雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

白河

2005-12-30 22:59:01 | 雑談(ジョーク)
京都に華があったのは平安時代。異論もあろうが、ドナルド・キーン氏だったか、その師匠だったかは、日本と美いえば、平安時代の京にしか興味がないといっていた。和歌という独特の、そしてこのうえなく日本らしい文化を作り上げた時代の最初だったかもしれない。

そんな和歌の題材に顔を出したのが、奥州。先日の『義経』【NHK】でもそうだったが、みやびな京都人にとっても憧れであり続けた奥州は、西行から、芭蕉までが、その地に向かって弊履をうがった。

関東からみてそんな奥州の玄関が白河で、年末、ぽっかりと空いた数日に、白河へ向かった。しかしだからといって上のようなことだけで白河に赴いたのではない。

僕の家系は、大戦を境に父・母方ともに双方の本家から寸断されて詳しいことはわからない。が、戸籍上、双方ともに白河にいた。父方のそれは、江戸時代末期にいたことしかわからないが、母方のそれは、おそらく秀吉が天下統一を受け継いだ頃にまでさかのぼる。

母方の姓は、「近藤」といい、「近江の藤屋」で、近江の領主蒲生氏郷とともに会津にやってきた。そのときの蒲生の所領に白河も含まれていて、白河とはつながっていた。

徳川の時代、蒲生が二代で絶えたあと、藩主が数名入れ替わった後、会津と白河は別個の藩になり、江戸中期、松平定信が藩主になる。のちに、老中になった、倹約一徹のひとである。

倹約を推し進めたのは、江戸の経済基軸が米か金かでゆれているときに「米」を選んだからだそうだが、そんな定信も江戸時代後期には、貨幣経済を白河にいれようと思い、商業を推進しようとする。

『街道をゆく33:白河・会津のみち赤坂散歩』に、そんな推進の一例として挙げられている商人の名が、藤屋である。このとき城下二番町にあったとあり、上方の酒を勉強せよといわれた。

僕の母方の曽祖父は、その藤屋という酒屋(新潟)だと祖父がいっていたと母がいっていた。真偽のほどを確かめるには新潟に行かなければならないが、一応こんな理由から白河を目指した。

僕がみた白河は…。本当は僕がみた白河の心象を言葉で表現したいと思って、つまり白河と自分の家系との繋がっているようで繋がっていない関係が言葉でなら繋がると期待して、この記事を書き始めたが、いまだ精製される気配はない。

悪しからず。 

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