卒業シーズンってのは寂しい。
ただ「寂しい」のはいい。「寂しい」は、世の常であり、次のステージに進むことで、「おめでたい」同様、「芽が出る」ことに似ていると思うからだ。
でも今年のこのシーズンはなぜか悲しい。
その理由を、ブラームスの4番(クライバー)を聴きながらずっと考えていた。
そうしたらまた文学の神が降臨した。
ここのところ Jonathan Swift を読んでいた。彼のことは、Misanthrope でも書いたが、その批評家で好きなひとに、Frank Brady がいる。
その最初の1行が、「Jonathan Swift について書くのは危険だ。なぜなら彼は読者よりも頭がいいからである」。
これほど適確なのはみたことがない。Brady もいっているが、今までいくつかの論評を読んでみて、『ガリバー旅行記』の解釈の幅は広すぎる。
現代文学をポストモダンで斬るとか、フェミニズムで斬るというのではない。
いわゆる「純粋批評」という分野(まさにいいたいことを突き止める)で、1726年に発表されたものなのに近づけない。
そして多くの大家が、Impossible という回答を残して死んでいった(なかには「バカバカしい」とか「彼はうまくない」と非難するひともいた)。
僕の場合大家がいえばいうほど、その反対を持ちたくなる(「無勢に多勢」が好き!そのため社会生活では苦戦を強いられている、というかそれを自分で選びながら悲しんでいる)。
そのため「Misanthrope」にも書いたように「今までのひとはここを読み違えとるっ」と書いたわけだが、そうしたアマノジャクを続けているといいこともあるらしく(継続は力なり)、文学の神が降臨して、『ガリバー旅行記』の主題を教えてくれ、こともあろうに、僕の最近の悲しみの理由を明かにしてくれた。
ひとことでいえば、「既成の価値観に依存しすぎたとき堕落が始まる」というものだが、これを人間関係にあてはめてみよう。
人間関係は社会関係であって、友人、親子、知人、元恋人、兄弟、いろいろ括り方がある。
「親子」を例にとろう。「親」は、相手である「子」に対し、自分の子供だからとあまやかしたり、自分のやり方を押し付けたりすると、その親子関係は堕落したことになる。
今度は「恋人同士」。結婚の挨拶をするとき、「男」が結婚の許しを得るために「女」のご両親に挨拶に行くとき、その女の方が「断られてもきちんと挨拶して根性みせるのは当たり前、助けなんて求めないでガンバレ」と考えていると、「男」はやる気がなくなって壊れる(実際に途中で引き返して婚約を解消した人を知っている)。
なぜか後半の例の方が理解が難しそうだが実例だから仕方ない(僕はこの話を聞いたとき女性の方が知り合いだったので黙っていた)。
つまり秩序はゲームのルールのようなものだからその関係をホンモノにするには個として適切な行動が必要ということだ。
そしてそれをきちんとやっておけば、たとえその社会関係がカリソメのものであっても一生の付き合いに発展していく。
この卒業シーズン、悲しかったのは、そうした関係を作りたかったのにきちんと作れなかったから(この3月で配置換えされれば、何でもなくなってしまいそう)。作りたいひとだったのに。
追伸:しかしわかってしまえばこっちのもん。いつの間にやらスピーカーから流れる音楽は、ブルックナーの7番(ベイヌム)。これが聴きたくなるときは大体快方に向かっている。
ただ「寂しい」のはいい。「寂しい」は、世の常であり、次のステージに進むことで、「おめでたい」同様、「芽が出る」ことに似ていると思うからだ。
でも今年のこのシーズンはなぜか悲しい。
その理由を、ブラームスの4番(クライバー)を聴きながらずっと考えていた。
そうしたらまた文学の神が降臨した。
ここのところ Jonathan Swift を読んでいた。彼のことは、Misanthrope でも書いたが、その批評家で好きなひとに、Frank Brady がいる。
その最初の1行が、「Jonathan Swift について書くのは危険だ。なぜなら彼は読者よりも頭がいいからである」。
これほど適確なのはみたことがない。Brady もいっているが、今までいくつかの論評を読んでみて、『ガリバー旅行記』の解釈の幅は広すぎる。
現代文学をポストモダンで斬るとか、フェミニズムで斬るというのではない。
いわゆる「純粋批評」という分野(まさにいいたいことを突き止める)で、1726年に発表されたものなのに近づけない。
