毎日が、始めの一歩!

日々の積み重ねが、大事な歴史……

学べ! 自身と世界のために

2022年07月24日 | 妙法

学べ! 自身と世界のために 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2022年7月24日

 【写真説明】初夏のロンドン郊外。青天に向かって、緑の木々が真っすぐに伸びている。1989年(平成元年)5月、池田大作先生が車中からカメラを向けた。
 滞在中、先生は英国王室のアン王女ら要人と会見し、タプロー・コート総合文化センターの開所式などに出席。合間を縫って、子どもたちと握手を交わす。時には、手品を披露し、笑顔の花を咲かせた。メンバーは師の励ましを胸に今、広布と社会のリーダーへと成長している。
 「未来部躍進月間」(8月31日まで)が始まり、多くの学校で夏休みに入った。家庭で地域で、後継の友に心からのエールを送ろう。
 

池田先生の言葉

 未来部の前進が、
 広布の前進だ。
 未来部の勝利が、
 師弟の勝利だ。
 わが創価の宝であり、
 家庭の宝、地域の宝、
 社会の宝、
 そして人類の宝である
 未来部の友を、
 私たちは最大に護り、
 励まし、育んでいきたい。
  
 人間が人間として、
 真に人間らしく、
 善の生命を開花し、
 尊き使命を
 果たしゆく推進力は、
 「学ぶ」ことである。
 ゆえに、君よ!
 自身の勝利のため、
 民衆の幸福のため、
 世界の平和のため、
 徹して学ぶのだ。
 苦しい時ほど、前を向き、
 不屈の負けじ魂を
 燃え上がらせて、
 学びに学ぶのだ。
  
 人類は、真の正義が
 勝ち栄えるための
 生命力と英知と大情熱を
 待ち望んでいる。
 それに応えゆく
 「正義の走者」こそが、
 皆さんである。
 皆さん方が学び、鍛え、
 成長した、その分だけ、
 民衆の幸福も、
 世界の平和も
 前進するのだ。
  
 将来、必ず立派になって、
 お父さん、お母さんに
 恩返しをしてほしい。
 楽をさせてあげてほしい。
 これまで、
 皆さんのご両親が、
 君たちの
 見えないところで、
 どれほど苦労を重ね、
 すべてを犠牲にして、
 君たちのために
 尽くしてくださったか。
 その心が分かる
 聡明な皆さんで
 あってもらいたい。
  
 どうか、何があろうと、
 日々、題目を唱えながら、
 勇敢に、生き生きと、
 挑戦の青春を
 前進していってください。
 世界中の学会の先輩が、
 皆さんの味方です。
 私が味方です。
 未来部、がんばれ!
 がんばれ! がんばれ!

 
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師弟が紡ぐ広布史〉第22回 あの日あの時の7月

2022年07月17日 | 妙法

ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第22回 あの日あの時の7月2022年7月17日

力いっぱいに振ったハンカチ

 1968年7月3日の夜。多田時子さんは、“きょうは、戸田先生が出獄された日であり、池田先生が入獄された日だ”と思いながら、自宅で唱題を重ねていた。
 電話が鳴った。「池田先生から書籍をいただきました」との連絡だった。届いた書籍の表紙を開くと、こう記されていた。
 「今日は 僕の入獄記念日だ。/あの時、大阪地検の二階で/見守ってくれた姿は 生涯/忘れぬであろう。/共に学会っ子だ。誇り高く生きよう。/七月三日」
 11年前の57年7月3日、池田先生は事実無根の容疑で、大阪府警に不当逮捕された。“池田先生はお元気なのか”――先生の勾留中、多田さんは居ても立ってもいられず、東京から大阪に駆け付けた。
 取り調べが行われる大阪地検は、民間人もある程度、出入りができた。多田さんが地検の2階を歩いていると、先生の姿が見えた。「池田先生!」と叫びたい衝動を必死に抑え、持っていたハンカチを、その場で力いっぱいに振った。多田さんには、先生がうなずいたように見えた。
 先生は出獄後、地検の2階での出来事を口にすることはなかった。多田さんは、全国女子部長などの役職を歴任し、激闘の日々を送る中で、ハンカチを振った記憶も薄れつつあった。
 だが、先生の胸には、あの一瞬の出来事が、11年の歳月を経ても克明に刻まれていた。そして、“あなたの恩は忘れない”と感謝を伝えたのである。先生から書籍が届いた68年7月、多田さんは全国婦人部長に就任した。

