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81年、先生が16年ぶりにミラノへ。青年たちが目に焼き付けた光景とは

2020年09月15日 | 妙法

81年、先生が16年ぶりにミラノへ。青年たちが目に焼き付けた光景とは 2020年9月15日

  • 〈虹を懸ける〉池田先生とイタリア・ミラノ①
「一つの明確な目標に走りゆく青年の姿は、美しく尊いものだ。苦労を未来の人生の大基盤と思って、日々月々を送ってもらいたい」――池田先生を囲んで行われた信心懇談会(1981年6月、ミラノ市内で)
「一つの明確な目標に走りゆく青年の姿は、美しく尊いものだ。苦労を未来の人生の大基盤と思って、日々月々を送ってもらいたい」――池田先生を囲んで行われた信心懇談会(1981年6月、ミラノ市内で)

池田先生とSGIメンバーの出会いをつづる「虹を懸ける」。今回は、北イタリアの中心都市・ミラノに輝く師弟のドラマを紹介する。
  

 

3泊4日の激励行

 ホームで待っていた誰もが、胸を高鳴らせた。
  
 1981年6月2日の午後5時半過ぎ。池田先生を乗せた列車が、ミラノ中央駅に到着したからである。
  
 前月末からイタリアを訪れていた先生は、“花の都”フィレンツェでの諸行事を終えた後、次の目的地である“芸術文化の街”ミラノへ。
  
 滞在は3泊4日。現地では、芸術機関などへの表敬訪問や、メンバーとの懇談が予定されていた。
  
 この日、駅で出迎えたのは、ジェノバ、トリノ、ベルガモの友を含む約60人。先生は真心に感謝し、ワイシャツの袖をまくり汗だくになりながら、一人一人に渾身の励ましを送った。
  
 実に16年ぶり2度目となるミラノ訪問。広布史に不滅の光彩を放つ激励行が始まった。  

  

池田先生とイタリアの友が感動の出会いを刻んだミラノ中央駅
池田先生とイタリアの友が感動の出会いを刻んだミラノ中央駅
 

 翌6月3日、池田先生は、民音の招へいで同年秋に日本公演が予定されていたオペラの至宝「ミラノ・スカラ座」へ。民音創立者として心からの歓迎の意を伝え、バディーニ総裁らと和やかに語り合った。
  
 また、スカラ座の対面にあるミラノ市庁舎では、トニョーリ市長(スカラ座の理事会の理事長)から、先生の名が彫られた市の銀メダルが贈られている。
  
 振り返れば、先生のミラノ初訪問(65年10月)は、スカラ座に日本公演を要請することが、主たる目的の一つだった。
  
 この時、同行した民音関係者がスカラ座を訪ねたのが、交渉の始まりである。
  
 以来、16星霜。先生の多大な尽力と、関係者の粘り強い努力が実を結び、“スカラ座の壁以外、全て持ってきた”といわれる伝説の公演が実現することになったのである。
    

   

 
20年を目標に

 こうした民間レベルの文化交流を大きく進めながら、池田先生が力を注いだのは、新しい人材の育成だった。
  
 先生がイタリアを初めて訪れた1961年当時、現地で出迎えた会員は、仕事で赴任していた日本人の夫妻だけであった。
  
 それから20年、同国には多くのSGIメンバーが誕生。会員の7割以上は20代の青年が占めていた。
  
 とりわけ拡大の原動力となったのは、ミラノで入会した若者たちである。
  
 到着の翌々日(6月4日)の夕刻、宿舎で開催された信心懇談会には、創価班、白蓮グループを中心とした男女青年部の代表ら約50人の姿があった。
  
 先生は参加者の質問に答えつつ、懸命に励ましを送った。
  
 「広宣流布の活動といっても、その努力は全部、自分に返ってくる。したがって、後になって『信心を貫いてよかった』と思う時が必ず来るから、退転だけは絶対にしてはならない」
  
 「信心の世界のみに閉ざされてはならない。信心している同志の連帯は確かに重要なことであるが、同時に多くの友人、多くの方々に自然の姿で接しゆく心の幅の広い青年であっていただきたい」
  
 さらに先生は、結婚観について語るなど、懇談会は人間として、信仰者としての在り方を学ぶ、有意義なひとときとなった。  

 

