と語っている事を持って、そう判断せざるを得ない。
 愚人に褒められたるは、第一の恥なり、とも御書で仰られる。
 何でもかんでも、誰でも彼でも、師匠だと思っていたら、とんだ間違いを起こす。
 それこそ、この世には、キリストやら、イスラムのマホメットや、それらの教えの無数の指導者たちや、既成仏教教団、爾前権教の、邪師たち、新興宗教の教祖、その指導者たち、神社神道の神官、拝み屋、占い師、等々、に至るまで、この世には実に種々雑多様々な「師匠」と呼ばれそうな、人が沢山多く山ほど、居る。
 それら「邪教」の「邪師」を、皆、束になって、「師」と仰いだら、どうなるか、と考えたら、私の胸中に、薄ら寒いものを感じた。これは、怖ろしい事になる、と。人生間違える、と。それを、大聖人様は、死ぬ程警戒しろ、と御訴えになっているのだ。
 だから、あの、どこから覚えて来たのか、そのことわざ、「人生、皆、師匠なり」は、とんでもない、言説なのだ。それを実践して、今の今まで来てしまった、自分自身は、とんだ大間違いをして来たのだ。
 日蓮正宗の、師匠は、宗祖日蓮大聖人様、御法主上人猊下様、末寺の菩提寺の御住職様、に外ならず、それに、講頭さん等や、折伏主の方、諸先輩方、これら、自宗、当宗、本宗の、本当の本物の師匠に随順して従ってゆくのが、一番に正しい。それこそが、本来あるべき、日蓮正宗信徒の姿なのである。誰にでも、尻軽に、尾っぽを振ってもいい訳では、ないのである。

 そんな事に、やっと今頃気付いた、私なのであった。

 以上。よしなに。wainai

※編集後記
 創価学会の、池田大作名誉会長を、「師弟不二」「永遠の師匠・指導者」などと、たてまつり、祭り上げるのは、人を神か、仏の存在にした、「池田神格化」、「池田本仏論」であり、「池田教」を立ち上げるのか、創価学会は!との、疑念を投げ掛けられても、しょうがない程の、愚かさである。愚に等しい。
 どうして、あんな、と言っては、学会員達には聞こえが悪いが、池田氏の本性が明らかにされずに、それこそ、神格化、聖人化された、人間以上の存在に成り上がった、不逞で、不遜な、失礼極まる存在の筈の池田が、どうしてか、情報が上手く操作・作用して、学会員本人達だけが、知り得ない、謎の、「洗脳」がまかり通り、学会員本人達が知らぬ内に、通り一遍の、今は情報操作が行われた結果だろう。

 一般日本国民、それに、最大のライバル、法論の行われるのを怖れた、その、元々の創価自身の存立の証しだった、「日蓮正宗」の教義を大幅に改変改悪した。正に法盗人。巨魁、極悪人間・池田大作。その他、日蓮正宗信徒僧俗、日本の有識者、知識人達も、創価自体の、幼稚性、その教えの、張りぼて宗教、全てが日蓮正宗からの借り物の、自身では何一つ生み出し成し得なかった、と、批難批判喝破されて、どこに於いても、ウソの正体を皆が見抜き、証明し抜かれた。

 実証で示し、現証でも、創価の現罰が、溢れ出している現今。大恩ある、日蓮正宗に矢を向けた、有り得ない程の、この世で最大の、罰当たり者、謗法の中の大謗法、劣等宗教の現在の姿が、創価学会となって、露わとなった。

 教義の、教えの根本根幹が、正宗におんぶにだっこの、その情けない姿、有様で、日本国民と、世界中の人々を勧誘したつもりになっている。その、情けなさ。事実上、実態は、空を掴む、存在感の無さ。全くの空虚、虚しいだけの存在、それが偽らざる、創価の全て。実態実数は、公称世帯数八百万などと豪語してても、活動家全部足しても、百万足らずなのではないのか?