大阪の政治・経済・文化の中心地にそびえる大阪市中央公会堂。きょう17日は、同公会堂で「大阪大会」が行われてから65周年の節目である。この時の“戦いは絶対に負けたらあかん”との誓いは、逆境を勝ち越える「関西魂」として、今も脈々と受け継がれている
大阪の政治・経済・文化の中心地にそびえる大阪市中央公会堂。きょう17日は、同公会堂で「大阪大会」が行われてから65周年の節目である。この時の“戦いは絶対に負けたらあかん”との誓いは、逆境を勝ち越える「関西魂」として、今も脈々と受け継がれている
「戦いはこれからだ」

 15日間の獄中闘争を終え、池田先生が大阪拘置所から出獄したのは、1957年7月17日の正午過ぎ。この日の午前10時ごろ、山田徹一さんは釈放直前の先生と、大阪地検の一室で面会している。
 これからどうなるのか――山田さんの表情には、不安がありありと浮かんでいた。だが、先生はすさまじい気迫で「戦いはこれからなんだよ」と。部屋には検事もいたが、先生は師子王のごとく堂々とした姿だった。
 山田さんの不安は、一瞬にして吹き飛んだ。その後、拘置所の門の前で、多くの同志と先生の出獄を待った。
 出所した池田先生は、来阪する戸田先生を迎えるため、伊丹空港(大阪国際空港)へ。関西本部に戻ると、「ただいま!」「みんな、元気か!」と声を掛け、御本尊の前に座った。
 題目を三唱した後、仏間の畳をなでながら、「“家”はいいなあ。本部はいいなあ」としみじみと口にした。その言葉を聞いた関西の同志は、池田先生の獄中闘争の、想像を絶する過酷さを感じずにはいられなかった。
 この日の夜、それまでの2週間とは打って変わって、関西本部は「大切な人を取り戻した喜び」に包まれ、活気に満ちた。本部内には、戸田先生の豪快な笑い声が響いた。
 同年10月18日、「大阪事件」の裁判が開始される。先生は23回、法廷に立ち、初公判から4年3カ月後の62年1月25日、「無罪」が言い渡された。判決後、先生は関西本部に戻ると、その場にいた関西の同志たちに、出獄前と同じ言葉を語った。
 「戦いはこれからだ」

小説『新・人間革命』の挿絵を担当した内田健一郎画伯の油彩画「獄舎の誓い」。「大阪大会」50周年となる2007年の制作。事実無根の容疑で不当逮捕された池田先生が、恩師・戸田先生のために、独房で不屈の闘争を誓う姿を描いた
小説『新・人間革命』の挿絵を担当した内田健一郎画伯の油彩画「獄舎の誓い」。「大阪大会」50周年となる2007年の制作。事実無根の容疑で不当逮捕された池田先生が、恩師・戸田先生のために、独房で不屈の闘争を誓う姿を描いた
本質を見極める眼

