毎日が、始めの一歩!

日々の積み重ねが、大事な歴史……

師弟の勝利の大叙事詩を

2021年10月24日 | 妙法

師弟の勝利の大叙事詩を 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2021年10月24日

 【写真説明】広宣流布大誓堂(東京・信濃町)の威容が青空に映える。2019年(令和元年)5月、池田大作先生が車中からカメラに収めた。
 大誓堂に設置された「広宣流布 誓願の碑」の碑文に、先生は認めた。「我ら民衆が世界の立正安国を深く祈念し、いかなる三障四魔も恐るることなく、自他共の人間革命の勝利へ出発せる師弟誓願の大殿堂なり」
 我ら創価の師弟は、壮大なる世界広宣流布の大長征を進んでいる。この深き使命を自覚する時、無限の力がわが命に湧いてくる。師と祈りを合わせ、語り、動き、栄光の歴史を今こそ! 世界が創価の凱歌を待っている。
 

池田先生の言葉

 師弟不二――
 真実の戦いは、
 ここにしかない。
 ここにしか、仏法はない。
 深き人間の道もない。
 師匠に応えんとする、
 その一念、その祈りから、
 勝利の力が生まれるのだ。
  
 師匠に心を合わせる。
 師弟の熱き魂を
 叫び抜いていく。
 そうすれば、
 もっともっと
 力を発揮できる。
 変わっていける。
 全て「心」で決まるのだ。
 師匠に対して、
 「きょうも、
 新しい勝利の道を
 開きました!」と
 毎日、報告するような
 気持ちで戦うことだ。
  
 師匠は大地であり、
 弟子は草木である。
 報恩の弟子の勝利は、
 稲の命が
 大地に還るがごとく、
 師匠の栄光となり、
 福徳となる。
 そして、
 その師弟の大地から、
 新たな勝利の花が
 永遠に咲き誇る。
  
 「決意」は即
 「行動」である。
 立つべき時に立つ!
 時を逃さずに戦う!
 電光石火の共戦こそ、
 創価の師弟の心であり、
 楽土を築きゆく
 地涌の闘争なることを
 忘れまい。
  
 三世永遠の
 「師弟の絆」で結ばれた
 わが同志よ、
 今こそ前進だ!
 対話だ! 励ましだ!
 快活に動こう!
 この世の誓いを、
 尊き地涌の使命を
 果たし抜くために!
  
 君よ、
 君でなければ
 創ることのできぬ、
 偉大な使命の物語を創れ!
 そして、共々に、
 師弟の勝利の大叙事詩を
 生き抜いて
 いこうではないか!

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詩心とは「正義の闘魂」の異名なり

2021年10月21日 | 妙法

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第13回 詩心とは「正義の闘魂」の異名なり㊤2021年10月21日

高らかな喝采と凱歌をあげよ!

 フランスのビエーブル市に立つその建物は、かつて「ロシュの館」と呼ばれていた。芸術や文学を語り合うサロンであった。文豪ビクトル・ユゴーも家族と共に足を運び、詩想を練ったという。
 1991年6月、この「ロシュの館」が、「ビクトル・ユゴー文学記念館」として装いを新たにした。ユゴーの小説の下書き原本や直筆書簡など、約7000点を所蔵。そのうち、長編小説『レ・ミゼラブル』の校正刷り、『静観詩集』の校正刷りなど、5点がフランスの「国宝」に指定されている。
 記念館の誕生から、さかのぼること10年。81年6月15日、池田大作先生はフランス上院のアラン・ポエール議長と会談した。その折、議長の厚意で、リュクサンブール宮殿を見学。一室がユゴーをたたえる部屋になっていた。
 先生は同行の友に、「ユゴーも反対勢力によって、島流しにされた経験をもっているね」と語り、文豪の生涯に思いを巡らせた。
 ナポレオン3世の弾圧によって、ユゴーが亡命を余儀なくされたのは49歳の時。迫害の渦中、ユゴーは『レ・ミゼラブル』やナポレオン3世を弾劾する『懲罰詩集』などを完成させた。試練が創造の魂を鍛えたのである。
 先生のリュクサンブール宮殿の訪問は、10年後の「ビクトル・ユゴー文学記念館」の創立を着想するきっかけとなった。

フランスのビエーブル市に立つビクトル・ユゴー文学記念館。1991年6月にオープンした記念館は、今年30周年の佳節を迎えた。ユゴーの手稿、遺品、資料などが公開、展示され、「エスプリ(精神)の灯台」と輝く
フランスのビエーブル市に立つビクトル・ユゴー文学記念館。1991年6月にオープンした記念館は、今年30周年の佳節を迎えた。ユゴーの手稿、遺品、資料などが公開、展示され、「エスプリ(精神)の灯台」と輝く

