「犠牲者意識ナショナリズム」というタイトルの本
ナショナリズムについて改めて考えさせられる著書の日本語訳が出ました。
タイトルは「犠牲者意識ナショナリズム」。
日韓、ロシア・ウクライナ、イスラエル・パレスチナの対立。ネオナチの登場。世界中でポピュリズムとナショナリズムがはばをきかせ、戦争までひき起こしている現在、新しい視点を提供してくれる本と言えるかも知れません。
著者の林志弦(イム・ジヒョン)氏
1959年、ソウル生まれ。84年西江大学大学院修了、西江大学博士(西洋史学)。韓国・漢陽大学教授、同大学比較歴史文化研究所長などを経て15年に西江大学教授、同年から同大学トランスナショナル人文学研究所長を兼任。16年トインビー賞財団理事。専門は欧州知性史、ポーランド近現代史、トランスナショナル・ヒストリー。ワルシャワ大学、ハーバード燕京研究所、国際日本文化研究センター、一橋大学、ベルリン高等学術研究所、パリ第2大学などで在外研究と講義を重ね、各国のトランスナショナル・ヒストリー研究者らと共に超国家的な歴史という観点から自国中心の「一国史」パラダイムを批判してきた。現在は「記憶」研究に重点を移し、「グローバルな記憶の連帯とコミュニケーション:植民主義、戦争、ジェノサイド」研究プロジェクトを進め、記憶の連帯を通じた東アジアの歴史和解を模索している。近著に『犠牲者意識ナショナリズム』、『記憶の戦争』(未訳)など。22年に米コロンビア大学出版会から『犠牲者意識ナショナリズム』の英訳と『Global Easts: Remembering - Imagining - Mobilizing』を刊行予定。
著者との対談記事があります。
jiho2112imu.pdf
歴史認識紛争引き起こす新しい民族主義から脱却を
話題の書「犠牲者意識ナショナリズム」の問いかけ
韓国の反日ナショナリズムでは、独立運動家の家系が語られることが珍しくありません。林教授の家系も……。
林氏
私の祖父は独立運動家で、朝鮮共産党を創立した3人のうちの一人でした。死後の92年に建国勲章を受けていますが、冷戦時代にはむしろ「アカ」扱いされていました。私も、反骨の気質は受け継いでいるのかもしれません。
ホロコースト、奴隷制……絡み合う「記憶」─
冷戦終結でイデオロギーのたがが外れたことで、それまで封印されてきた「記憶」が欧州など各地で噴き出して歴史認識紛争を引き起こしています。グローバルな課題として日韓など東アジアで起きている紛争と同根だという主張は日本でもされていますが、なぜか西洋史研究者ばかりです。東アジア研究をしている人からは出てきません。
林氏
冷戦のイデオロギー的制約から解放されたことで、ホロコーストと植民主義ジェノサイド、旧ソ連の全体主義、米国の奴隷制、日本軍慰安婦などの記憶がグローバ ルに絡み合うことになりました。現実には関連がなくても、事後的にグローバルな記憶空間の中で関係性が作られた。絡み合っているのは歴史や文化ではなく、記憶なのです。
日本と韓国には、両国特有の学制という問題があります。西洋史と東洋史、自国史の三つを完全に分けて縄張りを守っている。戦前の日本の制度に起因するものです。最近は変わりつつありますが、西洋史研究の私が日韓関係について発言すると「お前に何が分かるのか」という感じでした。こういう構造が、歴史学をトランスナショナルな視点から見ることを妨げているのでしょう。
─ かつてのナショナリズムの源泉は英雄たちの物語だったのに、それが「犠牲者の記憶」に置き換わり、犠牲者意識ナショナリズムが政治の前面に出てくるようになったと説明されています。英雄から犠牲者に重点が移った背景は何ですか。
林氏
冷戦終結後のグローバリゼーションと関係があります。21世紀のそれは記憶のグローバリゼーション」です。冷戦時代には民族主義の主たるオーディエンスが自国民でしたから、英雄を強調しても大きな問題にはなりませんでした。しかしグローバル化した世界では、自分たちのナショナリズムの正当性を外国に理解してもらう必要があります。自国民だけでなく外国人にも自国の正当性を理解させようとするなら、英雄に説得力はありません。えてして英雄は多くの外国人を殺したり、外国から財物を奪ったりした人物ですから。
人権に関する国際的な意識の高まりが同時並行的に進んだ影響も無視できません。人権意識の高くなった国際社会で注目してもらおうと思えば、自分たちが大変な試練を経験してきたとアピールする方が効果的なのです。
さらに米CNNに代表される国境を超えるテレビ・ジャーナリズムの発達もありました。たとえば韓国で1991年に元慰安婦が初めて実名で証言した時には、国際的に注目されるニュースではありませんでした。日本での反応もそれほど大きくなかった。その状況を変えたのは、90年代半ばに起きた旧ユーゴスラビア内戦です。セルビア人ナショナリストによるボスニアのイスラム系女性に対する集団レイプがリアルタイムのニュースとして世界中の家庭に届けられ、大きな衝撃を与えました。