 1969年から92年まで24年連続、約四半世紀にわたって、池田先生が7月に必ず出席した行事がある。創価学園の「栄光祭」(現在は「栄光の日」記念の集い)だ。
 「毎日が勉強で忙しいだろうから、夏休み前の一日、お祭りのようなことをやってみてはどうか」――創立者・池田先生の提案で、栄光祭は誕生した。
 第1回の開催は、68年7月14日。栄光祭の一環として、先生は寮生と下宿生を信濃町に招き、映画を観賞した。
 翌69年7月17日、先生は第2回の栄光祭に出席。「諸君は21世紀の指導者です」と期待を語り、「決勝点として、西暦2001年7月17日の日に、健康で世界に輝く存在として集まっていただきたい」と呼び掛けた。
 5期生として創価高校に入学した久保康之さん。人生の原点の一つが、72年7月17日の第5回「栄光祭」だ。
 この時、先生は「それぞれ個性に応じ、自分自身の道を伸び伸びと着実に歩んでもらいたい」と語った。創立者のエールに、久保さんは“何かで1番を目指そう”と決める。
 その“何か”を見つけようと、がむしゃらに勉強した。1年の浪人を経て、京都大学農学部に進学する。
 大学院の修士課程の時、3本の論文を執筆した。久保さんが発見し、最初の論文で発表した内容は、今では定説となり、植物病理学の教科書に掲載されている。
 85年、農学博士号を取得した。しかし、大学のポストは狭き門。アルバイトをしながら、研究に励む生活が続いた。募る焦りと不安に耐え、88年、大学助手に。
 3年間の苦労は、大きな意味があった。第5回「栄光祭」の時、創立者は大阪事件での人権闘争を通して、「本質というものを見ていける人に」と語った。久保さんは、研究もまた「本質を見極める眼」があってこそ、新たな価値の創造につながると気付いた。
 創立者が「決勝点」として示した2001年、久保さんは教授に昇進。18年から1年間、日本植物病理学会の会長として活躍した。この時、同学会の編著で、『植物たちの戦争』(ブルーバックス)と題する著書が出版された。久保さんも執筆陣の一人に加わった。
 現在、摂南大学農学部で学部長を務める。社会では「SDGs(持続可能な開発目標)」が叫ばれる。農学が果たす役割は大きい――そのことを感じつつ、研究と教育に力を注いでいる。

創価学園の創立者として、君たちが偉大な大樹に育ってもらいたいということを常に思っている――第2回「栄光祭」で万感の思いを語る池田先生(1969年7月17日、東京・創価学園の第1グラウンドで)
創価学園の創立者として、君たちが偉大な大樹に育ってもらいたいということを常に思っている――第2回「栄光祭」で万感の思いを語る池田先生(1969年7月17日、東京・創価学園の第1グラウンドで)
「あなたには、学園生がいます」

 1979年7月17日、池田先生は創価大学の第8回「滝山祭」、創価学園の第12回「栄光祭」の合同記念集会に出席した。
 この年の4月、先生は創価学会の会長を辞任。ある時、香峯子夫人に“嫉妬うず巻く日本を去ろう。世界が待っている”と。すると、夫人は語った。
 「あなたには、学園生がいます。学園生は、どうするのですか」
 本紙に動向が報道されない日々。その中で、先生は栄光祭実行委員のメンバーに励ましを送った。邪知の陰謀が吹き荒れていた時、最も信頼する学園生との絆を強めたのである。
 先生は記念集会で、学園生たちと肩を組み、学園愛唱歌「負けじ魂ここにあり」、創価大学学生歌を合唱した。
 この日、香峯子夫人は大阪にいた。2日前の15日、大阪入りした夫人は、関西戸田記念講堂で行われた関西記念合唱祭に出席。さらに、代表のメンバーと懇談のひとときを持った。
 この時、流田睦子さんは、6月から飲食店を始めたことを伝えた。香峯子夫人は「『石の上にも三年』という言葉があります。大変でしょうが頑張ってください」と。夫人の激励を胸に、流田さんは90歳まで店に立ち続けた。
 16日には「常勝の母」と慕われた矢追久子さん宅を訪問した。矢追さんの家にはエアコンがなかった。義娘の裕子さんは“暑い中、奥さまをお迎えするのは……”と気をもんでいた。
 矢追宅に到着すると、夫人は開口一番、「クーラーがないと聞いていましたので、涼しい服装で来ました」と。その一言に、相手を真心で包み、和ませようとする夫人の深い慈愛を、裕子さんは感じた。
 17日、夫人は奥谷チエさん宅へ。奥谷さんは「大阪事件」の時、夫人のことを思い、手紙をつづった。夫人は次のような返信を送った。
 「主人は前々より覚悟の上の事。私も常々何時の日か必ずある事は申され続けて居りましたので、非常に元気でございます」「唯最后の最后迄、戸田先生の御意志にそった行動をと、取越苦労とは思ひながら、念じて居る次第でございます」
 このやり取りから22年の時を経た出会いだった。夫人は「主人の代理で来ました」と語り、集った同志に励ましを送った。

