今日は一品多い一汁四菜です。
「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」(高嶋光雪著)を教科書として勉強します。
「日本人の胃袋を変えた男たち
アメリカ西部小麦連合会リチャード・バウム氏 ー略ー・・・・ オレゴン州はアメリカ西部の代表的な穀倉地帯で、特に小麦生産は州経済を支える大黒柱であった。ところが、この小麦が第二次大戦後に大量に余り始め、その海外輸出の拡大が地元農民の最大関心事となった。 アメリカ西海岸から最も近い国である日本が、有望な市場としてマークされ、ひそかな対日工作が進みました。
伝統的な米食民族の国に小麦を売り込もうとするアメリカの計画に、当時急成長を遂げつつあった日本の製粉資金は協力を惜しまなかった。「ミラーズ・ドーター」は、まさにそうした時代にはなばなしく登場した。瑞穂の国の王女に小麦の指導者の令嬢が選ばれたのである。小麦の対日輸出工作に期待をかけていたアメリカの関係者にとって、どんなにか心強いできごとであったことだろう。・・・略 オレゴン州で生産される小麦は、実にその90%が、この港から日本などアジア諸国に輸出されるのである。 小麦のキッシンジャーとキッチンカー マーケット・ビルの9階、スイート985。ここにアメリカ西部小麦連合会の本部がある。会長のリチャード・バウム氏(56歳)に会った。 バウム会長は、連合会発足以来ずっと、この本部からすべての出先機関に指示をあたえ続けてこた。私たちが訪ねた時も、ちょうど東京事務所宛のメッセージを小型テープに吹き込んでいる最中であった。会長室の壁には東南アジア各国の民芸品が一面に飾られてある。肘さんを描いた置物、日の丸をあしらった扇子、日本の製粉会社からの感謝状、それに学校給食で楽しそうにパンを食べる日本の子供の写真もあった。テープの収録を終え、それを秘書のタイピストに渡すと、”小麦のキッシンジャー”は私たちの方に向き直った。 「日本へは少なくとも年3回は出かけています。かれこれ60回は行っていますが、こうして日本のジャーナリストとお話しするのは初めてです」 バウム氏はにこやかに話し始めた。だが、そのタカのように鋭い眼は笑っていない。 「まずこの数字を見て下さい。アメリカの小麦輸出は日本へ320万トン、韓国へ140万トン、フィリッピンへ70万トン・・・。アジアは小麦だけで20億ドル(現在(昭和54年)4500億円相当)も稼がせてもらう大市場になりました。このほとんどはわれわれが、アメリカ農務省の援助を受けて新たに開発したものです。この膨大な需要が、アメリカの小麦を支える効果は測り知れません。その中でも、一番優等生はあなた方の国、日本です」 バウム氏が率いるアメリカ西部小麦連合会は、東南アジア市場開拓に関心を持つ西部諸州の小麦生産者が、海外への販売促進機関として設立した民間の組織である。 消費国の政界、官界、そして産業界と密接なパイプを築き、さまざまな消費宣伝活動を通じて側面から小麦輸出を伸ばして行くのがその任務である。1947年(昭和22年)、オレゴン州単独の組織として誕生したこともあって、本部はポートランドに置かれているが、首都ワシントンにも常勤副会長が事務所を構え、政府・議会との工作にあたっている。海外事務所は、東京、シンガポール、ソウル、タイペイ、マニラ、ニューデリーの6か所で、それぞれにアメリカから専任の代表を派遣し、現地のスタッフも数人雇いあげて活動してきた。 「今から20年前、私がオレゴン州の小麦生産者から海外市場の調査・開拓を委ねられた当時はすべてが手探りの状態でした。長い間、米を主食にしてきた民族に、小麦食品を定着させるのは容易なことではありません。小麦を売り込む前に、まずパンやめん類、ケーキなど小麦食品の味を覚えさせることから始めなければならなかったのです。