 先生がユゴーと同じ49歳の時、宗門僧は衣の権威をかさに、悪辣な学会批判を繰り返し始めた。宗門は先生に、“会合で指導してはならない”“聖教新聞に出てはいけない”と制約をつけた。この師弟分断の謀略に対する本格的な反転攻勢が、開始されたのが81年である。
 先生は1月の北米訪問、2月中旬からの北・中米訪問に続き、5月9日からは61日間で北半球を一周する平和旅へ。この時の思いを、「海外から日本を激励するんだ」と記している。
 永遠の法をよりどころとしながら、縁に随って、最も適切に対応していく真実の自在の智慧を「随縁真如の智」という。聖教新聞の海外報道の記事は、日本の同志の歓喜となり、希望となった。それは、先生の「随縁真如の智」の励ましにほかならなかった。
 帰国後の10月31日、先生は創価大学の第11回「創大祭」のオープニングセレモニーに出席。学生からの要請を受け、「歴史と人物を考察――迫害と人生」と題する講演を行った。
 その中で、菅原道真や頼山陽をはじめ、ユゴーやルソーなど、古今東西の人物について言及した。苦難の渦中に信念を貫いた生き方に触れ、率直に真情を語った。
 「私も一仏法者として、一庶民として、全くいわれなき中傷と迫害の連続でありました。しかし、僭越ながら、この“迫害の構図”に照らして見れば、迫害こそ、むしろ仏法者の誉れであります」
 「後世の歴史は、必ずや事の真実を厳しく糾弾していくであろうことを、この場をお借りして断言しておきます」
 講演の会場となった中央体育館(当時)は、79年5月3日、第3代会長辞任後の本部総会が行われた場所だった。同じ場所で、先生は高らかに勝利を宣言した。

第11回「創大祭」で、池田先生が「歴史と人物を考察――迫害と人生」と題して講演(1981年10月31日、創価大学の中央体育館<当時>で)                                    
第11回「創大祭」で、池田先生が「歴史と人物を考察――迫害と人生」と題して講演(1981年10月31日、創価大学の中央体育館<当時>で)                                    

 その日、フランスのソー市にあるパリ会館で、フランス青年部の大会が開催されることになっていた。1981年6月14日のことである。
 宿舎を出た池田先生は、ルーブル美術館に隣接するチュイルリー公園沿いの通りを歩き、地下鉄の駅に向かった。構内に入ると、先生は語った。
 「青年たちの新しい出発のために、詩を贈ろう」
 ホームで口述が始まった。
 「今 君達は/万年への広宣流布という/崇高にして偉大な運動の/先駆として立った……」
 チュイルリー駅から三つ目のシャトレ駅で、郊外へ向かう線に乗り換える。待ち時間の間も、詩作は続いた。乗車後、しばらくして口述は終わった。
 詩は走り書きのメモから、ノートに清書された。先生は車内で推敲を重ね、直しを入れていく。その時、「センセイ!」と呼ぶ声がした。3人のフランスの青年が立っていた。
 その一人、ナタリー・パパンさんは、前年の80年に信心を始めたばかり。彼女は胸の内の悩みを口にした。
 「私が住む町で信心しているのは、私だけです。座談会の会場まで数時間かかります。どうしたら、この仏法を広げていけるでしょうか」
 先生は答えた。
 「心配ありません。あなたがいるではありませんか。全ては一人から始まるんです」
 「仏法を持ったあなたが、大樹のように、皆から慕われ、信頼されていくことが、そのまま仏法への共感となり、弘教へとつながっていきます」
 師の励ましを原点に、ナタリーさんは劇作家として活躍。“私自身が地域の大樹になろう”と、地道に対話と励ましを重ねた。彼女が住む町サン・ブリューでは今、座談会が幾つもの会場で開かれている。
  
