正しい食事を考える会

食が乱れている中どういう食事が正しいのかをみんなで考え、それを実践する方法を考える会にしたいと思います。

「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」 霞が関の思惑“食糧と外貨の一挙両得”余剰農産物交渉のその後―2

2010-09-13 | 食事教育
「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」 霞が関の思惑“食糧と外貨の一挙両得”余剰農産物交渉のその後―2
 愛知団長と東畑氏が「産業」の字句修正で、最後の詰めに入ろうとしていた頃、いそいそと帰国の支度にかかるグループがあった。その前夜、東京の池田勇人幹事長からワシイントンの宮沢喜一氏あてに、緊急の電話が入っていた。「日本の政情が急展回し、非常に複雑な段階に行っている。吉田首相の『帰国の筋書き』を打ち合わせたいから、一足早く帰ってこい」というのである。
 東京では鳩山一郎氏擁立の気運が高まり、吉田自由党の反主流派である岸・石橋両氏が除名脱退し、重光改進党とのあいだで新党結成の準備が着々と進んでいた。宮沢氏は、首相に随行してきていた佐藤栄作氏と共に11月14日に帰国している。
 そして、11月17日、吉田首相は、余剰農産物交渉妥結の手みやげを持って、上機嫌で羽田空港に降り立った。長期ワンマン政権の吉田内閣が総辞職するのは、その三週間後のことであった。この時、保利茂農相の退陣にともない、東畑四郎氏も農林省を去る。
 新しい鳩山政権下で農林大臣になったのは、かの河野一郎氏であった。
河野農相は、第二次の余剰農産物受け入れに熱意をもやし、昭和30年9月、自らワシントンに飛んで交渉に臨んだ。河野氏は出発前に「見返り円の日本側取り分を前回の70%から今度は80%に高めてみせる。さらにそのうち半分を農業関係で使う」と豪語していた。
 公式交渉はたったの3日間で終わり、買い付け総額は6580万ドルと決まった。そのうち日本側取り分は75%で妥協したが、農業関係で半分使うという公約については、アメリカ側の了解を取り付けてきた。この結果、農漁業開発事業として、愛知用水などの継続事業のほか、
新たに漁港整備、肥料・甜菜工場などに資金がまわされた。農林大臣管轄下のこうした予算運用にあたっては、例えば漁港建設の名目で、農相の地元の観光施設づくりにも金がバラまかれたなどと、河野大臣の周辺には利権がらみの噂が絶えなかった。
 翌昭和31年、河野農相は第三次交渉にも意欲を示したが、日本経済は神武景気に入っており、国際収支も好転し、国内財政資金にも以前ほど事欠かなくなっていた。大蔵・通産両省は、河野氏が前回の交渉で必要以上の葉タバコ・綿花を買わされたことに不満を持っていた。結局、第三次交渉は、12月の石橋内閣誕生=河野農相退陣を機に打ち切られる事に決まった。
 こうして日本は、MSA小麦を含めれば、前後3回にわたって、総額で2億ドル(当時の720億円)以上のアメリカ余剰農産物農産物を、通常貿易量の上積みとして受け入れることになる。昭和29年度の一般会計予算が1兆円の時代であるから、その額の大きさがわかろう。中でも小麦の受け入れは1億ドルと群を抜き、この時ふくらんだ輸入規模は、その後、日本の稲作が大豊作の時代を迎えることになっても縮小することはなかった。
 大量のアメリカ余剰小麦が押し寄せてくることに大きな危惧を抱いた人もないではなかった。
この頃、農林省詰めの新聞記者であった早稲田稔氏によれば、昭和30年12月に、農林相自身の刊行文書(農林大臣官房調査課『過剰農産物の日本農業』)がこう記している。
 「過剰農産物の圧力は、国内の農産物価格に影響し小麦の価格体系を歪め、さらには現行食糧管理制度の機能を揺るがしており、また、他方、従来からの日本農政の伝統であった食糧増産対策の緊急度を低からしめ、食糧の海外依存思想をようやく強からしめている。従来からの食糧の国内自給度の向上、ならびに農業所得の維持等の原則がゆさぶられてきたわけである。
 のみならず余剰農産物見返り円による米国の日本における小麦市場の開拓措置も、内地米の領域に対する、外国小麦の攻略であり、いずれにしても食糧増産を中心とした今後のわが農政はますます多事多難となるであろう
。」
 国際分業論の兆しを厳しく批判したこの論文は、余剰農産物受入の推進論者であった河野農相の耳に入り、配布を禁じられたと早稲田氏は記している。
 この論文が書かれたころ、あの“小麦のキッシンジャー”ことリチャード・バウム氏は幾度も来日し、農林省などの政府機関を訪ね回って、アメリカ小麦宣伝の大キャンペーン計画の根回しに取りかかっていた。
 この論者が指摘したとおり、「米国の小麦市場開拓措置が内地米の領域に対する、外国小麦の攻略」となるまでに、そう長くはかからなかったのであるー。


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