創価大学の第8回「滝山祭」との合同で行われた創価学園の第12回「栄光祭」。池田先生は生徒・児童と共に、学園愛唱歌「負けじ魂ここにあり」を合唱した(1979年7月17日、東京・八王子市の創価大学で)
創価大学の第8回「滝山祭」との合同で行われた創価学園の第12回「栄光祭」。池田先生は生徒・児童と共に、学園愛唱歌「負けじ魂ここにあり」を合唱した(1979年7月17日、東京・八王子市の創価大学で)
第1次宗門事件の嵐が吹き荒れる中、香峯子夫人(後列左から3人目)が、奥谷チエさん(同4人目)の自宅を訪問。集った地域の同志らと和やかに語らい、記念のカメラに納まった(1979年7月17日、大阪市淀川区内で)
第1次宗門事件の嵐が吹き荒れる中、香峯子夫人(後列左から3人目)が、奥谷チエさん(同4人目)の自宅を訪問。集った地域の同志らと和やかに語らい、記念のカメラに納まった(1979年7月17日、大阪市淀川区内で)

 7・17「大阪大会」から35周年を刻んだ92年7月17日、先生は詠んだ。
 「忘れまじ この日 この時 戦いし 歴史絵巻の あの友 この友」
 苦楽を共にしてきた同志を、いつまでも忘れない――。
 この深き慈悲の指導者が、私たちの師匠・池田大作先生である。

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 【ファクス】 03-5360-9618

 
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第7回 1966年(昭和41年)「黎明の年」

2022年07月13日 | 妙法

栄光の共戦譜〉第7回 1966年(昭和41年)「黎明の年」2022年7月13日

  • 常勝こそ「師弟不二」の結実

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第7回は、「黎明の年」と銘打たれた1966年(昭和41年)を掲載する。

「3・5」壮年部が結成
壮年部の結成式に出席する池田先生(1966年3月5日、東京・信濃町の学会本部〈当時〉で)
壮年部の結成式に出席する池田先生(1966年3月5日、東京・信濃町の学会本部〈当時〉で)

 「壮年が立つんだね。これで、本格的な広宣流布の時代が幕を開けるぞ」
 1966年(昭和41年)3月5日、壮年部結成の日を迎え、池田先生は嬉しそうに語った。婦人部、男女青年部の結成から15年後のことであった。
 この日、東京・信濃町の学会本部に代表750人が集い、結成式が行われた。
 席上、先生は壮年部の使命を訴えた。
 「私もまた、壮年部です。どうか、皆さんは、私とともに、学会精神を根本として雄々しく立ち上がり、創価の城を支えゆく、黄金柱になっていただきたい」
 広布の途上で嵐が吹き荒れた時、創価の「黄金柱」として、学会を支え、同志を守ったのが壮年部であった。
 69年(同44年)3月16日、東京・日本武道館で開催された第1回壮年部総会。
 先生は、歴史的な総会で、創価後継の「広宣流布記念の日」の意義に言及し、“絶対に臆さず、最後まで戦うぞ!――この広宣流布に対する大感情が大事である”と力説した。この年、「言論問題」が起きた。壮年部の友は、師の心をわが心として烈風に立ち向かった。
 90年(平成2年)暮れに勃発した第2次宗門事件。12月16日、東京・大田池田文化会館で、本部幹部会を兼ねた壮年部総会が行われた。「わが『生命の弓』を満々と引き絞り、あらゆる障害を突き破る『勝利の矢』を勢いよく放っていきたい」――師の呼び掛けに、正義の炎は燃え盛ったのである。
 壮年部の歩みは、師と共に幾多の風雪を越え、地域・社会の柱として光り輝く“師弟の黄金譜”である。
 「どんなに辛いことがあっても、一家一族を、わが組織を、絶対に守り抜くという、鋼のような強い柱に」――壮年部に寄せる師の変わらぬ思いである。

