雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

一休さん

2015-08-10 21:48:10 | 宗教
『一休さん』の再放送を待っていた。

頭を使って問題を切り抜ける痛快さを子供たちに見せたかったからだ。

期待通り、子どもたちは頭を使う「すごさ」を愉しんだ。息子は何かあると、座禅を組んで、人差し指をぺろりとなめて頭に円を描いて、座禅を組んだりするようになった。

人間は良くも悪くも頭を使って進歩してきた生き物で、カンガルーなどの有袋類との競争でも、脳が大きく成長するわれらが一歩先んじたのだと教えた。

僕は満足してその後は一緒に『一休さん』をみなくなったのだったが、ふと気づくと、子供たち、とくに娘が繰り返しみるエピソードがあることに気付いた。

みてみると僕もみたことがないもので、いきなり一休さんが和尚さんに無理難題を押し付けられて苦しむものだ。

「どうしちゃったの?」と訊きたくなるほど鬼の形相になった和尚さんに僕は立ち尽くした。

確かにどんなに信頼感のあるひとでもこういう風に機嫌が悪いというか、理解できない側面をみせることがあることはある。

しかし和尚さんは確信犯的に一休さんに何かを伝えようとしていた。

人知の卑小さで、一休さんの頭脳を真っ向から否定する内容だった。

人間の知恵など所詮小賢しいものでしかないという「他力」を教えるものだった。

多量の薪を担いで傷がついたからだで熱い風呂に入れられ、その傷口に塩をぬられるなどしたあと、一休さんはひとりの子供として泣いてしまう。「和尚様は私が嫌いなのですか」とか「お許し下さい」と、そこには知恵など一切介入しないすがる気持ち。

とっても感動した。

実際の一休で感動した言葉は、一休が臨終を迎えるとき弟子たちが跡継ぎは誰にすべきか尋ねられたときの答え。

「そんなものはない。これで終わり」と突き放した。

組織を作ったらそれはもう宗教ではなくなるとかいろいろ説明はつけられるが、今日は釈迦の言葉を思い出したい。

釈迦が亡くなるときも同じく弟子から教義の中心になる過去の釈迦の言葉から選択を求められたが、釈迦は「全部忘れろ」といった。

ひとことでいえば「顕教」ということになるが、確かに真実は時と場所の一座標にそれぞれ存在するものなのだろう。

なるほどと思った。

追伸1:道端の本屋で『犬も歩けば物理にあたる』(Jearl Walker著)を手にとった。僕は傘をさすのが下手なので、いっそのこと雨の中走った方がぬれる雨粒の量は減るのではないかと思うことがあったのだが、この問題に正答をくれるとのことだった。期待して読み進めたが、その回答は、雨の降る量、角度によって異なるというものだった。一筋縄ではいかないものだ。

追伸2:Walkerの著作には明瞭な回答もあった。たとえばエンパイアステートビルディングと同じ高さのドミノ排を倒すのに何個のドミノが必要かという問いには、32個と明示されていた。どの辺も1.5倍になるように牌を大きくしていって32枚で、最終的に2012倍の力に含められるというローン・ホワイトの実験結果が載せられていた。またジャングルの動物たちが低周波の声を発するのは、その方が地上にとどめられよく聞こえるからというものだった。木々や葉の音にかき消されないとか、夜冷気が地上に降りてきてもその下を流れるらしい。ちなみに像は1000ヘルツがよく聞こえるらしいが、恋愛のメッセージは14-35ヘルツにまで下げるそうだ。愛の言葉はやはり聞こえるように言わなければ意味がないらしい。人間が聞こえる低周波が35以下20ヘルツくらいまでだから人間はほとんど聞き取れないかもしれない。

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