昨日の12月25日は、X'mas だけでなく、ハヌカー Hanukah の最初の夜。ハヌカーとは、ユダヤの暦でのKislev月の、25日から8日間のお祭りで、ユダヤ料理のラートケ(じゃがいものホットケーキ)なんかが思い出されるだろうか。
何を祝福するかというと、約2200年前、シリア統治下のユダヤの愛国者マカバイオスの反乱がうまくいったから。シリア皇帝アンティオコス四世(175-164)が、ユデア(ユダヤでもいい)にヘレニズムの文化を無理強いし、それをうまくはねのけたことをお祝いするお祭りだと手元の辞典にはある。
しかし単なる戦争の勝利が、現在では、「奇跡」として扱われている。現在このお祭りで唱えられる言葉が以下である。
“Blessed art Thou, O Lord our God, King of the universe, who wrought miracles for our fathers in days of old."(汝、主である神に祝福あれ、宇宙の神よ。あなたは、古の我々の父たち奇跡を引き起こした)
Townhallの記事によると、この「戦争での勝利」から「奇跡」へという化学変化は、「ろうそく」によって引き起こされたという。ろうそくがユダヤの歴史に相応しくない(もしくは都合の悪い)事実を消している、というわけである。
そもそもこの戦争というか反乱といわれてきたものは、実は、ユデア内での市民戦争で、かっこいいギリシア文化を受け容れたい人と、それに反対するひととの間で起こった。ギリシアのオリンピック(競技会)や神々はユダヤを冒涜するものだととらえ、ユダヤ伝統の神聖な信仰を守ろうとする戦いで、同化ではなく独自の伝統を、モダニズムではなくファンダメンタリズムを、というわけで、決してシリアを相手にした、純粋なユダヤの戦争ではないということだ。
戦争が終わったあと、エルサレムの神殿の油は、異教徒の儀式に「汚されて」いたとみなされたわけだが、ひとつだけ汚されていない油があって、それが一日火をともすのに使えた。ここで、ハヌカーの意義は、戦争の勝利から、異教徒の儀式に「汚された」神殿を清めることにディコンストラクトされ、ハヌカーの油が一日分残っていた事実が奇跡だとみなされるようになる。現在のハヌカーの祭りで催されるのは、神殿を解放したものたちがどうやって一日燃やし続けるのに十分な純粋な油を得たか、というタルムード編纂の話であるそうな。
結果、軍事行為が旧約にはかかれず、聖書外典に辛うじて載り、一方戦争の勝利が、勝利による結果に取って代わられて、その後、勝利は神の恩寵による奇跡とみなされるようになった。ろうそくが都合の悪い事実を消してしまったというわけだ。同記事は、歴史とはこういうものだ、と揶揄してから、こうした変遷を経たうえで旧約に残るハヌカーに関する一節、ゼカリヤ書、4の1から7、をひいている。
ここでゼカリアはまどろみのなかで神の使いから、目の前に現出した荘厳なろうそくの意味を知らされるのだが、次のようにいわれる、「これ(ろうそく)は、権勢によらず、能力によらず、我が霊によるなり」と。
なるほど、と思った次第。
ハヌカーの概略は、こちらで。また、同じくTownhallからこんな記事(The Triumph of Chanukah)もあり。
何を祝福するかというと、約2200年前、シリア統治下のユダヤの愛国者マカバイオスの反乱がうまくいったから。シリア皇帝アンティオコス四世(175-164)が、ユデア(ユダヤでもいい)にヘレニズムの文化を無理強いし、それをうまくはねのけたことをお祝いするお祭りだと手元の辞典にはある。
しかし単なる戦争の勝利が、現在では、「奇跡」として扱われている。現在このお祭りで唱えられる言葉が以下である。
“Blessed art Thou, O Lord our God, King of the universe, who wrought miracles for our fathers in days of old."(汝、主である神に祝福あれ、宇宙の神よ。あなたは、古の我々の父たち奇跡を引き起こした)
Townhallの記事によると、この「戦争での勝利」から「奇跡」へという化学変化は、「ろうそく」によって引き起こされたという。ろうそくがユダヤの歴史に相応しくない(もしくは都合の悪い)事実を消している、というわけである。
そもそもこの戦争というか反乱といわれてきたものは、実は、ユデア内での市民戦争で、かっこいいギリシア文化を受け容れたい人と、それに反対するひととの間で起こった。ギリシアのオリンピック(競技会)や神々はユダヤを冒涜するものだととらえ、ユダヤ伝統の神聖な信仰を守ろうとする戦いで、同化ではなく独自の伝統を、モダニズムではなくファンダメンタリズムを、というわけで、決してシリアを相手にした、純粋なユダヤの戦争ではないということだ。
戦争が終わったあと、エルサレムの神殿の油は、異教徒の儀式に「汚されて」いたとみなされたわけだが、ひとつだけ汚されていない油があって、それが一日火をともすのに使えた。ここで、ハヌカーの意義は、戦争の勝利から、異教徒の儀式に「汚された」神殿を清めることにディコンストラクトされ、ハヌカーの油が一日分残っていた事実が奇跡だとみなされるようになる。現在のハヌカーの祭りで催されるのは、神殿を解放したものたちがどうやって一日燃やし続けるのに十分な純粋な油を得たか、というタルムード編纂の話であるそうな。
結果、軍事行為が旧約にはかかれず、聖書外典に辛うじて載り、一方戦争の勝利が、勝利による結果に取って代わられて、その後、勝利は神の恩寵による奇跡とみなされるようになった。ろうそくが都合の悪い事実を消してしまったというわけだ。同記事は、歴史とはこういうものだ、と揶揄してから、こうした変遷を経たうえで旧約に残るハヌカーに関する一節、ゼカリヤ書、4の1から7、をひいている。
ここでゼカリアはまどろみのなかで神の使いから、目の前に現出した荘厳なろうそくの意味を知らされるのだが、次のようにいわれる、「これ(ろうそく)は、権勢によらず、能力によらず、我が霊によるなり」と。
なるほど、と思った次第。
ハヌカーの概略は、こちらで。また、同じくTownhallからこんな記事(The Triumph of Chanukah)もあり。
それにしてもStone Mountainさんのblogは高度で理解するのに時間がかかるよm(__)m