 第六十六世御法主日達上人も、日蓮正宗でないものが、世界に広がり流布しても、何の得にもならない(趣意)、との、御言葉が現にあるのに。

 とにかく、池田大作など、敵には非ず。あやつ、きゃつは、第六天の魔王にもなぞらえる向きもあったが、それ程の大人物にも見えない。妄想狂であり、針小棒大に過ぎぬ、誠に実に、小者。大きく人一倍見せて、それらは全て誇大妄想であり続け、側近達共を従え、服せしめて、実際以上に、創価御得意の、欺瞞に満ちた、フェイクを駆使して、人々一般大衆を欺き、ダマす。ただの張りぼて人間そのもの。その知略に関しては、東大、京大、早稲田、慶応、他を多量に使い、一種のビューロクラシー、官僚制を敷き、トップダウン方式で、幹部も含めて、下っ端学会員を従わせる。一般会員を意のままに、服従させる事に、池田は成功しただけ。

 システム上、創価学会としての支配が、成功しただけであり、何も、池田の手柄でも何でもない。何度も言うが、官僚制、ビューロクラシーが、その、成功の因。池田大作の実態は、正に、霧の中である。実態が解る人には、解るのではあるが。

 実際池田は、脳タリンで、ろくに教学も身については居らずに、駄弁が過ぎて、そのハレンチで、醜聞ばかりを撒き散らす。ろくでもない人物。教学ならば、まだ、顕正会の、浅井氏の方が、少しはましな位。それでも、浅井も、相当なワル、その暴力性、顕正会を牛耳り、その悪質、危険性から、公安からも、マークされる程、組織が悪辣である。

 池田など、大物を気取った、裸の王様にしか、過ぎない。最初から、戸田先生の、御眼鏡にもかなわない。それだけの、下っ端の、人物。間抜けの存在。それが、池田の全て。会長などに、成らぬ器、なるべきではなかった。初めから。

 とにかく、学歴なんて、宗教の正邪とは、何の関係も無い。「幸福の科学」などという、下劣な邪宗教の教祖大川隆法は、知っての通り、東大卒。それでも、神がかりとなり、ほとんど狂人の域である。

 国内のテロ集団、サリンをまいた、オウム真理教教団を見ても、東大、京大、早稲田、慶応、などの、学歴優秀者が、その集団の中枢を担っていた。

 それだから、東大など出たって、近くの、湯島天神などの、神社系列の神道の宗教に染まり、社に頭を下げて、真実のこの日蓮正宗の大仏法大仏教など露も知らずに、染まり切っている輩など、おそらく、この日本国に於いては、数知れず。

 宗教と、学歴は、全く関係がない。自分の選択肢に、何が、優先しているか、ただの、菅原道真公が、学問の神様だから、御利益を買って、お参りに来たんだ、とか抜かす、立派に勉強をし抜いた、東大を目指した、受験生が、本当にいるのが、今の私には、七不思議にでも遭ったようで、誠に不可思議である。

 東大京大を受験し、東大生京大生と成ろうとしている者が、果たして、そんな、簡単で、真実の、立派な道理、日蓮正宗の信仰を敢えて選ばない選択肢の多過ぎな、この世の宗教に関する無知蒙昧、幼稚さの情けなさ。東大生だったら、本当は、真実を見抜ける筈、というのも道理・理屈が通らぬ間違い。そもそも、宗教教育も受けては来なかったという、頭だけは良いという、出発点からが間違えていたのかも知れぬ。

 中には間違えた邪教・キリスト教、カソリック、プロテスタント、東方正教会、等々、イスラム教まではまさか日本にはいないだろうが、東京では、分からないねえ。

 東大生の信仰、宗教の実態は分からない。京大生は、どうなんだか、それすらも判らん。結構、創価、元統一教会、共産党の民青同盟等々がその頃の東大の学内では何と言っても多かった、と、或る本の中で、東大教授だった、「バカの壁」の「養老孟司先生」が仰られていた。
 
 とにかく、脱線してしまった編集後記だが、この辺で、文の最後、幕を閉じたい。以上。

※編集後記、その2,続き~話を逆に戻すと。
 ここで、冒頭に一旦話を戻す。
 しかし、私は、その会う人々を、師匠、先生と慕い思わなければ良いだけの話であり、ちっとも、挨拶くらいならば、許される範疇なのではないのか、と思う。
 あいさつは、人と人とのコミュニケーション、潤滑油であり、ちっとも、けなす、けなされるような類のものではない。
 であるからして、私は、今後共、私と出逢う多くの方々との親睦、友情を重ねる印としての、あいさつは、欠かさずに、元気よく、行ない、実行してゆこうと思う。

以上。再び。よしなに。wainai


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