ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第22回 あの日あの時の7月2022年7月17日
1968年7月3日の夜。多田時子さんは、“きょうは、戸田先生が出獄された日であり、池田先生が入獄された日だ”と思いながら、自宅で唱題を重ねていた。
電話が鳴った。「池田先生から書籍をいただきました」との連絡だった。届いた書籍の表紙を開くと、こう記されていた。
「今日は 僕の入獄記念日だ。/あの時、大阪地検の二階で/見守ってくれた姿は 生涯/忘れぬであろう。/共に学会っ子だ。誇り高く生きよう。/七月三日」
11年前の57年7月3日、池田先生は事実無根の容疑で、大阪府警に不当逮捕された。“池田先生はお元気なのか”――先生の勾留中、多田さんは居ても立ってもいられず、東京から大阪に駆け付けた。
取り調べが行われる大阪地検は、民間人もある程度、出入りができた。多田さんが地検の2階を歩いていると、先生の姿が見えた。「池田先生!」と叫びたい衝動を必死に抑え、持っていたハンカチを、その場で力いっぱいに振った。多田さんには、先生がうなずいたように見えた。
先生は出獄後、地検の2階での出来事を口にすることはなかった。多田さんは、全国女子部長などの役職を歴任し、激闘の日々を送る中で、ハンカチを振った記憶も薄れつつあった。
だが、先生の胸には、あの一瞬の出来事が、11年の歳月を経ても克明に刻まれていた。そして、“あなたの恩は忘れない”と感謝を伝えたのである。先生から書籍が届いた68年7月、多田さんは全国婦人部長に就任した。
15日間の獄中闘争を終え、池田先生が大阪拘置所から出獄したのは、1957年7月17日の正午過ぎ。この日の午前10時ごろ、山田徹一さんは釈放直前の先生と、大阪地検の一室で面会している。
これからどうなるのか――山田さんの表情には、不安がありありと浮かんでいた。だが、先生はすさまじい気迫で「戦いはこれからなんだよ」と。部屋には検事もいたが、先生は師子王のごとく堂々とした姿だった。
山田さんの不安は、一瞬にして吹き飛んだ。その後、拘置所の門の前で、多くの同志と先生の出獄を待った。
出所した池田先生は、来阪する戸田先生を迎えるため、伊丹空港(大阪国際空港)へ。関西本部に戻ると、「ただいま!」「みんな、元気か!」と声を掛け、御本尊の前に座った。
題目を三唱した後、仏間の畳をなでながら、「“家”はいいなあ。本部はいいなあ」としみじみと口にした。その言葉を聞いた関西の同志は、池田先生の獄中闘争の、想像を絶する過酷さを感じずにはいられなかった。
この日の夜、それまでの2週間とは打って変わって、関西本部は「大切な人を取り戻した喜び」に包まれ、活気に満ちた。本部内には、戸田先生の豪快な笑い声が響いた。
同年10月18日、「大阪事件」の裁判が開始される。先生は23回、法廷に立ち、初公判から4年3カ月後の62年1月25日、「無罪」が言い渡された。判決後、先生は関西本部に戻ると、その場にいた関西の同志たちに、出獄前と同じ言葉を語った。
「戦いはこれからだ」
1969年から92年まで24年連続、約四半世紀にわたって、池田先生が7月に必ず出席した行事がある。創価学園の「栄光祭」(現在は「栄光の日」記念の集い)だ。
「毎日が勉強で忙しいだろうから、夏休み前の一日、お祭りのようなことをやってみてはどうか」――創立者・池田先生の提案で、栄光祭は誕生した。
第1回の開催は、68年7月14日。栄光祭の一環として、先生は寮生と下宿生を信濃町に招き、映画を観賞した。
翌69年7月17日、先生は第2回の栄光祭に出席。「諸君は21世紀の指導者です」と期待を語り、「決勝点として、西暦2001年7月17日の日に、健康で世界に輝く存在として集まっていただきたい」と呼び掛けた。
5期生として創価高校に入学した久保康之さん。人生の原点の一つが、72年7月17日の第5回「栄光祭」だ。
