ジャズに入れ込むと、ブルースに行かざるを得なくなる。そんな折、中村とうようの『ブルースの世界』を読んだ。その前書きを読むと、本物のブルースというのは、マディ・ウォーターズらのシカゴ・ブルースでもなければ、その延長上にあるB・B・キングでもない。また、1920年代前半から売れ始めたマ・レイニーやベッシー・スミスでもない。また、ロックが生まれる前夜に生まれた最初のR&Bでもなく、Country Bluesである、と読める。
Country Bluesとは、アメリカに来たアフリカ人々が南北戦争後に獲得した余暇、人間らしさに目覚め、アメリカという地にアメリカ人として生き始めた最初の呼吸に似た一文化現象であり、その最初に、Blind Lemon Jefferson がいる。当時のブルースメンというと、まず声が大きいことが大事で、彼の場合ミシシッピ川の一方の岸から他方まで届いたといわれるほどである。またタフであることでも有名で、一晩に六人もの女性を相手にしたという伝説もある(ただその名前に示されているように、目が見えなかったからこそそれだけの女性を・・・というひともいる)。
さてCountry Bluesを「文化現象」としたのは、他民族のひとにはなかなか受け容れにくいから。司馬さんの定義によると、「文明」はその発生地以外にも浸透していくが、「文化」はそうならない。したがって漢字さえ「文明」であるが、このCountry Bluesがなかなかそうはいかない。中村とうようさんでさえ、聴き始めてから、10年目で、その良さに気づいたという。
僕も、ブルースの大元のJeffersonを聴く寸前までは、「これがブルースの・・・」と期待に胸が高鳴ったが、聴いてみると、何も感じないどころか、Jeffersonが明らかに僕を、また僕の身体がJeffersonを拒絶するのを感じた。中村さんの言うとおりだったが、中村さんが時間はかかってもその良さがわかるという言葉を信じて7年目、ついにJeffersonのブルースが魅力になった(一ヶ月前の話)。
僕の好きなブルース歌手といえば、Clarence Gatemouth Brown やKoko Taylorだが、彼らをJeffersonと比べると、単に技巧派にみえたりする(Sonny Terryなんかそうとしかみえないかも!50年代以降のひとの場合はみんな軽薄にみえるかも!)。そしてはまりはじめると、彼の詩も真剣に読んでみたりする。
ブルースの詩というと、芸術的というよりは、舌ったらずで客観的な描写が足りず、とても個人的なため、想像力をたくましくすることが要求されるが、何よりその歌詞に描かれる「やるせなさ」がいい。例えば、Jefferson のBig Night Bluesなんてのがある。
「足があまりに冷たくて、靴が履けない。そう、足が冷たすぎて靴はほとんど履けない。昨日の夜は、すげえ女の子と一緒で、Big Night Bluesをもらった。」
「オレは、女の子のうちのひとりをとっつかまえて、時計が12時を打つまで踊った。オレは、女の子ひとりをつかまえて、12時になるまで踊った。俺が選んだ女の子と一生懸命取っ組み合わなければならなかった。今気分が全然よくないっ!」
「オレはあのパーティーに戻ることになってる。またあの威勢のいい女たちのところにいく。オレは、パーティーに戻って、あの女たちのところにいく。ジンを1ℓ呑むまでは帰らない。」
「手に負えない女どもは酒みたいだ。ジンとやつらのタフさとライウイスキー。手におえない女どものは酒と似てる。ジンとタフさとライ・ウイスキー。あの子は、昨日の夜、オレを帰らせたくなかった。その理由もいおうとしなかった。」
「オレの顔を壁に向けると、あいつはひどいうめき声を発した。あいつはすごいうめき声を発した。ああ、オレには親父が必要だ。だってオレの時計は家にあってとまっちまってるんだから。」