私たちはさまざまな宣伝方法を考えましたが、一番印象に残っているのは、日本で行ったキッチンカーのキャンペーンでしょう。あれだけ劇的な成果をおさめたプログラムは他にありませんでした」バウム氏は懐かしそうに語った。 キッチンカーとは、昭和31年から36年にかけて日本国全体の農村を巡回した栄養改善車のことである。 改造した大型バスにプロパンガスから調理台まで一切の台所用具を積み込んで、どんな山奥や離島までも出向いては料理の実演講習を行った。その6年間に全国2万会場をまわり、200万人の参加者があったというから、ご記憶の方も多いことだろう。 このキッチンカーが、アメリカの小麦を宣伝するための事業であったとバウム氏は断言した。たしかにキッチン・カーのスローガンは「粉食奨励」であり、現場で指導に中った栄養士達は、「米偏重」の粒食をやめて、もっと小麦を中心とした粉食を中心とした粉食を取り入れるように説いていまわった。しかし、私たちが伝え聞いていたキッチンカーは、あくまでも政府・厚生省が国民の栄養水準を高めるために独自に行った日本の事業であったはずである。私たちの疑問をよそに、バウム氏は話を続けた。 「キッチン・カーの現場には何度も行きました。田舎のデコボコ道をスピーカーで音楽を流しながら走ると、稲刈りをしている農民までがふりむきました。村の公民館の前に駐車すると、野良着のままの主婦達が続々とつめかけるのです。小麦を使った様々な調理を実演したあと、みんなに試食させると口々にこういいました。『オイシイデース』『モットモット』ーと」 バウム氏は、「おいしいです」「もっともっと」のところだけはカタコトの日本語で離した。小麦食品の普及を狙った活動を見に行って、一人ひとりの消費者の確実な手応えを感じ取ったことが、よほどうれしかったのだろう。事実、日本政府は、このころから加速的に小麦輸入を増やしてゆく。「モオットモット」と叫んだのは、キッチンカーに群がった庶民だけではなかった。 「キッチンカーは、私たちが具体的プログラムとして日本で最初に取り組んだ事業でした。つづいて学校給食の拡充、パン産業の育成など、私たちの初期の市場開拓の全勢力を日本に傾けました。ターゲットを日本に絞り、アメリカ農務省からの援助資金を集中させたのです。その結果、日本に小麦輸入は飛躍的に伸びました。1960年の250万トンが、いま5550万トンになり、そのうちアメリカ小麦のシェアは30%から60%にまでなりました。日本は私にとって事象開拓の成功のお手本なのです」 ”小麦のキッシンジャー”はまるで遠い過去の歴史を物語るかのようであった。 「今になって、日本では『米を見直す』キャンペーンを始めていることは承知しています。しかし、すでに小麦は日本人、特に若い層の胃袋に確実に定着したものと私たちは理解しています。今後も消費は増えることがあっても減ることはないでしょう。私たちの関心は、とっくに他のアジア諸国に移っています。日本の経験で得た市場開拓のノウハウを生かして、この巨大な潜在市場に第二・第三の日本をつくって行くのが今後の任務です。日本のケースは、私たちに大きな確信を与えてくれました。それは、米食民族の食習慣を米から小麦に変えてゆくことは可能なのだということです」 聞いていて慄然とする話であった。バウム氏は、日本はすでに開拓を完了した市場であるとも言った。いまとなって、誰が騒ごうとビクともしない。日本人の胃袋の中に、知らぬ間に住み着いた小麦は、すでに勝利の星条旗を高々と掲げているのである。「もう何もかもお話ししてもいい時期でしょう。何でもお聞き下さい」アメリカの対日小麦輸出戦略を最前線で指揮してきたリチャード・バウム氏の口から、次々と新しい真相が語られ始めた。オレゴン州ポートランド、ブラックボックスの9階。私たちのインタビューは、短時間で終わりそうになかった。 」
続く