 列車がソー駅に着く頃、詩は完成した。先生一行がパリ会館に到着すると、直しが入ったままの原稿が、翻訳のスタッフに手渡された。先生は翻訳の作業室に足を運び、一人一人に感謝を伝えている。
 午後5時半、青年部の代表者大会の幕が開けた。先生の詩「我が愛する妙法のフランスの青年諸君に贈る」を男子部のリーダーが読み上げていった。
 「君達よ/フランス広布の第二幕の/峰の頂上に立ちて/高らかなるかっさいと/凱歌をあげるのだ/そのめざしゆく指標の日は/西暦二〇〇一年六月十四日/この日なりと――」
 詩の誕生から20年後の2001年6月。師との約束の時を迎えた青年たちは皆、フランス広布のリーダーへと成長した。
 この月、先生は再び詩を贈った。タイトルは「希望のシャトー(大城)よ 永遠に輝け!」である。
 「時は来た/勇敢に立ち上がれ!/満々たる希望をもて!/新鮮な光で身を包みながら/新しき世紀の城門を開くのだ」
 「さあ 前進だ!/今再び/学会創立百周年の/二〇三○年へ/共に行進しよう!」
 師が示した学会創立100周年の2030年へ――。フランスの友は「良き市民」として、社会貢献に力を尽くしている。

パリ会館に向かう列車の車中で、詩を推敲する池田先生(1981年6月14日)。完成した詩「我が愛する妙法のフランスの青年諸君に贈る」で、先生は詠んだ。「新しき世界は/君達の/右手に慈悲 左手に哲理を持ち/白馬に乗りゆく姿を/強く待っている」
パリ会館に向かう列車の車中で、詩を推敲する池田先生(1981年6月14日)。完成した詩「我が愛する妙法のフランスの青年諸君に贈る」で、先生は詠んだ。「新しき世界は/君達の/右手に慈悲 左手に哲理を持ち/白馬に乗りゆく姿を/強く待っている」

 フランスの青年に詩を贈った2日後の81年6月16日、シャルル・ド・ゴール空港を出発した池田先生は、大西洋を越えて、アメリカ・ニューヨークに降り立った。
 翌17日の朝、今度はアメリカの青年に指針となる詩を贈ろうと、先生は詩作に取り掛かった。詩が完成したのは、3日後の20日である。
 この日、先生はアメリカの詩人・ホイットマンの生家を訪ねた。ニューヨークに到着した16日、青年たちからホイットマンについての評論集と、その日本語訳が届けられていた。
 79年、一人の青年が古書店でホイットマンの評論集を手に入れた。時あたかも第1次宗門事件の渦中。余波は、ニューヨークにも及んでいた。その中で、青年たちが創価の旗を掲げ、学会の正義を語り抜いた。
 “今こそ、自分たちの決意を先生に伝えたい”との一心で、翻訳を開始した。しかし、専門家ではない。有志も手伝い、2年越しでようやく完成した。
 一緒に添えた手紙に、「ホイットマンの生家を、ぜひ訪問してください」とつづった。先生が生家に足を運んだのは、青年たちの苦労と真心に応えるためでもあった。
 ホイットマンの詩集『草の葉』は、ユゴーの『レ・ミゼラブル』などと共に、先生の青春時代からの座右の書である。
 「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて! 決められた決勝点は取り消すことができないのだ」(富田砕花訳)――78年2月19日、先生は東京・立川文化会館で開催された信越男子部幹部会で、『草の葉』にある「大道の歌」の一節を贈っている。折々にホイットマンの言葉を通し、励ましを送ってきた。
 生家を訪れた先生は、生家協会の関係者から請われ、ノートに記した。
 「我が青春の新鮮なる心を/いやがうえにも燃え上げた/ホイットマン生誕の家に今来る/詩人とは 詩心とはを/今再び/自然の心に戻りて/思索の一時を送る」

ホイットマンの生家を訪れ、詩人の生涯をしのぶ(1981年6月20日)。この訪問から30年後の2011年6月、ウォルト・ホイットマン生家協会から池田先生に、活字文化促進への貢献をたたえ、「ウォルト・ホイットマン文学の英雄賞」が贈られた
ホイットマンの生家を訪れ、詩人の生涯をしのぶ(1981年6月20日)。この訪問から30年後の2011年6月、ウォルト・ホイットマン生家協会から池田先生に、活字文化促進への貢献をたたえ、「ウォルト・ホイットマン文学の英雄賞」が贈られた

 先生がホイットマンの生家を後にした午後4時ごろ、ニューヨーク市内の高校で、日米親善交歓会が行われていた。2人の青年が、先生が詠んだ長編詩「我が愛するアメリカの地涌の若人に贈る」を朗読した。
 「私は広布への行動の一切を/諸君に託したのだ/一切の後継を信ずるがゆえに/今 世界のすみずみを歩みゆくのだ/君達が/小さき道より/大いなる道を創りゆくことを/私は信ずる/ゆえに/私は楽しく幸せだ」
 朗読が終わると、会場は喝采に包まれた。ニューヨークの多くの友が、当時を振り返り、こう語っている。
 「あの“魂の詩”で、ニューヨークの組織は蘇生したんです」
 慈雨は大地に等しく降り注ぎ、万物を潤す。師の激闘によって、アメリカは第1次宗門事件という“干ばつ”に終止符を打ち、新たな黎明の時を迎えたのである。