サヴィーノ・マッツァリエッロさん
サヴィーノ・マッツァリエッロさん
 

 参加したサヴィーノ・マッツァリエッロさん(副壮年部長)は述懐する。
  
 「私が鮮明に覚えているのは“信心はまず20年を目標に”との指導です」
  
 先生は訴えた。
  
 ――人が社会的にも一人前に育つまでには20年かかる。樹木が大樹になるのも同じである。仏法は道理であるがゆえに、まず20年を目標に持続の信心であっていただきたい。全ての信頼できる信心の先輩たちの偉大さは、20年を経た人の中に見えるものだ――と。
  
 マッツァリエッロさんは、生粋のミラネーゼ(ミラノっ子)。入会は78年、19歳の時だった。
  
 幼少期、大好きだった父と離別し、母子家庭で育った。
  
 家庭不和や経済苦などの悩みに直面したことで、生まれてきた意味を考えるように。その答えを教えてくれたのが、日蓮仏法だった。
  
 「環境を恨むのではなく、宿命を転換する生き方を知り、私の人生は大きく変わっていきました」  

 


創価の母は希望の太陽! かつて池田先生も訪れたルネサンス期最大の宮殿・スフォルツァ城の前で、婦人部の友が仲良く。未来っ子も共に(昨年10月)

 経済的に自立できる仕事がなかなか見つからずにいたが、先生との出会いを結んだ頃から歯科医療器具の販売業に従事。以来、“社会の信頼の大樹に”との思いで着実に業績を伸ばし、勝利の実証を打ち立ててきた。
  
 二度と会えないと諦めていた父との再会も実現。後に父は病で急逝したが、祈った通りに家族の絆を確認することができた。
  
 信心に反対だった母も、マッツァリエッロさんの変化に触れ、学会に理解を示すように。題目を唱え、座談会に参加するまでになった。
  
 青年部時代は、創価班や男子部本部長として奮闘。同世代の仲間と共に学会活動に励んだ青春が、かけがえのない財産に。
  
 その後もロンバルディア州の壮年部長などを歴任し、10年、20年、30年と、先生に誓った「不退の信心」を貫いてきた。
  
 念願だった一家和楽も築き、信仰の喜びをかみ締める日々だ。
  
 師弟の原点から明年で40年。マッツァリエッロさんは決意する。
  
 「あの日、家族のことで悩んでいた私を、まるで父親のように優しく包んでくださった先生への報恩を胸に、生涯、創価の哲学を語り広げていきます」
  

 
声のちから

 1981年の池田先生の滞在中、青年たちが目に焼き付けた光景がある。
  
 それはホテルスタッフや運転手など、現地で接した全ての人たちに、ねぎらいの言葉を掛け、丁重に御礼を伝える先生の姿だった。
  
 創価班として役員に就いたロマーノ・イェランさん(壮年部副書記長)も、そうした振る舞いに感動した一人だ。
  
 先生と一緒に勤行・唱題し、固く握手を交わしたことも、宝の思い出になっている。
  
 「まだ入会して3年でした。特に印象に残っているのは、先生の『声』です。その力強く、優しい響きを耳にした瞬間、通訳の言葉を待たずして“この方は信じられる!”と直感しました」    

 

ロマーノ・イェランさん
ロマーノ・イェランさん
 

 この2年後、イェランさんは大きな交通事故に遭う。
  
 命は守られたが、後遺症により、事故以前の記憶を一部喪失した。それでも、師匠との原点を忘れることはなかった。
  
 彼が信心と出あったのは、いとこからの折伏がきっかけだった。
  
 「親戚の中で一番暗かったいとこが、入会して別人のように明るくなったのです。とても驚きました(笑い)」
  
 60年から70年代のイタリアは、社会変革のための学生運動が盛んで、イェランさんも熱心な活動家だった。
  
 だが、権力や利害の壁に理想は打ち砕かれ、無力感から麻薬などに走る者も少なくなかった。  

 が信心と出あったのは、いとこからのしゃくぶくがきっかけだった。
  
 

