娘に「愛(自己犠牲)」を教えたいと『ドラえもんの雲の王国』を購入しみせた。
最後にドラえもんが自らの命を捨てて人命を守る決断をみせたかったのだ。
もちろん泣いたのは僕だけで、娘は「ドラえもん死んじゃった」といい、結局生き返るので「生き返った、よかったよかった」といっていた。
やっぱり自己犠牲は死んでその喪失感によって表されるのかもしれないと思った。
内村鑑三がどこかでlove と leave は同語源であることを強調していたが、「愛」とは結局は「断ち難い別れ」を意味するということだ。
そこで『100万回生きたねこ』をみせた。
いわずとしれたloveとleave の物語で、自分だけを愛していたときには100万回死んでも死ななかったが、断ち難い別れを前提にした愛を経験した猫は死に、生き返ることがなかった、というお話だ。
しかし夜寝る前に何度か読んでそのたびに泣くのは僕だけで、期待通りの結果にはならなかった。
「ちょっと早いんでない?」
と思われるかもしれないが、「愛(自己犠牲)」を教えたくなったのにはわけがあった。
最近娘は「愛」ではなく「愛憎」は知っていた。
すごく好きな相手が時に嫌いになる。好きだからこそ許せないことがあるためだ。
『未成年』にもそうした男女が描かれていた。
生物学的な差なのだから肉欲や美貌といったものだけで魅かれる関係で終わればいいのだが、精神性や価値観、知性や人間性で好きになると、些細な「堕落」が許せなくなる。
もっと詳しく言えば、男にとって相手の女性が女性的であることが許せなくなる。
『未成年』の場合、女性の、本当に自分を依存させることができる男性を探す性質(ジェンダー)が嫌なのだ。
『未成年』には、そうであるがためにその女性を絶対に拒絶し抜きたい男性が出てくるのだが、それは僕にも経験がある。
それゆえに憎むのだ。しかも自己矛盾だがそうしたところがたまらなく自分の男性的な部分は好きだと来ているから始末に悪い。その結果激しく憎むのである。
娘には『未成年』レベルではないものの(まだ2歳だから)、そうした愛憎が生まれていた。
無論相手は僕で、最近は僕に結婚式を挙げようというまでになったし、どこで覚えたか、どこまで意識しているのか媚態までさらすことがあった。
数日前のことだ。
お風呂の湯量が少しいつもより多かったので、娘が水を飲まないように支えてやらなければならなかった。
最近僕の膝に座るのを嫌がり、自分だけで湯船に入りたがるためだ。
しかしその日はいつもよりかなり多めだったため、心なしか力をいれて尻を浮かせた。
するとこともあろうに「いやんっ」といったのである。
そのなまめかしいトーンにしばらく耳を疑った。
が、もちろんそれを僕が嫌いというのではなく、むしろ先に示した依存傾向がすでに顕れていて、僕に言わせればそっちの方が媚態なのだが(もちろんわが子なのだから僕に対する依存傾向が嫌いなはずもないが)、つい自分の方を振り向かせて、「今なんつった?」と問い返してしまった(ほどに驚いたということ)。
そんなわけで愛憎がわかるのなら「愛」も教えてやりたいと思ったのだ。
ほかに『ずっといっしょに(とかなんとか)』いういもとようこの本もみせたが、なかなか自己犠牲までは教えられなかった。
愛で覚えてくれたのは、松崎しげるの「愛のメモリー」の「♪限りない喜びをあなたにぃぃぃ♪」というフレーズくらいで、彼女のメモリーからは「愛」はLock outされているようだった。
最後にドラえもんが自らの命を捨てて人命を守る決断をみせたかったのだ。
もちろん泣いたのは僕だけで、娘は「ドラえもん死んじゃった」といい、結局生き返るので「生き返った、よかったよかった」といっていた。
やっぱり自己犠牲は死んでその喪失感によって表されるのかもしれないと思った。
内村鑑三がどこかでlove と leave は同語源であることを強調していたが、「愛」とは結局は「断ち難い別れ」を意味するということだ。
そこで『100万回生きたねこ』をみせた。
いわずとしれたloveとleave の物語で、自分だけを愛していたときには100万回死んでも死ななかったが、断ち難い別れを前提にした愛を経験した猫は死に、生き返ることがなかった、というお話だ。
しかし夜寝る前に何度か読んでそのたびに泣くのは僕だけで、期待通りの結果にはならなかった。
「ちょっと早いんでない?」
と思われるかもしれないが、「愛(自己犠牲)」を教えたくなったのにはわけがあった。
最近娘は「愛」ではなく「愛憎」は知っていた。
すごく好きな相手が時に嫌いになる。好きだからこそ許せないことがあるためだ。
『未成年』にもそうした男女が描かれていた。
生物学的な差なのだから肉欲や美貌といったものだけで魅かれる関係で終わればいいのだが、精神性や価値観、知性や人間性で好きになると、些細な「堕落」が許せなくなる。
もっと詳しく言えば、男にとって相手の女性が女性的であることが許せなくなる。
『未成年』の場合、女性の、本当に自分を依存させることができる男性を探す性質(ジェンダー)が嫌なのだ。
『未成年』には、そうであるがためにその女性を絶対に拒絶し抜きたい男性が出てくるのだが、それは僕にも経験がある。
それゆえに憎むのだ。しかも自己矛盾だがそうしたところがたまらなく自分の男性的な部分は好きだと来ているから始末に悪い。その結果激しく憎むのである。
娘には『未成年』レベルではないものの(まだ2歳だから)、そうした愛憎が生まれていた。
無論相手は僕で、最近は僕に結婚式を挙げようというまでになったし、どこで覚えたか、どこまで意識しているのか媚態までさらすことがあった。
数日前のことだ。
お風呂の湯量が少しいつもより多かったので、娘が水を飲まないように支えてやらなければならなかった。
最近僕の膝に座るのを嫌がり、自分だけで湯船に入りたがるためだ。
しかしその日はいつもよりかなり多めだったため、心なしか力をいれて尻を浮かせた。
するとこともあろうに「いやんっ」といったのである。
そのなまめかしいトーンにしばらく耳を疑った。
が、もちろんそれを僕が嫌いというのではなく、むしろ先に示した依存傾向がすでに顕れていて、僕に言わせればそっちの方が媚態なのだが(もちろんわが子なのだから僕に対する依存傾向が嫌いなはずもないが)、つい自分の方を振り向かせて、「今なんつった?」と問い返してしまった(ほどに驚いたということ)。
そんなわけで愛憎がわかるのなら「愛」も教えてやりたいと思ったのだ。
ほかに『ずっといっしょに(とかなんとか)』いういもとようこの本もみせたが、なかなか自己犠牲までは教えられなかった。
愛で覚えてくれたのは、松崎しげるの「愛のメモリー」の「♪限りない喜びをあなたにぃぃぃ♪」というフレーズくらいで、彼女のメモリーからは「愛」はLock outされているようだった。