ホイットマンの生家を訪問した折、池田先生が生家協会の関係者から請われて揮毫したノート(1981年6月20日)
ホイットマンの生家を訪問した折、池田先生が生家協会の関係者から請われて揮毫したノート(1981年6月20日)

 先生がアメリカで激励を重ねていた81年7月1日、詩人の国際団体「世界芸術文化アカデミー」が、先生に「桂冠詩人」の称号の授与を決定した。
 「桂冠詩人」として、先生が初めて作詞した学会歌は、四国で誕生した「紅の歌」。最初の長編詩は、九州・大分で詠んだ「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」である。
 (以下、㊦に続く)

 
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山口開拓指導

2021年10月19日 | 妙法

第10回「山口開拓指導〈下〉」 私はどこまでも歩き続ける2021年10月19日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【「若き日の日記」1956年(昭和31年)12月19日から】
信心による人間革命だけは、生涯必要。
これ、絶対に、根本なり。
1983年4月、山口広布開拓27周年を記念する県総会で、池田先生が贈った「広布源流」の書。脇書には「山口の友に贈る也」と
1983年4月、山口広布開拓27周年を記念する県総会で、池田先生が贈った「広布源流」の書。脇書には「山口の友に贈る也」と
“まだできる”と前へ

 池田大作先生が陣頭指揮を執り、山口の会員世帯を約10倍に拡大した「山口開拓指導」。先生は最前線に飛び込み、動きに動いた。
 ある拠点を訪れた時のこと。そこには、メンバーのグループ分けの張り紙があった。イロハに区分されたグループが、「イ隊」「ロ隊」「ハ隊」と記されていた。
 先生は、ユーモアを交えて語った。「こんな名前では戦う元気が出ないじゃないか。“イ隊”では“痛い”じゃないか」
 会場には同志の笑顔が咲き、雰囲気がパッと明るくなった。先生は、拡大の上げ潮の時だからこそ、皆が窮屈にならないよう、リーダーとして気を配ったのである。
 山口への派遣メンバーや地元の同志が、喜々として対話に励む中で、拡大の勢いはみるみる加速していった。しかし、対話が進めば進むほど、無理解や批判の壁にぶつかった。
 防府市と岩国市を中心に対話を広げた、派遣メンバーの女性。話を快く聞いてくれる人は少なく、対話は実らなかった。降り出した雨に濡れながら、悔し涙をこらえた。
 そんな時、先生の「四条金吾殿御返事」の講義を受けた。渾身の講義に、彼女は、これまでの苦闘の意味を深くかみ締めた。そして弾むような気持ちで決意を記した。
 「苦難を乗り切ったとき、その難が大きければ大きいほど喜びは大きい。苦難から逃げるのではなく、信心で難を乗り越えるのだ」
 彼女は同志と共に、元気に拠点を飛び出した。そして、その直後に知り合った一家をはじめ、縁する友に次々と対話を実らせた。
 “もう無理だ”と退くのか。“まだできる”と前へ進むのか。拡大のカギは挑み続ける心にこそある。先生は、「御書」と「激励」を通し、一人一人の心に“挑戦の火”をともしていった。
 430世帯だった山口の会員世帯は、1956年(昭和31年)の開拓指導を通じ、12月末には、3214世帯へと大きく飛躍。
 57年(同32年)1月21日、先生は3度目の山口入りを果たす。滞在期間は、わずか5日間である。
 「一月二十一日、山口県東端の岩国市にやってきて、二十二日、徳山、二十三日、防府、二十四日、宇部、二十五日、下関と、瀬戸内を西へと移動しながら、総仕上げの指導をして、組織をつくっていった」

開拓指導の意義
一、全国に拡大が波及
一、師の構想実現へうねり
一、中国広布の基盤構築
山口広布開拓20周年を祝う記念勤行会で、ピアノを演奏する池田先生(1977年5月21日、徳山文化会館〈当時〉で)
山口広布開拓20周年を祝う記念勤行会で、ピアノを演奏する池田先生(1977年5月21日、徳山文化会館〈当時〉で)
山口開拓指導の際、御書講義などが行われた宇部市の松屋旅館。池田先生は、1956年10月、11月、57年1月と、友の激励のために同旅館を訪れている
山口開拓指導の際、御書講義などが行われた宇部市の松屋旅館。池田先生は、1956年10月、11月、57年1月と、友の激励のために同旅館を訪れている
フル回転の激闘