戦争時の性被害は昔からあったことです。それまでも事後に活字で報告されることはありましたが、人々の受け止めは「戦争の時にはそうしたこともある」という程度でした。しかし、リアルタイムの映像として伝えられたことで、こんなにひどいことが起きていると実感させられたのです。人権意識の高まりを背景に多くの人が自分たちの身に起きたことのように憤り、戦時の性暴力は人道的犯罪だという意識が強くなりました。
それが、慰安婦問題の国際化に大きな影響を与えました。
00年に東京で慰安婦問題に関する(民間による)「女性国際戦犯法廷」が開かれましたが、ここにはハーグに設置された旧ユーゴ国際戦犯法廷で裁判長や検事を務めた法律家たちが参加しました。彼らの参加は、ユーゴ内戦での性被害と慰安婦問題が絡み合ったことを示唆しています。
─ 尹美香氏を13年にインタビューしたことがあります。その時に尹氏は「当初は国際社会に訴えても反応があまりなかった。それが、00年ごろから変わった。米国でも関心を持つ学者が出てきて、普遍的な女性の人権問題という扱いになった」と語っていました。その背景にユーゴ内戦があったということですね。
林氏
そうでしょう。
「犠牲の大きさ巡る競争」が起こす副作用─
犠牲者意識ナショナリズムには「犠牲の経験を持つ国家や人口集団の中で『誰がより大きな犠牲を払ったかを巡る競争』を触発する」側面があるし、犠牲者が「文化的アイコン」として消費されていくことも問題だと指摘していますね。
林氏
犠牲の大きさへのこだわりは、集団記憶に基づくナショナリズムの競争が引き起こした副作用です。ポーランドは第二次大戦の犠牲者数について600万人説に固執しますが、それならばポーランドに住んでいたユダヤ人とポーランド人それぞれ300万人ずつが犠牲になった計算になるからです。560万人説などもあるのですが、ユダヤ人の300万人は変わらないので、これだとポーランド人の犠牲者の方が少なくなってしまって具合が悪いのです。
米国で最初に慰安婦少女像が設置されたカリフォルニア州グレンデール市は、米国最大のアルメニア系コミュニティーを抱えています。オスマントルコによるアルメニア人虐殺を経験した彼らは慰安婦問題に同情的で、少女像の設置にも助力を惜しまなかった。ところがその後、私が現地を訪れて少女像設置を支援したアルメニア系の専門家と話していると「自分たちの経験(虐殺)と慰安婦問題を比較しようとは思うな」と言われました。自分たちの方がよりひどい経験をしているのだというアピールでした。
犠牲者意識ナショナリズムという観点からは、被害者は被害者らしく、犠牲者は犠牲者らしくあることが求められます。多様な欲望を持つ平凡な人間として受け入れられることはありません。犠牲者意識ナショナリズムは、犠牲者たちを政治的な道具とすることによって再度の犠牲を強いる記憶の政治なのです。
イスラエルでのホロコースト研究に典型例を見ることができます。イスラエルでは61年に(ナチス幹部としてホロコーストで大きな役割を担った)アイヒマンの裁判が行われます。この裁判でホロコースト生存者の証言の持つ力が注目され、証言や手記に関する研究が活発に行われるようアジア時報になりました。そして人々は生存者たちに「どれほどひどい経験をしたのか」を語るよう、無意識のうちに、あるいは意識的に強制するようになりました。人間というのは、刺激に慣れると、より強い刺激を求めてしまうのです。「アウシュビッツでも時には休みがあったし、中で歌を歌ったりもした」というような証言は信じてもらえなくなります。
もちろんナチス・ドイツの蛮行はひどいものなのですが、極限状況の中でも人間はそれに打ち勝とうとするものです。
元慰安婦が日本兵の名前を挙げて「あの人はかっこよかった」と語ることだってあります。どんな環境に置かれても、人間というのはそういうものです。それなのに、そうした話には耳を貸さず、どれほどひどい目にあったかだけを聞き続け、強制する。それは、現在の政治的理由で犠牲者たちのトラウマをほじくり返す行為に他なりません。
ホロコースト生存者も、元慰安婦も、日本の被爆者たちも同じです。
自己省察を放棄した危険な道徳的正当性─
─犠牲者意識ナショナリズムの危険性に警鐘を鳴らしています。
林氏
加害者が被害者を装うことを許してしまうだけなく、被害者も潜在的な加害者になりうるのだと自覚する道を閉ざしてしまいます。自己省察を放棄した道徳的正当性ほど危険なものはありません。
典型的なのがイスラエルです。ホロコーストのようなひどい被害を経験したなら、悲劇的な経験をした他者に共感を覚えるのではないかと考えるものですが、現実はそうなっていません。むしろパレスチナ人に対して、イスラエルの一部の若者は極めて攻撃的です。自分たちはホロコーストの半世紀後に生まれたのに、自分たちもホロコーストの犠牲者なのだという意識が強い。占領地であるヨルダン川西岸に国際法違反の入植地建設を続けてもいます。それでも、ホロコーストという人道被害を受けた自分たちを非難できる人がこの世のどこにいるのかという態度なのです。