この時、先生は「それぞれ個性に応じ、自分自身の道を伸び伸びと着実に歩んでもらいたい」と語った。創立者のエールに、久保さんは“何かで1番を目指そう”と決める。
その“何か”を見つけようと、がむしゃらに勉強した。1年の浪人を経て、京都大学農学部に進学する。
大学院の修士課程の時、3本の論文を執筆した。久保さんが発見し、最初の論文で発表した内容は、今では定説となり、植物病理学の教科書に掲載されている。
85年、農学博士号を取得した。しかし、大学のポストは狭き門。アルバイトをしながら、研究に励む生活が続いた。募る焦りと不安に耐え、88年、大学助手に。
3年間の苦労は、大きな意味があった。第5回「栄光祭」の時、創立者は大阪事件での人権闘争を通して、「本質というものを見ていける人に」と語った。久保さんは、研究もまた「本質を見極める眼」があってこそ、新たな価値の創造につながると気付いた。
創立者が「決勝点」として示した2001年、久保さんは教授に昇進。18年から1年間、日本植物病理学会の会長として活躍した。この時、同学会の編著で、『植物たちの戦争』(ブルーバックス)と題する著書が出版された。久保さんも執筆陣の一人に加わった。
現在、摂南大学農学部で学部長を務める。社会では「SDGs(持続可能な開発目標)」が叫ばれる。農学が果たす役割は大きい――そのことを感じつつ、研究と教育に力を注いでいる。
1979年7月17日、池田先生は創価大学の第8回「滝山祭」、創価学園の第12回「栄光祭」の合同記念集会に出席した。
この年の4月、先生は創価学会の会長を辞任。ある時、香峯子夫人に“嫉妬うず巻く日本を去ろう。世界が待っている”と。すると、夫人は語った。
「あなたには、学園生がいます。学園生は、どうするのですか」
本紙に動向が報道されない日々。その中で、先生は栄光祭実行委員のメンバーに励ましを送った。邪知の陰謀が吹き荒れていた時、最も信頼する学園生との絆を強めたのである。
先生は記念集会で、学園生たちと肩を組み、学園愛唱歌「負けじ魂ここにあり」、創価大学学生歌を合唱した。
この日、香峯子夫人は大阪にいた。2日前の15日、大阪入りした夫人は、関西戸田記念講堂で行われた関西記念合唱祭に出席。さらに、代表のメンバーと懇談のひとときを持った。
この時、流田睦子さんは、6月から飲食店を始めたことを伝えた。香峯子夫人は「『石の上にも三年』という言葉があります。大変でしょうが頑張ってください」と。夫人の激励を胸に、流田さんは90歳まで店に立ち続けた。
16日には「常勝の母」と慕われた矢追久子さん宅を訪問した。矢追さんの家にはエアコンがなかった。義娘の裕子さんは“暑い中、奥さまをお迎えするのは……”と気をもんでいた。
矢追宅に到着すると、夫人は開口一番、「クーラーがないと聞いていましたので、涼しい服装で来ました」と。その一言に、相手を真心で包み、和ませようとする夫人の深い慈愛を、裕子さんは感じた。
17日、夫人は奥谷チエさん宅へ。奥谷さんは「大阪事件」の時、夫人のことを思い、手紙をつづった。夫人は次のような返信を送った。
「主人は前々より覚悟の上の事。私も常々何時の日か必ずある事は申され続けて居りましたので、非常に元気でございます」「唯最后の最后迄、戸田先生の御意志にそった行動をと、取越苦労とは思ひながら、念じて居る次第でございます」
このやり取りから22年の時を経た出会いだった。夫人は「主人の代理で来ました」と語り、集った同志に励ましを送った。
7・17「大阪大会」から35周年を刻んだ92年7月17日、先生は詠んだ。
「忘れまじ この日 この時 戦いし 歴史絵巻の あの友 この友」
苦楽を共にしてきた同志を、いつまでも忘れない――。
この深き慈悲の指導者が、私たちの師匠・池田大作先生である。
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