 池田先生は、会合での指導や一対一の激励とともに、わずかな時間を見つけては、励ましのはがきをつづっていった。列車で移動する際も、同志のために時間を割いた。
 1957年(昭和32年)1月24日、先生は宿舎を出る直前まで個人指導を行い、列車に乗った。山陽本線から宇部線に乗り換えるために降りた小郡駅(当時)では、駆け付けた同志に心からの励ましを送った。
 同日、宇部に移動した先生は、宇部市での開拓指導を締めくくる会合に参加。その前後も、拠点で渾身の激励を続けている。
 滞在中、先生は食事の時間も惜しんだ。ある時、ご飯にお茶をかけ、サラサラッとかき込む姿を同志が見て、先生の健康を案じた。
 すると先生は笑顔で言った。「悪いと分かっていても、次にやらなきゃいけないことがあって、急いでしまうんだね」
 同志は、広布の“戦”に挑む中心者の覚悟の一念を、先生の姿を通して深く心に刻んだ。先生のフル回転の激闘は、最前線の友を鼓舞した。
 先生は仏道修行における信念について、「動き続けていくのが仏道修行なのだ」「ともかく私は歩き続ける。どこまでも歩き続ける」と述べている。
 戸田先生の真の弟子として、池田先生は一切の責任を担い、山口広布の土台を築いていった。だが、人知れない苦悩もあった。
 3度目の山口入りの前月、先生は最愛の父親を亡くした。その時の思いを、日記にこう記している。
 「私の生涯に、忘れ得ぬ日となる」「旧き、実直な父。封建的な、誠実な、スケール大なる父」「(戸田)先生より、種々の御配慮を戴く。感謝」(『若き日の日記』、1956年12月10日)
 「此の永劫の離別の苦しみ。この絶対の解決こそ、仏法以外になき事を、唯々念う」(同、同年12月11日)
 また、多くの派遣メンバーと同様、先生も経済的に厳しい状況にあった。
 「体も疲れきっていた。経済的工面もたいへんだった。わが家の売れるものはすべて売って、交通費や滞在費等をやりくりした。ただ、私は戸田先生の山口に対する深き思いを、何としても実現したかった」
 どんな苦悩があろうとも、池田先生は師匠への誓いを抱き締め、友のために走り抜いた。その先生のもとで、同志の“心の結合”が生まれていった。
 小説『新・人間革命』には、開拓指導の勝利の要諦がつづられている。
 「戸田城聖と(山本)伸一の師弟の魂の結合、さらに、伸一を中心とした同志の結合――それが、あの山口開拓指導の大勝利を打ち立てたのだ」
 1月25日、開拓指導の掉尾を飾る「各支部合同総会」が下関で開催された。圧倒的な拡大と人材輩出で、歓喜が弾ける総会となった。一人一人の師弟直結の実践によって、山口は見違えるような組織へと生まれ変わったのである。

【「若き日の日記」1956年(昭和31年)12月6日から】
先生、折伏の師ならば、
われも折伏の弟子である。
1994年11月26日、池田先生は、山口文化会館で開催された第5回中国大勝利総会に出席。開拓指導の実践を振り返りながら、「かつて山口は明治の革命の源流であった。今度は壮大なる平和への『世界革命』の原動力となっていただきたい。そして盤石なる『中国の時代』を、ともどもに、つくりゆきたい」と呼び掛けた
1994年11月26日、池田先生は、山口文化会館で開催された第5回中国大勝利総会に出席。開拓指導の実践を振り返りながら、「かつて山口は明治の革命の源流であった。今度は壮大なる平和への『世界革命』の原動力となっていただきたい。そして盤石なる『中国の時代』を、ともどもに、つくりゆきたい」と呼び掛けた
「全責任を取ります」