「5・3」七つの鐘の展望
1966年5月3日、本部総会で学会歌の指揮を執る池田先生(東京・日大講堂で)
1966年5月3日、本部総会で学会歌の指揮を執る池田先生(東京・日大講堂で)

 1966年(昭和41年)5月3日、池田先生は、東京・日大講堂で行われた本部総会で「七つの鐘」について確認した。
 「七つの鐘」とは、学会創立を起点として、7年ごとに前進を期す広布の指標である。58年(同33年)5月3日、池田先生が本部総会で発表した。戸田先生が亡くなった翌月のことである。
 恩師の逝去後、一部のマスコミは、学会への猛烈な批判を開始し、学会の「空中分解」を予測する評論家もいた。その中で、「七つの鐘」の指標は、全国の同志の胸中に希望をともしたのである。
 「七つの鐘」の「第一の鐘」は、学会創立(1930年)から、創価教育学会の正式な発足の年(37年)まで。その後、牧口先生の殉教の年(44年)までの「第二の鐘」、戸田先生の第2代会長就任の年(51年)までの「第三の鐘」と続いていく。
 「第四の鐘」は、会員75万世帯を成就し、戸田先生が亡くなった年(58年)まで。「第五の鐘」(58年~65年)は、恩師の七回忌へ、300万世帯の達成を目標に掲げ、62年(同37年)に達成される。
 「第六の鐘」(65年~72年)では、750万世帯を成就。そして、79年(同54年)、「七つの鐘」が鳴り終わった。
 66年5月3日の本部総会で、池田先生は、21世紀以降の広布の展望についても言及。未来を担う青年部に、「二十一世紀の新しい『七つの鐘』を、決然と打ち鳴らしていただきたい」と呼び掛けた。
 2001年(平成13年)、第2の「七つの鐘」が打ち鳴らされた。この鐘が鳴り終わる2050年は、学会創立120周年である。先生は、学生部・未来部のメンバーに思いを馳せ、こう述べた。
 「青年を育てることは、未来を育てることだ。縦横に活躍する姿が、本当に楽しみである」

「9・18」雨の関西文化祭
兵庫の阪神甲子園球場で開催された歴史的な“雨の関西文化祭”(1966年9月18日)
兵庫の阪神甲子園球場で開催された歴史的な“雨の関西文化祭”(1966年9月18日)

 兵庫の阪神甲子園球場で“雨の関西文化祭”が始まったのは、1966年(昭和41年)9月18日午後3時15分だった。
 この日、雨が断続的に降り注ぎ、文化祭の中止が検討される。だが、同志の強盛な祈りに包まれ、ほぼ雨は上がり、時間を繰り上げて決行された。
 しかし、再び雨が降り始めた。その中で、高等部の徒手体操や婦人部による民謡の踊り、女子部のバレエなどの演技が続いた。男子部の体操メンバー2400人による、小説『人間革命』をテーマにしたマスゲームでは、泥だらけになりながら四段円塔が築き上げられた。
 2万余の出演者が勢ぞろいしての圧巻のフィナーレ。男子部員の“人間タワー”を取り巻くように、幾重にも人の輪が描かれ、グラウンドは、一つの大きな花のようになった。外野スタンドには、「勝利」の人文字が浮かび上がった。
 その演目は、一人一人が師弟の魂を胸に壁を破り、「大阪の戦い」から10周年を刻む“雨の関西文化祭”を勝利で飾った姿そのものであった。
 終了後、池田先生は、出演者の奮闘を大きくたたえた。「百点満点だ。いや、百二十点だ」「今日を“常勝関西”の新しいスタートにしようよ」
 最悪の状況下で披露された最高の演技は、約2千人の来賓を感動で包んだ。ある来賓は、「信仰することは偉大な力を出すものだ」と述べている。2日後の本紙に「雨中に“関西魂”貫く」との見出しが躍った。
 “雨の関西文化祭”から40周年の折、先生はこう寄せた。「『常勝』こそ『師弟不二』の結実である。次の十年、さらに新しき五十年もまた、関西は勝ちまくってくれるであろう。世界の全同志の『勝利の太陽』として!」

