前回は、小学校から中学までのことをお話ししました。
今日は、高校時代のことをお話しします。
実は、今日、父がアトリエで昔の絵を倉庫から引き出して見ていました。
その中に、私の高校時代の絵が出て来ました。
私が初めて県展に入選したのは、高校2年生の時です。
この絵です。初めて描いた20号です。
県展のなんたるかも知らず、怖いもの知らずの私が無謀にも県展に出品し、まぐれで入選してしまったのです。
毎年、4月になると、父や仲間の画家たちが、県展に出すということで、慌ただしくなにやら出品の準備をしている様子がありました。そのときに、「僕も出してもいいかな?」と言ったのが始まりでした。
「お前なんかとてもダメだ」というのが、父の最初の言葉でした。しかしその後、「でも古川先生に聞いてみるか」というのが、次の言葉で、とりあえず聞いてくれました。古川先生は、「出したいと言うんなら出させてみろいな」という答えだったそうです。
それで、出すことになりました。
結果は入選です。そして、その後から、県展に入選するのは大変なんだと知らされました。
実は、本庄高校は古川先生が教えています。だから美術部の生徒たちも入選者がいました。
ただ、高校生が入選するのは、とても大変なことで、本庄高校は古川先生が指導しているから、入選者が出るので、
他の学校では、なかなか入選者はでないのだということでした。
そうなのか、そんなにすごいのかとキョトンとしていました。
実は、私は美術部ではないのです。そのときは、バスケット部でした。そして、キャプテンをしていたのです。
普通の高校では、美術部でも入選はほとんどいない状態で、本庄高校の美術部だからレベルが高くて、入選者がいるという状態なのに、そうはいっても、美術部のほんの数人が入選することができるということなのに、あろうことかバスケット部の私が入選してしまったのです。
今でも、私の自慢の一つなのですが、私は美術部に入る前に県展に入選した人なのです。
ただ、それをすごいとも思わず、必死で入選を目指した訳でもなく、だから凄いと言われても分かりませんでした。
この時の美術部の入選者は、3年生3人、2年生2人です。その二年生の一人が私だった訳です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これを聞くと、なんだやっぱり絵が上手かったんじゃないかとおっしゃる方がいると思います。
しかし、絵を見てください。まだ、全くの素人ですよ。道の表現を見ると透視図法は知っていますね。
構図的にもバランスは良いと思います。特に大きな間違いはありません。ただ、描き込みはできていませんし、
一つ一つの表現がとても甘いです。どうして入選できたのかな?立派な額のお陰かな?などと思いました。
だから、もしかすると古川先生が入れてくれたのかなとそんなことが可能かどうか、今の審査を聞くと一人の意見で決まるはずはないと思いますが、そのときは、先生のお陰で入れてもらったのだろうと思っていました。
ただそのときから、私は県展入選という勲章を得たのです。
美術部からスカウトされました。「俺はバスケット部のキャプテンだよ」と言って断ったことを覚えています。
この作品は、初めて描いた20号です。
父が絵の仲間と写生旅行に行くのに便乗して連れて行ってもらい、その画家の人たちと一緒に描きました。
美術部でもない私が20号を描くのですから、やはり普通の高校生ではありませんね。父が美術の教師だったからですね。
そして、この絵は雪の上に座り込んで、ものすごい寒さの中で描いたのです。描いている内に、水入れに入れておいた筆が凍りついて抜けなくなるのが、わかりました。本当に寒くなると、首より足が耐えられないことを知り、首に巻いていたマフラーを足に巻いたことを覚えています。
そんな状況で描いた絵なので、思い出も一塩なのです。
高校時代の大きな思い出になりました。
ただこの時の私は、まだ絵より運動が好きで、バスケットを夢中でやっていたのです。
しかし、段々と絵に向かっていたことは確かです。
つづく
今日は、高校時代のことをお話しします。
実は、今日、父がアトリエで昔の絵を倉庫から引き出して見ていました。
その中に、私の高校時代の絵が出て来ました。
私が初めて県展に入選したのは、高校2年生の時です。
この絵です。初めて描いた20号です。
県展のなんたるかも知らず、怖いもの知らずの私が無謀にも県展に出品し、まぐれで入選してしまったのです。
毎年、4月になると、父や仲間の画家たちが、県展に出すということで、慌ただしくなにやら出品の準備をしている様子がありました。そのときに、「僕も出してもいいかな?」と言ったのが始まりでした。
「お前なんかとてもダメだ」というのが、父の最初の言葉でした。しかしその後、「でも古川先生に聞いてみるか」というのが、次の言葉で、とりあえず聞いてくれました。古川先生は、「出したいと言うんなら出させてみろいな」という答えだったそうです。
それで、出すことになりました。
結果は入選です。そして、その後から、県展に入選するのは大変なんだと知らされました。
実は、本庄高校は古川先生が教えています。だから美術部の生徒たちも入選者がいました。
ただ、高校生が入選するのは、とても大変なことで、本庄高校は古川先生が指導しているから、入選者が出るので、
他の学校では、なかなか入選者はでないのだということでした。
そうなのか、そんなにすごいのかとキョトンとしていました。
実は、私は美術部ではないのです。そのときは、バスケット部でした。そして、キャプテンをしていたのです。
普通の高校では、美術部でも入選はほとんどいない状態で、本庄高校の美術部だからレベルが高くて、入選者がいるという状態なのに、そうはいっても、美術部のほんの数人が入選することができるということなのに、あろうことかバスケット部の私が入選してしまったのです。
今でも、私の自慢の一つなのですが、私は美術部に入る前に県展に入選した人なのです。
ただ、それをすごいとも思わず、必死で入選を目指した訳でもなく、だから凄いと言われても分かりませんでした。
この時の美術部の入選者は、3年生3人、2年生2人です。その二年生の一人が私だった訳です。
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これを聞くと、なんだやっぱり絵が上手かったんじゃないかとおっしゃる方がいると思います。
しかし、絵を見てください。まだ、全くの素人ですよ。道の表現を見ると透視図法は知っていますね。
構図的にもバランスは良いと思います。特に大きな間違いはありません。ただ、描き込みはできていませんし、
一つ一つの表現がとても甘いです。どうして入選できたのかな?立派な額のお陰かな?などと思いました。
だから、もしかすると古川先生が入れてくれたのかなとそんなことが可能かどうか、今の審査を聞くと一人の意見で決まるはずはないと思いますが、そのときは、先生のお陰で入れてもらったのだろうと思っていました。
ただそのときから、私は県展入選という勲章を得たのです。
美術部からスカウトされました。「俺はバスケット部のキャプテンだよ」と言って断ったことを覚えています。
この作品は、初めて描いた20号です。
父が絵の仲間と写生旅行に行くのに便乗して連れて行ってもらい、その画家の人たちと一緒に描きました。
美術部でもない私が20号を描くのですから、やはり普通の高校生ではありませんね。父が美術の教師だったからですね。
そして、この絵は雪の上に座り込んで、ものすごい寒さの中で描いたのです。描いている内に、水入れに入れておいた筆が凍りついて抜けなくなるのが、わかりました。本当に寒くなると、首より足が耐えられないことを知り、首に巻いていたマフラーを足に巻いたことを覚えています。
そんな状況で描いた絵なので、思い出も一塩なのです。
高校時代の大きな思い出になりました。
ただこの時の私は、まだ絵より運動が好きで、バスケットを夢中でやっていたのです。
しかし、段々と絵に向かっていたことは確かです。
つづく