 3度目の山口入りの前後で、池田先生は二つの地を初めて訪れている。
 一つが北海道の夕張。1957年(同32年)1月13日、池田先生は文京支部長代理として、夕張地区の友を激励するため、北へ向かった。
 この日の地区総決起大会で、班の増設が発表された。
 55年(同30年)11月に結成された夕張地区は、由仁、栗山、岩見沢、美唄、奈井江、滝川、赤平、芦別など、破竹の勢いで広がっていく。毎月、折伏の成果は支部のトップクラス。地区は当初、9班だったが、この日、45班まで増えた。
 夕張に3日間滞在した先生は、同志に力強く訴えた。「逆境すら追い風にしていく生命力で師子王のごとく前進していきましょう!」
もう一つの地が広島だった。26日の開拓指導の帰途、先生は広島を初めて訪れ、岡山支部の広島地区総決起大会で“難にひるまぬ信心”“清らかな信心”“一生涯、不退の信心”との確たる指針を示した。
 広島初訪問の2日後、先生は日記にこう書きとどめている。
 「宿命打開と、広布の布石に、全力傾注の闘争せり。その実証、いつの日に出づるや」(同、57年1月28日)
 山口開拓指導には、北海道から九州まで、全国各地から有志が参加し、その多くが先生の励ましに触れ、結果を出し、地元に戻った。山口の各市、夕張、広島――入魂の激励行によって、恩師・戸田先生の生涯の願業である75万世帯達成の実現へ、拡大のうねりが起こった。
 山口滞在の最終日、池田先生は派遣メンバーに語り残している。
 「この1年間が大切です。しっかり頑張りなさい。75万をやり遂げるのです。私が全責任を取ります」
 師匠の構想実現へ、先生は全てを懸ける覚悟であった。
 池田先生は、恩師・戸田先生と“山口で指導・折伏の旋風を”と交わした約束を果たした。開拓指導は、中国方面に揺るぎない広布の基盤を構築した。
 先生は後年、地殻変動が山をつくるように、広布の大闘争が偉大なる歴史をつくり、渾身の山口開拓指導によって“大中国の陣列”が築かれたことを述べている。そして、こう強調した。
 「あとは、その上に、自身の最高峰の戦いをもって、新しき『常勝』の歴史を開拓することだ!」

錦川に架かる5連の名橋「錦帯橋」を池田先生が撮影(1984年10月24日、山口・岩国市で)
錦川に架かる5連の名橋「錦帯橋」を池田先生が撮影(1984年10月24日、山口・岩国市で)
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対談集「21世紀への選択」

2021年10月18日 | 妙法

人間主義の哲学の視座〉第12回 対談集「21世紀への選択」に学ぶ㊦2021年10月18日

  • テーマ:安心と安全

 池田大作先生の著作から、現代に求められる視点を学ぶ「人間主義の哲学の視座」。「安心と安全」をテーマに掲げ、前回に引き続き、マジッド・テヘラニアン博士との対談集『21世紀への選択』をひもとく(㊤は9月6日付に掲載)。
  
  

平和への信念を同じくして、友情を深め合ってきた池田先生とテヘラニアン博士。2007年12月、博士は先生へのロシア芸術アカデミー名誉会員証授与式に出席。「今日の世界は、池田大作博士のような先見性を持つ世界市民を渇望しています」とたたえた(東京牧口記念会館で)
平和への信念を同じくして、友情を深め合ってきた池田先生とテヘラニアン博士。2007年12月、博士は先生へのロシア芸術アカデミー名誉会員証授与式に出席。「今日の世界は、池田大作博士のような先見性を持つ世界市民を渇望しています」とたたえた(東京牧口記念会館で)
【池田先生】
互いに「対話」に徹してこそ
異文明の接触は創造的方向へ
    
【テヘラニアン博士】
平和を目指す私たちの挑戦は
一人一人の人間革命が基軸に
    
崩壊か突破か

 「私たちは歴史の転換点を迎えている」――グテーレス国連事務総長は、先月10日に発表した報告書「私たちの共通の課題」で、そう述べた。
  
 創設75周年を迎えた昨年、国連では、全世界の150万人に対して、未来の優先課題や行動のアイデアに関する調査を実施。同報告書は、この調査結果やその後に行われた協議の内容を踏まえ、国連としてのビジョンを打ち出したものである。
  
 事務総長は、気候変動や新型コロナ感染症といった共通の課題を前に、人類は「ブレークダウン(崩壊)かブレークスルー(突破)か」といった緊急の選択を迫られているとし、そうした選択をする同様の機会は「二度と訪れない」。つまり、手遅れになる前に行動を加速すべき時は「今」であることを訴えている。
  
  

想像力の所産

 危機を前に、崩壊ではなく突破するための方途としてグテーレス事務総長が強調したのは、グローバルな連帯、多国間の協力の必要性であった。
  
 もとより、連帯と協力は、人々の安心と安全を実現する上で最重要の課題の一つである。社会を分断し、混乱へと陥れようとする力が働く危機の時代にあっては、それらの価値をいやまして高めていく挑戦が不可欠だ。
  