なんだか夢のなかでの物語のように細部の辻褄があってないが、この根底にある「やるせなさ」は伝わってこないだろうか。「やるせなさ」に言葉を合えてあてると、こんな調子になったとは考えられないだろうか。言葉は、明瞭に、きちんとした適語選択をしなくてはならないと教えられてきたが、どこかで感じたことのあるこの「やるせなさ=ブルーな気持ち」はこんな風にやった方がはるかに伝わる、と感心した、「これこそ詩だ」と。
Country Bluesとは、アメリカに来たアフリカ人々が南北戦争後に獲得した余暇、人間らしさに目覚め、アメリカという地にアメリカ人として生き始めた最初の呼吸に似た一文化現象であり、その最初に、Blind Lemon Jefferson がいる。当時のブルースメンというと、まず声が大きいことが大事で、彼の場合ミシシッピ川の一方の岸から他方まで届いたといわれるほどである。またタフであることでも有名で、一晩に六人もの女性を相手にしたという伝説もある(ただその名前に示されているように、目が見えなかったからこそそれだけの女性を・・・というひともいる)。
さてCountry Bluesを「文化現象」としたのは、他民族のひとにはなかなか受け容れにくいから。司馬さんの定義によると、「文明」はその発生地以外にも浸透していくが、「文化」はそうならない。したがって漢字さえ「文明」であるが、このCountry Bluesがなかなかそうはいかない。中村とうようさんでさえ、聴き始めてから、10年目で、その良さに気づいたという。
僕も、ブルースの大元のJeffersonを聴く寸前までは、「これがブルースの・・・」と期待に胸が高鳴ったが、聴いてみると、何も感じないどころか、Jeffersonが明らかに僕を、また僕の身体がJeffersonを拒絶するのを感じた。中村さんの言うとおりだったが、中村さんが時間はかかってもその良さがわかるという言葉を信じて7年目、ついにJeffersonのブルースが魅力になった(一ヶ月前の話)。
僕の好きなブルース歌手といえば、Clarence Gatemouth Brown やKoko Taylorだが、彼らをJeffersonと比べると、単に技巧派にみえたりする(Sonny Terryなんかそうとしかみえないかも!50年代以降のひとの場合はみんな軽薄にみえるかも!)。そしてはまりはじめると、彼の詩も真剣に読んでみたりする。
ブルースの詩というと、芸術的というよりは、舌ったらずで客観的な描写が足りず、とても個人的なため、想像力をたくましくすることが要求されるが、何よりその歌詞に描かれる「やるせなさ」がいい。例えば、Jefferson のBig Night Bluesなんてのがある。
「足があまりに冷たくて、靴が履けない。そう、足が冷たすぎて靴はほとんど履けない。昨日の夜は、すげえ女の子と一緒で、Big Night Bluesをもらった。」
「オレは、女の子のうちのひとりをとっつかまえて、時計が12時を打つまで踊った。オレは、女の子ひとりをつかまえて、12時になるまで踊った。俺が選んだ女の子と一生懸命取っ組み合わなければならなかった。今気分が全然よくないっ!」
「オレはあのパーティーに戻ることになってる。またあの威勢のいい女たちのところにいく。オレは、パーティーに戻って、あの女たちのところにいく。ジンを1ℓ呑むまでは帰らない。」
「手に負えない女どもは酒みたいだ。ジンとやつらのタフさとライウイスキー。手におえない女どものは酒と似てる。ジンとタフさとライ・ウイスキー。あの子は、昨日の夜、オレを帰らせたくなかった。その理由もいおうとしなかった。」
「オレの顔を壁に向けると、あいつはひどいうめき声を発した。あいつはすごいうめき声を発した。ああ、オレには親父が必要だ。だってオレの時計は家にあってとまっちまってるんだから。」
なんだか夢のなかでの物語のように細部の辻褄があってないが、この根底にある「やるせなさ」は伝わってこないだろうか。「やるせなさ」に言葉を合えてあてると、こんな調子になったとは考えられないだろうか。言葉は、明瞭に、きちんとした適語選択をしなくてはならないと教えられてきたが、どこかで感じたことのあるこの「やるせなさ=ブルーな気持ち」はこんな風にやった方がはるかに伝わる、と感心した、「これこそ詩だ」と。