そして多くの大家が、Impossible という回答を残して死んでいった(なかには「バカバカしい」とか「彼はうまくない」と非難するひともいた)。
僕の場合大家がいえばいうほど、その反対を持ちたくなる(「無勢に多勢」が好き!そのため社会生活では苦戦を強いられている、というかそれを自分で選びながら悲しんでいる)。
そのため「Misanthrope」にも書いたように「今までのひとはここを読み違えとるっ」と書いたわけだが、そうしたアマノジャクを続けているといいこともあるらしく(継続は力なり)、文学の神が降臨して、『ガリバー旅行記』の主題を教えてくれ、こともあろうに、僕の最近の悲しみの理由を明かにしてくれた。
ひとことでいえば、「既成の価値観に依存しすぎたとき堕落が始まる」というものだが、これを人間関係にあてはめてみよう。
人間関係は社会関係であって、友人、親子、知人、元恋人、兄弟、いろいろ括り方がある。
「親子」を例にとろう。「親」は、相手である「子」に対し、自分の子供だからとあまやかしたり、自分のやり方を押し付けたりすると、その親子関係は堕落したことになる。
今度は「恋人同士」。結婚の挨拶をするとき、「男」が結婚の許しを得るために「女」のご両親に挨拶に行くとき、その女の方が「断られてもきちんと挨拶して根性みせるのは当たり前、助けなんて求めないでガンバレ」と考えていると、「男」はやる気がなくなって壊れる(実際に途中で引き返して婚約を解消した人を知っている)。
なぜか後半の例の方が理解が難しそうだが実例だから仕方ない(僕はこの話を聞いたとき女性の方が知り合いだったので黙っていた)。
つまり秩序はゲームのルールのようなものだからその関係をホンモノにするには個として適切な行動が必要ということだ。
そしてそれをきちんとやっておけば、たとえその社会関係がカリソメのものであっても一生の付き合いに発展していく。
この卒業シーズン、悲しかったのは、そうした関係を作りたかったのにきちんと作れなかったから(この3月で配置換えされれば、何でもなくなってしまいそう)。作りたいひとだったのに。
追伸:しかしわかってしまえばこっちのもん。いつの間にやらスピーカーから流れる音楽は、ブルックナーの7番(ベイヌム)。これが聴きたくなるときは大体快方に向かっている。
どう考えても人間嫌いだったんだろうなあ、と。
単なる冒険旅行記でないのは明らか。
500枚の小説をWebに順次公開してますが、
週末公開のChapter 1 でガリバー旅行記の話が出てきます
(ユートピアの話をしているときに)。
もしご興味がおありになれば。
僕は専門家ではないですが、Brady によると(1978年の論文)、これまでたくさんの批評家がいましたが、彼らは、灯りのまわりを飛んでる蛾のようなものだそうです。それほど Swift の知性がいろいろな意味でよせつけていないようにみえるということでしょうね。
昨年出た本に、Jonathan Swift's Gulliver's Travels: A Sourcebook というとっても便利なのがあるのですが、それによるとHouyhnhnm の国のモデルは、1693年に書かれたオーストラリアの旅行記らしいです。
Swift のことを語る場合、この「らしい」が不可欠なわけですが、Brady が面白いのは、この「らしい」だけを取り扱って論文にしています(上記本にも一部掲載されています)。
Brady の本とは、辞書(事典?)のようなものなのでしょうか。大学の図書館で探してみようとおもいます。
オーストラリアは、長い間(大航海時代以前)、人々の想像力をかきたてる未開の地だったようですね。
ともかく、馬のやさしさを愛する Swift が、私は好きです。
Frank Brady の方は論文で、‘Vexations and Diversions: Three Problems in Gulliver’s Travels’というタイトルで、Modern Philology vol. 75 (1978)という雑誌に載っています。『Jonathan Swift's Gulliver's Travels: A Sourcebook』 は Paperbackで、200頁程度のものです。
僕は、Swift は自分の考え方をきちんと持っていただけで、ひとがいうほど変っていたとは思いません(僕自身が変ってる場合もありますが・・・)。
またお越しください。