昭和の想い出に関する、こんな記事がありました。
(ラジオ関西トピックスより)
昭和の“はじめてのおつかい”「ロバのパン屋」 最盛期一日1000個! 令和もコロナ禍の子どもを笑顔に
「♪ロバのおじさん チンカラリン チンカラリンロンやってくる―――」。
音楽に乗せたおなじみのフレーズとともに、ロバが屋台を引っ張って現れる。1950~60年代頃にはそんな光景が当たり前で、子どもたちが行列を作りました。「ロバのパン屋」と聞いて当時を懐かしく思う人も多いのではないでしょうか。
現在も徳島県を中心に様々な地域で軽快な音楽を流してパンを販売する「ロバのパン」の坂本清久さんに、当時の話を聞きました。
―――ロバのパン屋の発祥はいつ?
【坂本さん】 昭和29(1954)年ごろ、饅頭屋に勤めていた桑原定吉さんが創業したのがきっかけです。戦後の当時はビタミンなどの栄養が不足し、脚気(かっけ)になる子どもが多かったそうです。そこで、どうにか「安くておいしい、栄養が取れる食べもの」を子どもたちに食べてほしいという願いから、現在も提供している「蒸しパン」を開発したと聞いています。 当時はまだ「ロバのパン屋」ではなく、ビタミンを補うための食パンという意味の「ビタ食パン(=蒸しパン)」という名前で商売をしていたようです。
―――なぜ、ロバで営業をするようになった?
【坂本さん】 桑原さんは人を楽しませることが好きだったそうで、ビタ食パンを乗せた屋台をロバ(木曽馬)が引くことで人々が楽しんでくれるのではないか、という考えから始まりました。
それから、街でロバが屋台を引いている様子をたまたま見かけた作詞・作曲家の人によって、ロバのパン屋の代名詞でもある『パン売りロバさん』という曲が作られました。この曲は当時から現在まで、営業の際にはずっと使っています。
「♪ロバのおじさん チンカラリンーーー」という、キャッチーで耳に残る歌が流行しました。子ども達はこの曲が流れてくると「ロバのパンが来た!」と言って買い物に出かけるようになったそうです。曲を聞いて、当時を懐かしく思う方も多いのではないでしょうか。
―――ロバ(馬)で屋台を引いていた当時の反響は?
【坂本さん】 とにかく子ども達は喜んでいました。木曽馬という小さな馬で、可愛らしい見た目をしているところもウケたんじゃないですかね。ロバが歩いている後ろをずっとついてくる子どもがたくさんいて、途中で迷子になる子もいたそうです。そんな子を交番まで連れていくのも仕事の一つだった、なんていう話も聞きました。
今では絶対許されないと思いますが、馬も動物ですから糞やおしっこをしますよね。なので、街を歩いている時は基本垂れ流し状態でした(笑)。それが足跡みたいになって追いかけてくる子ども達もいたみたいです。
聞いた話では、昔は、肥料などに使うために馬糞を集める仕事が存在したとか。そういった職業の人達もロバの後ろをずっとついて来る、ということがあったそうです。
【坂本さん】 減っていったのは、1970年代の終わりごろからです。交通が発展して車社会になり、ロバが車に驚いて逃げたり事故が起こってしまったりするようになったのが原因だったそうです。車が多くなって道路も整備され始めてからは、車や三輪自動車での販売に変わっていきました。
―――今はどのような形で営業している?
【坂本さん】 車で曲を流しながら販売を続けています。営業しているのは京都・岐阜・徳島の3店舗と、昔に比べるとかなり少なくなってしまいました。
後継者問題にも悩んでいたところ、数か月前に、ロバのパン屋を教えてほしいという若者が現れるといううれしい出来事があったのだとか。「利益が決して多い訳ではないけれど、長年子どもたちに愛されたこの蒸しパンを、どうにか次の世代に残していきたい」と、坂本さんは話していました。
(編集部より)
ロバのパン屋さん、こんな曲を流しながらやって来ました。
「馬糞(まぐそ)を踏むと背が高くなる」「足が速くなる」などと言われ、道端に残されたロバの糞を一生懸命踏んだりしていました(笑)
サトウハチローが馬糞を踏んだエピソード - mmpoloの日記
「馬糞を踏むと、足が速くなる」琉球競馬(ンマハラシー)・沖縄在来馬の歴史と魅力。 | OKITIVE
コメントをお寄せください。
<パソコンの場合>
このブログの右下「コメント」をクリック⇒「コメントを投稿する」をクリック⇒名前(ニックネームでも可)、タイトル、コメントを入力し、下に表示された4桁の数字を下の枠に入力⇒「コメントを投稿する」をクリック
<スマホの場合>
このブログの下の方「コメントする」を押す⇒名前(ニックネームでも可)、コメントを入力⇒「私はロボットではありません」の左の四角を押す⇒表示された項目に該当する画像を選択し、右下の「確認」を押す⇒「投稿する」を押す