 池田先生とテヘラニアン博士との対談が行われた1990年代、宗教や民族の対立に端を発する紛争が、世界各地で発生していた。「文明の衝突」は、国際社会の論壇の主たるテーマとなった。
  
 ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・セン博士は、衝突が不可避であるかどうか以前に、文明という側面で人間を「一面だけから見」「ひと括りにする」こと自体が、政情不安をあおると指摘した(東郷えりか訳『人間の安全保障』集英社)。この視点は、先生と博士の対談にも通底している。
  
 先生は、紛争などの背景にある複雑な要因を「文明の衝突」という図式だけで捉えると、“文明が異なるのだから、対立は不可避である”といった見方が定着し、ゆえに、対立の真の原因が見失われてしまうと指摘する。
  
 博士は賛同しつつ、ではなぜ、「文明の衝突」というテーゼが世界中の注目を集めたのかを語る。
  
 ――国民の団結を強めるために外敵を必要とした国々は、目に見える外敵がいない場合、新たに敵を想定しようとする。「文明の衝突」は、排他的な立場をとる人々にとって、都合のよい理論となった、と。
  
 文明とは、分析上のカテゴリーとしての有用性を超えた、多様な人間が織りなす生き方や価値観の表現である――これが両者に共通する捉え方だった。
  
  
 テヘラニアン 文化と文明はすべて、有限、はかなさといった人間の普遍的状況に順応しながら、その状況を変革し乗り越えようとする人間のイマジネーション(想像力)の所産であると、私は思うのです。
  
 池田 限りある自己を乗り越えていく想像力、またその所産としての変革のダイナミズムにこそ文化や文明の生命があるという見解に、私も全面的に賛成です。
  
 テヘラニアン それぞれの文化、それぞれの文明が、それ独自の生態的、歴史的状況のなかで「生の神秘」に向きあっているのです。
 だからこそ、それぞれの違いは人間の天分の多様な表れとして尊重され、讃美されるべきです。
 ◇ 
 文明間の出合いには、破壊的な関係だけでなく創造的な関係もありえます。おそらく、その両方と言ってもよいでしょう。
  
 池田 異文明の接触によってもたらされるエネルギーを、真に創造的な方向へと生かせるかどうかはひとえに双方の努力、まさに「対話」にかかっている、と私は思うのです。
  

対談集『21世紀への選択』は、現在11言語に翻訳されている
対談集『21世紀への選択』は、現在11言語に翻訳されている
賢者の論

 異なる文化や背景の人同士が、語り合い、学び合う中で、互いの世界観は大きく広がる。先生と博士の交流自体、そうした「文明間の対話」にほかならなかった。
  
 先生は、文明間の対話を想起させる歴史的な事例として、仏教の古典である「ミリンダ王の問い」を紹介。力による「王者の論」ではなく、対話による「賢者の論」が重んじられた話を通して語る。
  
 「『賢者の論』という象徴的な言葉に、時代を超えた普遍的な対話の要件、つまり、理性的で実りある対話を成立させる基本が示されていると思います。それはまた、平等で自由な対話を根本としてきた、釈尊以来の仏教者の姿勢でもありました」
  
 さらに先生は、そうした「賢者の論」の精神と共に、互いの差異を乗り越える普遍性へのまなざしが、実りある対話には欠かせないと強調。国や民族の多様性の奥に輝く「人間性」という普遍の光を、人類の心に灯し、その輝きを高め合うことが、民族や文化・伝統といった多様性を真に生かす道であると訴える。
  
  
 テヘラニアン 科学技術の大進歩は私たちの社会に絶え間ない変化をもたらしましたが、その一方で限りない欲望が人々の心を支配しているのです。
 ◇ 
 そうしたなかで、人生の意味を探求する世界中の思慮深い人々は、自分たちのかぎられた文化の地平の彼方をのぞみ見て、他の文化や文明のなかに現在の難局を打破する答えを求めています。(中略)世界のどこを訪れても、排他的な民族主義、自民族中心主義、「文化の自己讃美主義」を超えることのできる普遍性が希求されているのを、つくづく実感するのです。
  
 池田 私も1994年に行ったモスクワ大学での講演(「人間――大いなるコスモス」)で大要、次のように論じました。(中略)「普遍性」とは、人間と自然と宇宙が共存し、小宇宙(ミクロ・コスモス)と大宇宙(マクロ・コスモス)が一個の生命体として融合しゆく「共生」の秩序感覚であり、そうしたみずみずしい「普遍性」を生命に充溢させていくならば、たとえ属する集団が異なったとしても、対話も相互理解もつねに可能である――と、訴えたのです。
  