「日本侵攻 アメリカの小麦戦略」(高嶋光雪著)を教科書として勉強します。
「日本人の胃袋を変えた男たち
アメリカ西部小麦連合会リチャード・バウム氏 ー略ー・・・・ オレゴン州はアメリカ西部の代表的な穀倉地帯で、特に小麦生産は州経済を支える大黒柱であった。ところが、この小麦が第二次大戦後に大量に余り始め、その海外輸出の拡大が地元農民の最大関心事となった。 アメリカ西海岸から最も近い国である日本が、有望な市場としてマークされ、ひそかな対日工作が進みました。
伝統的な米食民族の国に小麦を売り込もうとするアメリカの計画に、当時急成長を遂げつつあった日本の製粉資金は協力を惜しまなかった。「ミラーズ・ドーター」は、まさにそうした時代にはなばなしく登場した。瑞穂の国の王女に小麦の指導者の令嬢が選ばれたのである。小麦の対日輸出工作に期待をかけていたアメリカの関係者にとって、どんなにか心強いできごとであったことだろう。・・・略 オレゴン州で生産される小麦は、実にその90%が、この港から日本などアジア諸国に輸出されるのである。 小麦のキッシンジャーとキッチンカー マーケット・ビルの9階、スイート985。ここにアメリカ西部小麦連合会の本部がある。会長のリチャード・バウム氏(56歳)に会った。 バウム会長は、連合会発足以来ずっと、この本部からすべての出先機関に指示をあたえ続けてこた。私たちが訪ねた時も、ちょうど東京事務所宛のメッセージを小型テープに吹き込んでいる最中であった。会長室の壁には東南アジア各国の民芸品が一面に飾られてある。肘さんを描いた置物、日の丸をあしらった扇子、日本の製粉会社からの感謝状、それに学校給食で楽しそうにパンを食べる日本の子供の写真もあった。テープの収録を終え、それを秘書のタイピストに渡すと、”小麦のキッシンジャー”は私たちの方に向き直った。 「日本へは少なくとも年3回は出かけています。かれこれ60回は行っていますが、こうして日本のジャーナリストとお話しするのは初めてです」 バウム氏はにこやかに話し始めた。だが、そのタカのように鋭い眼は笑っていない。 「まずこの数字を見て下さい。アメリカの小麦輸出は日本へ320万トン、韓国へ140万トン、フィリッピンへ70万トン・・・。アジアは小麦だけで20億ドル(現在(昭和54年)4500億円相当)も稼がせてもらう大市場になりました。このほとんどはわれわれが、アメリカ農務省の援助を受けて新たに開発したものです。この膨大な需要が、アメリカの小麦を支える効果は測り知れません。その中でも、一番優等生はあなた方の国、日本です」 バウム氏が率いるアメリカ西部小麦連合会は、東南アジア市場開拓に関心を持つ西部諸州の小麦生産者が、海外への販売促進機関として設立した民間の組織である。 消費国の政界、官界、そして産業界と密接なパイプを築き、さまざまな消費宣伝活動を通じて側面から小麦輸出を伸ばして行くのがその任務である。1947年(昭和22年)、オレゴン州単独の組織として誕生したこともあって、本部はポートランドに置かれているが、首都ワシントンにも常勤副会長が事務所を構え、政府・議会との工作にあたっている。海外事務所は、東京、シンガポール、ソウル、タイペイ、マニラ、ニューデリーの6か所で、それぞれにアメリカから専任の代表を派遣し、現地のスタッフも数人雇いあげて活動してきた。 「今から20年前、私がオレゴン州の小麦生産者から海外市場の調査・開拓を委ねられた当時はすべてが手探りの状態でした。長い間、米を主食にしてきた民族に、小麦食品を定着させるのは容易なことではありません。小麦を売り込む前に、まずパンやめん類、ケーキなど小麦食品の味を覚えさせることから始めなければならなかったのです。私たちはさまざまな宣伝方法を考えましたが、一番印象に残っているのは、日本で行ったキッチンカーのキャンペーンでしょう。