韓国人も、他国の犠牲がどれだけあったかも知らないまま、日本の帝国主義による支配がもっともひどいものだったという話をします。しかし韓国人だって、機会があったら加害者の側に回っていたかもしれません。そういうメッセージを発信しながら、ホロコーストの犠牲になったジプ シーたちの写真展をソウルで一昨年に開いたら、ものすごい反発を受けました(笑い)。
─ ポーランドのカトリック司教団が戦後20年だった65年に、ドイツのカトリック司教団に和解を求める手紙を送ったことを本で紹介しています。
林氏
「赦(ゆる)し」という章に書きました。第二次大戦中に人口の約2割が犠牲になったポーランドは、ナチス・ドイツの最大の被害国です。そのポーランドからドイツに和解を求めるアプローチを始めました。ここでは韓国にはひと言も触れていませんが、韓国もこうしたイニシアチブを取れるのではないかという思いがあります。韓国では、加害者だった日本がまず反省して謝罪しなければならないと言いますが、韓国はいまや経済力でも日本と肩を並べるまでになったのですから。宗教だからこそできるのではないかと思うものの、韓国の神父たちに言っても「そんなことをしたら大変なことになる」と怖がるばかりです。まぁ、ポーランドの司教たちも当時は猛烈に批判されて大変な目に遭ったのですが……。
相手の考え方知り自国中心から抜け出そう
─ この本には「記憶」について印象的な記述がいくつもありました。「過去に対する記憶は、いま作られているという点において『現在』の歴史である」、「記憶は単純に過去の事実を反映するというよりも、過去を再構成する能動的な認識の作用だ」、「多くの場合、問題は歴史的事実ではなく過去に対する記憶である」といった具合です。事実は重要でないのでしょうか。
林氏
事実が明らかになったからといって、衝突する記憶の問題が解決されるとは思えません。日本と韓国の間で「相手がうそをついている」と言うことがありますが、それは合っているようで、間違ってもいる。事実に対する解釈の違いが含まれているからです。私は20年ほど前から日韓関係にも関心を持ち、歴史家同士の対話も試みました。
当初は、両国に根強い自国中心的な歴史感を壊していけば、解釈の違いはあっても共存できるのではないかと考えました。
しかし、それだけでは問題解決にならないことが分かりました。そうしたこともあって記憶研究に軸足を移しました。記憶のカルチャーを変えていくことが必要なのです。
─結論を語る際に、「騒ぎになっていることは沈黙より望ましい。国境に閉じこめられていた記憶が国境を越えながら出す破裂音は、自身と他者の記憶を自覚することで出てくる健全な緊張の信号でもある」と書かれています。
林氏
日本の教科書について考えてみましょう。中国と韓国は80年代初めに日本の教科書記述を問題にしました。
その後、「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が大きな問題になりました。しかし私が日本の教科書を調べてみると、60年代や70年代の教科書の方が自国中心的でした。
私の感覚では、「新しい歴史教科書」より70年代までの教科書の方がひどい。でも、その時代には中国も、韓国も問題になどしませんでした。日本もそうですが、隣国でどんな歴史教育をしているかに関心など持たなかったからです。
60年代の教科書より「新しい歴史教科書」の方がひどいから騒ぎになるのではなく、私たちの感受性が鋭敏になった証なのです。
今は少なくとも互いに関心を持つようになっています。東アジア域内での人々の往来が飛躍的に増えたこともあって、東アジアという単位でのトランスナショナルな記憶空間が形成されているのだと思います。必要なのは、相手の考え方を知り、自国中心的な記憶から抜け出すことです。
すなわち脱領土化、脱国民化です。共通の記憶空間ができて、問題が何かを話し始めたのであれば希望は持てます。
私の好きな言葉は「頭はペシミストだが、ハートにはオプティミズム」です。犠牲者意識ナショナリズムは、私たちの未来のために犠牲にされなければなりません。
(編集部より)
日本は原爆の被害者である一方、アジア侵略の加害者。ポーランドは他国の侵略を受け、国を失った経験がある一方、ポーランドに住むユダヤ人を虐殺した過去がある。ユダヤ人はホロコーストの犠牲者である一方、パレスチナの民衆には過酷な攻撃を行い、命と土地を奪っている。
「犠牲者であること」を強調することで、自らが加害者であることを覆い隠してしまうことは戦争につながる。その危険性に警鐘を鳴らす良書だと思います。たださまざまな政治的立場から、この本の著者に対する批判、非難はあるようです。
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