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韓国人はなぜ統一教会に関心がないのか

2022-09-01 21:41:08 | 国葬・統一教会・宗教

日本と違って、韓国では旧統一教会にあまり関心がないそうです。先日日本のメディア報道に抗議してソウルで旧統一教会信者が行なった抗議集会も日本では報道されましたが、韓国の現地メディアには「ほぼ無視」されたそうです。

韓国では宗教団体、というより企業体、学校法人として知られているそうです。

統一教会関連の企業と団体 - Wikipedia

日本でも統一教会系の「一和」という会社が、昔はこんなCMを流していました。

「一和」のメッコールという清涼飲料水も知られています。


家庭が崩壊するまで詐欺まがいの「霊感商法」や巨額の献金を行わせる、岸信介氏(安倍晋三氏の祖父)など保守政治家と統一教会が一緒になって「勝共連合」という極右団体をつくったり、教団が「安倍派」と一体化して、「夫婦別姓反対」「LGBT排除」「改憲」などの保守政治を何十年も行ってきた、など「異常なやり方」をやりたい放題にして来たのは日本だけの現象のようです。

それだけに自民党、特に安倍派の罪は重い、と言えます。

“統一教会”ゆかりの人物の政策決定関与 紀藤弁護士が問題視

“統一教会”ゆかりの人物の政策決定関与 紀藤弁護士が問題視

“統一教会”と関わりを持つ人物が政策づくりの場に加わっていることについて、教団の問題を長年追及する紀藤正樹弁護士は1日、政策決定に影響を与えられる立場にいること自...

 

 

以下の記事をご覧ください。

(web論座の記事より)

韓国人はなぜ統一教会に関心がないのか

 日本では旧統一教会(世界平和統一家庭連合)をめぐって大騒ぎになっているという。

 「韓国での反応はどうでしょうね?」と編集部から聞かれたのだが、あまり話題になっている印象はない。もちろん安倍元首相の事件は衝撃をもって伝えられたし、その直後にはテレビ局がツイッターで「統一教(トンイルキョ)」(韓国ではこの呼び方が一般的)についての情報提供などを求めていたこともあった。でも時間がたつにつれて人々の関心は薄れ、どんどんメディアの報道などがヒートアップしていく日本とは対照的である。

日韓の温度差

 その日本のメディアに対して8月18日、ソウル中心部で信者らによる抗議デモが行われたが、そちらも韓国ではほとんど報じられていなかったようだ。産経新聞の黒田勝弘記者も「現地メディアはほぼ無視」と書いていたし、少なくとも主要ニュースでは全く取り上げられていなかった。

今の韓国で統一教は、宗教団体としてはあまり目立たないということがある。「合同結婚式」や「日本人妻」を連想する人もいるが、むしろ「統一グループ」といった企業体のイメージのほうが強い印象がある。以前はメッコールという清涼飲料水が有名だったが、最近は学校法人の名前をよく耳にする。特に清心国際学校は中高一貫の特色ある英才教育が有名で、教育熱心な親たちの間では評価が高い。

 韓国はクリスチャンが多い国であり、特にプロテスタント系はそれぞれの宗派の勢力争いが激しいこともあり、当然ながら他宗派についての知識もある。すでに統一教は「異端認定」され、それもあって、表立った宗教活動はしにくくなっていると言う人もいる。

 「それに今は新天地教会のような団体が、もっと深刻な問題ですよ」

2020年夏には新型コロナの感染爆発の中で、当局の中止要請を押し切って大規模な反政府(当時は文在寅政権)集会が開かれたが、中心メンバーにはサラン第一教会などの宗教保守勢力が名を連ねていた。そういう場面でも、統一教の名前が表に出てくることはほとんどない。(以上、「論座」の記事より)

めずらしくMBC放送が統一教会特集を放送したら、信者たちが抗議行動

(TBSニュース)

「歪曲放送だ」旧統一教会の信者ら2000人が韓国テレビ局前でデモ(TBS NEWS DIG Powered by JNN) - Yahoo!ニュース

韓国の地上波テレビ局MBCはきのう、「安倍、銃撃犯そして統一教」と題し、旧統一教会の献金をめぐる問題や日本の政治との関係などについて報じる番組を放送しました。 これに対し、2000人ほどの旧統一教会の信者らはきょう、テレビ局の前で集会を開き、「歪曲放送だ」などと抗議しました。

これがMBCで放送された「安倍、銃撃犯そして統一教」

30万回以上再生されています。日本語字幕はありませんが、大体内容はご理解いただけると思います。

(KOREA WORLD TIMESのニュース)

3200人の日本人女性信者 なんで韓国でデモ? 狙いが外れたワケ - 北朝鮮ニュース | KWT

 

 

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関東大震災の時、亀戸事件を起こした習志野騎兵連隊

2022-09-01 01:31:04 | 歴史

今日9月1日は関東大震災から99年
ブログ読者の方から以下の記事をご紹介いただきました。

(読売新聞の記事から抜粋)

関東大震災から99年、公的救護の“空白”から学ぶ教訓…いまの私たちの心構えは大丈夫? : 読売新聞オンライン

10万人を超える犠牲者を出した大正12年(1923年)9月1日の関東大震災から99年がたつ。

 東京衛戍(えいじゅ)司令部は国府台(こうのだい)の部隊に続いて、千葉県習志野市を衛戍地とする騎兵13連隊にも出動を命じるが、習志野は地震の被害がなく、東京の火も全く見えなかったから、国府台の部隊以上に災害出動の心構えができていなかった。後述するように、このことは、さらなる悲劇の伏線にもなる。