  
 また先生は同講演を踏まえつつ、トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』をひもときながら、「内発性」こそが、人格的な価値の枢軸をなし、対話の要件ともいうべき謙虚さ、寛容さを生み出してきた母胎であったと述べた。そして、この内発性をおろそかにしたがゆえに、“宗教のため”に人間が傷つけ合うといった転倒が繰り返されてきたと指摘している。
  
  
 池田 “宗教のため”ではない、いっさいの根本は“人間のため”という一点にある――私たちSGIがめざす「人間革命」運動は、こうした歴史の転倒を正し、ともに光り輝く地球文明を創出するための方途として、一人一人の人間生命の次元からの変革を第一義として掲げているのです。
  
 テヘラニアン “宇宙船地球号”を文明間の平和、友好、超越をめざす私たちの共同の旅の乗り物と見なす「地球文明」は、(池田SGI)会長が主張されるように、まさに一人一人の「人間革命」を基軸として創造されなくてはならないのです。
  
  

【編集後記】対談集の終章では、書名に冠された「選択」の意味について語り合われる。選択とは「どちらかといえばA、どちらかといえばB」というような消極的なものではなく、「未来を敢然と開く人間の意志の力を示した言葉」(池田先生)であり、「人間が未来に対してなしうる大いなる挑戦の異名」(テヘラニアン博士)なのだ、と。社会の挑戦課題が複雑に山積する「歴史の転換点」にあって、最善の選択を共に求めゆく「対話」の重要性は、いくら強調してもし過ぎることはない。その対話の実践の中に、「安心と安全」の未来はある。
  
  
  
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「今」「ここで」ベストを尽くせ

2021年10月17日 | 妙法

「今」「ここで」ベストを尽くせ 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2021年10月17日

 【写真説明】北海道・旭川文化会館に咲くコスモスが秋の気配を醸し出す。町並みの向こうには、山々の稜線と湧き上がる白雲。季節の交錯を捉えた味わい深い一葉は1992年(平成4年)8月31日、池田大作先生が旭川を訪れた折に撮影したもの。
 同日の旭川の幹部会には留萌、稚内、名寄、士別、富良野、また天売・焼尻などの離島やサロベツ地域からも同志が参加。先生は「『信心』という『旭日』を心に昇らせれば、人生は常に新しき『黎明』を迎える」と呼び掛けた。
 日蓮仏法は本因妙。決意した今、ここから勝利への回転が始まる。さあ、新しき決意で前進だ! 民衆凱歌の夜明けへ!
 

池田先生の言葉

 「誰か」ではない。
 「どこか」でもない。
 「自分が今いる
 その場所」が、
 わが人生の
 晴れ舞台である。
 自分にしかできない
 使命の劇を、
 思う存分、勝ち飾るのだ。
  
 眼前の課題に
 一つ一つ挑戦し、
 勝利していくなかに、
 栄光の未来が開かれる。
 人生の勝利者とは、
 今日を勝ち抜く人である。
  
 未来の勝利は今にある。
 ゆえに、過去を振り向いて
 嘆く必要もない。
 いたずらに
 未来に心をとらわれて、
 焦りや不安を
 覚える必要もない。
 師匠の示した道に続いて、
 今この時に、若き生命を
 完全燃焼させて、
 賢く朗らかに、
 そして、粘り強く、
 一歩また一歩、ベストを
 尽くしていけばよい。
  
 自分一人の幸せではない。
 社会の平穏と繁栄を祈り、
 その実現に尽くしてこそ、
 真実の幸福は実現される。
 また、そうした生き方を
 貫いてこそ、
 自己の小さな殻を
 打ち破り、
 本当に価値のある、
 充実した人生を
 築いていくことができる。
  
 今、縁を結びゆく
 一人一人を
 誠実に大切にすることだ。
 そして、今、
 なすべきことをなし、
 語るべきことを
 語り切っていくことだ。
  
 人生には、
 これまでの壁を破り、
 生まれ変わったように、
 立ち上がるべき時がある。
 今が、その時なのだ。
 その原動力となるのが、
 強く、正しき信仰である。
 三世永遠の法則である、
 大仏法への大確信なのだ。
 過去の壁を破って、
 決然と立ち上がれ!
 自分が今いる
 その場所から!

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