◆年表◆
1966年

 〈1月3日〉
 全国の高・中等部、少年部の代表3300人と記念撮影。全国高等部員会で5年後の再会を約す(静岡)
  
 〈1月8日〉
 高等部の代表に「諸法実相抄」を講義(東京)
  
 〈1月14日〉
 ハワイ訪問(~17日)
 ハワイ会館入仏式(14日)
  
 〈3月5日〉
 壮年部結成式で“創価の城を支えゆく黄金柱に”と語る(東京)
  
 〈3月6日〉
 北・南米訪問(~23日。アメリカ、ブラジル、ペルー)
 ブラジル・サンパウロで第2回南米文化祭(13日)
  
 〈4月2日〉
 関西指導(~3日。大阪、和歌山)
  
 〈4月16日〉
 四国指導(~17日。香川、愛媛)
  
 〈5月3日〉
 第29回本部総会で21世紀の新しい「七つの鐘」の展望を示す(東京)
  
 〈5月7日〉
 九州指導(~9日。大分、熊本、福岡)
  
 〈5月17日〉
 月刊誌「主婦の友」の企画で作家・有吉佐和子氏と会談(東京)
  
 〈5月21日〉
 東北指導(~22日。山形、宮城)
  
 〈6月11日〉
 高等部の代表に「如説修行抄」を講義。1月からの受講メンバーで鳳雛会(男子)・鳳雛グループ(女子)を結成(東京)
  
 〈7月1日〉
 聖教新聞の配達員の機関紙を「無冠」と命名し、創刊号に祝辞を贈る
  
 〈7月8日〉
 女子部の整理班を「白蓮グループ」と命名
  
 〈7月16日〉
 鳳雛会・鳳雛グループの第1回野外研修(~17日。神奈川)
  
 〈8月20日〉
 ハワイ訪問(~22日)
  
 〈8月30日〉
 第1回御書講義録編纂委員会(東京)
  
 〈9月17日〉
 民音が招へいしたソ連の「ノボシビルスク・バレエ団」の公演を鑑賞(東京)
  
 〈9月18日〉
 関西文化祭(兵庫・甲子園球場)
 雨による悪条件を不屈の関西魂で乗り越えた見事な演技が披露される
  
 〈11月3日〉
 第15回男女青年部総会で、ベトナム和平について講演し、即時停戦などを提言(東京)
  
 〈12月25日〉
 第80回本部幹部会(東京)
 600万世帯の達成を報告
  
 ※年表は『栄光の共戦譜』から転載

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仏法の生命尊厳の法理を、人間主義の哲理を弘め抜いていくんだ

2022年07月11日 | 妙法

新・人間革命と私〉 北海道男子部長 古川健一さん2022年7月11日

〈心に刻む珠玉の言葉〉

 青年は、広宣流布の大願を常に起こしていくんだよ。そして、現実の大地にしっかりと立って、地域に、社会に、仏法の生命尊厳の法理を、人間主義の哲理を弘め抜いていくんだ。その青年の不屈の連帯を、牧口先生、戸田先生を世に送り出した北海道の天地に、ぜひ築いていってほしい。
 〈第26巻「厚田」の章〉

〈時代背景〉

 山本伸一は1977年(昭和52年)9月、恩師・戸田城聖先生の故郷である北海道・厚田に完成した「戸田記念墓地公園」を訪問。公園内にある戸田講堂の開館記念勤行会で、墓地公園の意義を「永遠の広布旅、師弟旅の象徴」と述べた。その後も青年部の激励をはじめ功労者宅の訪問など、一人一人の同志と師弟の絆を結んでいく。

広布大願に立つ青年の陣列

 本年は、学会初の墓園である「戸田記念墓地公園」が開園して45周年、また聖教新聞に「厚田」の章の連載が開始されてから10年の節目を刻みます。
 
 本章で伸一は、開園式の前日に役員をしていた青年部を激励し、1951年(昭和26年)7月の男子部結成式前夜に、戸田先生が伸一に語った言葉を伝えます。「頼んだぞ! 万人の幸福を築け! そのために学会は、後世永遠に広宣流布を、立正安国をめざして進んでいくんだ。今夜の二人の語らいが、事実上の男子青年部の結成式だよ」
 