あれだけ劇的な成果をおさめたプログラムは他にありませんでした」バウム氏は懐かしそうに語った。 キッチンカーとは、昭和31年から36年にかけて日本国全体の農村を巡回した栄養改善車のことである。 改造した大型バスにプロパンガスから調理台まで一切の台所用具を積み込んで、どんな山奥や離島までも出向いては料理の実演講習を行った。その6年間に全国2万会場をまわり、200万人の参加者があったというから、ご記憶の方も多いことだろう。 このキッチンカーが、アメリカの小麦を宣伝するための事業であったとバウム氏は断言した。たしかにキッチン・カーのスローガンは「粉食奨励」であり、現場で指導に中った栄養士達は、「米偏重」の粒食をやめて、もっと小麦を中心とした粉食を中心とした粉食を取り入れるように説いていまわった。しかし、私たちが伝え聞いていたキッチンカーは、あくまでも政府・厚生省が国民の栄養水準を高めるために独自に行った日本の事業であったはずである。私たちの疑問をよそに、バウム氏は話を続けた。 「キッチン・カーの現場には何度も行きました。田舎のデコボコ道をスピーカーで音楽を流しながら走ると、稲刈りをしている農民までがふりむきました。村の公民館の前に駐車すると、野良着のままの主婦達が続々とつめかけるのです。小麦を使った様々な調理を実演したあと、みんなに試食させると口々にこういいました。『オイシイデース』『モットモット』ーと」 バウム氏は、「おいしいです」「もっともっと」のところだけはカタコトの日本語で離した。小麦食品の普及を狙った活動を見に行って、一人ひとりの消費者の確実な手応えを感じ取ったことが、よほどうれしかったのだろう。事実、日本政府は、このころから加速的に小麦輸入を増やしてゆく。「モオットモット」と叫んだのは、キッチンカーに群がった庶民だけではなかった。 「キッチンカーは、私たちが具体的プログラムとして日本で最初に取り組んだ事業でした。つづいて学校給食の拡充、パン産業の育成など、私たちの初期の市場開拓の全勢力を日本に傾けました。ターゲットを日本に絞り、アメリカ農務省からの援助資金を集中させたのです。その結果、日本に小麦輸入は飛躍的に伸びました。1960年の250万トンが、いま5550万トンになり、そのうちアメリカ小麦のシェアは30%から60%にまでなりました。日本は私にとって事象開拓の成功のお手本なのです」 ”小麦のキッシンジャー”はまるで遠い過去の歴史を物語るかのようであった。 「今になって、日本では『米を見直す』キャンペーンを始めていることは承知しています。しかし、すでに小麦は日本人、特に若い層の胃袋に確実に定着したものと私たちは理解しています。今後も消費は増えることがあっても減ることはないでしょう。私たちの関心は、とっくに他のアジア諸国に移っています。日本の経験で得た市場開拓のノウハウを生かして、この巨大な潜在市場に第二・第三の日本をつくって行くのが今後の任務です。日本のケースは、私たちに大きな確信を与えてくれました。それは、米食民族の食習慣を米から小麦に変えてゆくことは可能なのだということです」 聞いていて慄然とする話であった。バウム氏は、日本はすでに開拓を完了した市場であるとも言った。いまとなって、誰が騒ごうとビクともしない。日本人の胃袋の中に、知らぬ間に住み着いた小麦は、すでに勝利の星条旗を高々と掲げているのである。「もう何もかもお話ししてもいい時期でしょう。何でもお聞き下さい」アメリカの対日小麦輸出戦略を最前線で指揮してきたリチャード・バウム氏の口から、次々と新しい真相が語られ始めた。オレゴン州ポートランド、ブラックボックスの9階。私たちのインタビューは、短時間で終わりそうになかった。 」
続く
人間の根である腸を駄目にしたのです。食生活を変えない限り根性はお腹に入らないでしょうね。これはアメリカの長期的な日本人改造計画だったに違いないですね。