「亀戸事件」という新たな悲劇

 江東地区の公助救護の“空白”は、深刻な副作用をもたらし、新たな悲劇を生む。9月3、4日、南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、10人の社会主義者らが警察官に捕えられ、亀戸署内などで軍に刺殺された「亀戸事件」だ。外部からの公助がない被災者は鉄道で移動しようと亀戸に押し寄せるが、警察官の応援はほとんど来ない。少ない人数で対応を強いられた亀戸署の負担は頂点に達し、正常な判断ができなくなってしまったのだ。亀戸署管内ではこのほかに数十人の朝鮮人が殺害されたという記録もある。

 亀戸事件で手を下したのは、習志野から来ていた騎兵第13連隊の兵士だった。前述したように、江東地区に入った千葉の部隊は「派遣目的は警備」と聞かされ、銃を持って現場に入っている。もちろん救護に奔走していた兵士もいるのだが、警備や治安の維持こそ最大の任務と考えていた兵士も多く、朝鮮人が火をつけたといった流言飛語が広がると、それに巻き込まれて救護よりも施設の警護を優先してしまった。政府は2日から4日にかけて戒厳令をしいて治安の安定に乗り出すが、現場の兵士たちは戒厳令下での権限もよく知らず、戒厳令が出たから何をしてもいいと勘違いしていた者もいたという。(ここまで読売新聞の記事より)

習志野収容所で殺された人々

【75年後に掘り出された遺骨 習志野収容所で殺された人々】

千葉県八千代市高津地区のある住民が残した日記である。1923年9月8日、村人が朝鮮人を斬殺した日のことを記している。この犠牲者たちは、ほかの事例のように自警団の検問にひっかかったのではない。軍によって習志野収容所で「保護」されていたはずの人々である。軍はひそかに、高津、大和田、大和田新田、萱田など、収容所周辺の村の人々に朝鮮人の殺害を行わせていたのだ。

すでに書いたように、9月4日、戒厳司令部では東京附近の朝鮮人を習志野の捕虜収容所などいくつかの施設に収容し「保護」する方針を決定した。これ以上、自警団による殺害が続けば、国際的な非難も受けるであろうし、日本の朝鮮支配にも悪い影響を与えることを恐れたのだ。

自警団ではなく、何の落ち度もない被害者である朝鮮人の自由を拘束するのは、明らかに不当である。それでも、これによって暴徒化した群衆からは守られることだけは確かなはずであった。現に、前回の記事で紹介した鄭チヨさんの一家、あるいは丸山集落の「福田」さん、「木下」さんは、その後無事に帰って来ている。最大で3200人の朝鮮人を収容した習志野収容所は、およそ2ヵ月後の10月末に閉鎖された。

ところがその間、収容所では不可解なことが起きていた。船橋警察署巡査部長として、習志野収容所への護送者や収容人員について毎日、記録していた渡辺良雄さんは、「1日に2人か3人ぐらいづつ足りなくなる」ことに気がつく。収容所附近の駐在を問いただしたところ、どうも軍が地元の自警団に殺させているのではないかという。

収容される側にいた申鴻湜(シン・ホンジェ)さん(当時18歳・学生)もまた、腑に落ちない体験をしていた。収容所内で朝鮮人の自治活動を組織していたのだが、仲間が拡声器で呼ばれて、そのまま帰って来ないということが繰り返されたのである。軍人に聞くと、「昔の知り合いが訪ねてきた」「親戚が来た」などと言う。だが何のあいさつもないのは妙だ。申さんは疑問を残したまま、収容所を後にすることになった。

軍が近所の村の人々に朝鮮人を殺害させていた事実が明らかになるのは、戦後のことである。研究者の姜徳相(カン・ドクサン 滋賀県立大学名誉教授)によれば、収容者と釈放累計の間に約300人のずれがあるという。収容前の負傷によって死亡した人も多いと見られるが、この幅のなかに、恐らくはこうして殺害された人々がいる。姜は、「思想的に問題がある」と目された者が選び出されて殺されたのではないかと推測する。

殺害を行った村人の当時の心情は、残された記録や証言だけではつかみかねる。しかしその後、彼らは盆や彼岸には現場に線香を上げ、だんごを供えるなどして供養していたようだ。上の日記で殺害の現場として出てくる「なぎの原」には、いつの頃か、ひそかに卒塔婆が立てられた。

高津の古老たちが重い口を開くのは、1970年代後半のことである。きっかけは、習志野市の中学校の郷土史クラブの子どもたちによる聞き取り調査であった。聞き取りに訪れた子どもたちに、古老たちは当時のことを証言し始めたのだ。冒頭の日記も、中学生が当時のことを調べていると知った住民が「子どもたちには村の歴史を正しく伝えたい」と学校に持ち込んだものである。

同じ時期、船橋市を中心に朝鮮人虐殺の歴史を掘り起こす市民グループも結成され、その働きかけもあって、1982年9月23日、高津区民一同による大施餓鬼会(せがきえ)が行われる。なぎの原には、同地区の観音寺住職の手になる新しい卒塔婆が立った。そこには「一切我今皆懺悔」の文字が入っていた。

(こんな論文もあります)

関東大震災時の朝鮮人虐殺と地域における追悼・調査の活動と現状

http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/669-02.pdf

大久保の「プラッツ習志野」の敷地でも…

関東大震災時の朝鮮人虐殺、陸軍習志野学校など・・・地域ウォッチング(2) | 谷岡隆(たにおかたかし) 習志野市議会議員

関東大震災の際、多くの朝鮮人等が習志野捕虜収容所に連れてこられ、その一部が虐殺されました。
虐殺現場の一つとして証言が残っているのが、大久保公民館裏(現「プラッツ習志野」の敷地)です。
 
習志野市の悲しい歴史。二度と繰り返さないためにも、心に刻んでおきたいと思います。
 
 
 

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