 そして、冒頭の引用のように、“広布大願の魂”を打ち込んでくださったのです。
 
 この師匠の期待こそが私たち北海道男子部の永遠の使命であり、一人一人が実践すべき指針であります。

 創価大学時代、池田先生にお会いする機会がありました。母子家庭で育った私を励ましてくださった師の慈愛のまなざしに、“生涯、学会と共に歩もう”と決意。卒業後は故郷の北海道で就職しました。営業職として常に成果を求められ、悪戦苦闘の毎日。自信を無くすこともありましたが、必ず師匠に勝利を報告すると誓い、徹底して仕事と学会活動の両立に挑戦しました。その結果、社内表彰を受けるなど、実証を示すことができました。
 
 いつも支えになったのが先輩、同志の存在です。この創価家族の絆をさらに広げることが報恩の道であると決め、率先して対話拡大に挑んでまいります。
 
 北海道男子部は過去最高の人材の陣列を築こうと、“10人の核”を育成する「広布十傑」運動を展開しています。本年も多くの男子部大学校生が誕生し、新しい力が躍動しています。
 
 池田先生のご指導の通り、“不屈の青年の連帯を構築する”との広布の大願をみなぎらせ、三代城・北海道から、学会創立100周年を開く勝利の旋風を巻き起こします!

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庶民こそ偉大な歴史の主人公 

2022年07月10日 | 妙法

庶民こそ偉大な歴史の主人公 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2022年7月10日

 【写真説明】シンガポールをたつと、爽快な天空の劇が待っていた。王者の太陽。コバルトブルーの空。湧き上がる白雲。2000年(平成12年)11月、池田大作先生はマレーシアへ向かう機中でシャッターを切った。
 シンガポールでは、ナザン大統領と会見。豪シドニー大学から名誉博士号を授与され、シンガポール創価幼稚園を訪問した。マレーシアでは、国立プトラ大学の名誉学位を受け、マレーシア創価幼稚園を訪れた。生命尊厳の地球を築く、先生の“平和旅”は今も続いている。
 師と共に、我らも世界を変えゆく壮大な旅を続けよう! きょう一日を悔いなく挑みながら――。

池田先生の言葉

 安逸に流されても一生。
 激流と戦い切っても一生。
 同じ生きるならば、
 悔いなく、
 最高の充実と
 誇りの人生を飾り、
 永遠に消えざる
 福運を残していきたい。
 そのための信仰である。
  
 悔いなく戦い切った時、
 考えてもみなかった
 人間革命のドラマが
 待っている。
 わが地域に、
 功徳の華花が
 咲き薫ることだろう!
 創価の同志よ、
 誇り高く前進しよう!
 目の前の一人から、
 朗らかに永遠の
 勝利の道を開きゆくのだ。
  
 自らの幸福だけを
 追い求めても、
 結局、崩れざる幸福を
 つかむことはできない。
 自他共の幸福を祈り、
 他者の幸福のために
 尽くして行動する。
 そこに真の充実があり、
 自ずと幸福がついてくる。
  
 希望がなければ、
 希望をつくればよい。
 光がなければ、
 自分が太陽になればよい。
 一人の人間が、
 わが生命に
 「希望の太陽」を
 輝かせていくならば、
 その光彩は、わが家族、
 わが地域、わが国土を
 照らしながら、
 必ずや大いなる変革を
 可能にする。
  
 私たちの信心の根本は
 題目である。
 広宣流布へ、
 師弟が心を合わせて祈る。
 同志が異体同心で祈る。
 そこから
 新しい前進が始まる。
 戦いの勢いも生まれる。
 功徳も大きく広がる。
  
 偉大な歴史の主人公は、
 誠実な庶民だ。
 誰が見ていなくとも、
 愚痴もこぼさず、
 広宣流布の大理想に
 生き抜かれる
 第一線の皆様方こそ、
 第一に尊貴な
 人間の英雄なのである。

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