「垂直の森」と呼ばれるミラノのマンション。テラスから緑があふれる
「垂直の森」と呼ばれるミラノのマンション。テラスから緑があふれる
 

 そうした中、学会の座談会に参加した若者たちは、人間革命の哲学と真実の信仰体験に感動。ミラノをはじめ各地に、歓喜の波動が広がっていった。
  
 イェランさん自身も座談会が契機となり、弟と共に入会。翌年、銀行への就職を勝ち取り、初信の功徳を実感した。
  
 家庭不和などの悩みにも負けず、仕事と学会活動の両立に全力で挑戦。困難を乗り越えるたびに、師弟の絆を強めてきた。
  
 銀行で順調にキャリアを積んだ後、90年からイタリア創価学会の職員に。その後の先生のミラノ訪問を陰で支えてきたことも、自身の誇りと輝く。
  
 「先生のように、一人を励まし抜く人生でありたい――これが私の日々の祈りです」 

 

11年ぶり3度目の訪問となったミラノで開催された北イタリア代表幹部会。先生は「きょうは“家族”の集まりです。どうしても聞きたいと思うことを、自由に質問してください」と述べ、参加者を包み込んだ(92年7月、ミラノ会館で)
11年ぶり3度目の訪問となったミラノで開催された北イタリア代表幹部会。先生は「きょうは“家族”の集まりです。どうしても聞きたいと思うことを、自由に質問してください」と述べ、参加者を包み込んだ(92年7月、ミラノ会館で)
 

 池田先生が三たび、ミラノに足を運んだのは、92年7月である。
  
 11年前の青年たちは皆、中核のリーダーと育ち、ミラノのあるロンバルディア州の会員数は1000人を超えていた。
  
 初訪問したミラノ会館での集いで、先生は呼び掛けている。
  
 「現実を離れて仏法はない。また『幸福』もない。平凡な、身近ななかにこそ、人生の本当の幸福もある。また、そういう現実生活に幸福の花を咲かせていくのが仏法であり、『創価(価値創造)』なのです」
  
 “いつかどこか”ではなく、“今ここ”で幸福を勝ち開く!
  
 先生が示した“勝利の指針”は、友の心に厳然と刻まれている。
  

 池田先生が三たび、ミラノに足を運んだのは、92年7月である。
  

  

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小説「新・人間革命」学習のために  「欧おう州しゅう」編

2020年09月11日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために  「おうしゅう」編 2020年9月11日

  • One Europe with Sensei!――欧州は一つ、先生と共に!
師弟の誓願を胸に、麗しき連帯で世界広布の先駆を走る欧州青年部の友(2018年8月、イタリア・ミラノで)
師弟の誓願を胸に、麗しき連帯で世界広布の先駆を走る欧州青年部の友(2018年8月、イタリア・ミラノで)
 

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は「欧州」編を掲載する。次回は「アジア」編を18日付2面に掲載の予定。挿絵は内田健一郎。

 
おんの使命」の自覚がだいかん

 <1961年(昭和36年)10月、山本伸一はイギリス・ロンドンへ。イギリス広布に孤軍奮闘するシズコ・グラントを激励する>

 「人間は自分の使命がわからず、何をすべきかを自覚できなければ、寂しくもなれば、孤独にもなるものです。

 あなたは、このイギリスの広宣流布の開拓という使命をもって、ここに来ているんです。仏法の眼から見れば、決して偶然ということはありません。

 御書をひもとけば、私たちは、過去世において、日蓮大聖人とともに地涌の菩薩として、末法の広宣流布をする約束をして、そのために現在、こうして出現してきたことが明確に示されています。

 つまり、あなたは仏弟子として、大聖人から派遣されて、このイギリスにやって来たのです。

 その久遠の使命を自覚し、果たそうとしていくところから、大歓喜が生まれ、新たな人生の扉が開かれていきます」

 人間の精神を支えるものは使命である。自分はなんのために生きるのか――仏法は、その使命という、人生の最高の意義を教える。

 ゆえに、仏法は、生き抜く力、勇気の明かりとなり、自己の世界を希望の光で包むのだ。(中略)

 「イギリスには、日本から来た四、五人のメンバーがいると聞いています。まず、その方たちとしっかり連絡を取り、励まし合っていってください。

 また、たくさん友人をつくって、ともに幸せになるために、仏法を教えていくことです。

 人のために尽くすことは自らの生命を浄化し、自身の境涯を開いていきます。あなたの活躍を、私は期待していますよ」

 (第5巻「開道」の章、59~60ページ)

 
広布せいがんの祈りに無量のどく

 <75年(同50年)5月、フランス・パリを訪れた伸一は、メンバーである画家の長谷部彰太郞の家を訪問する>

 長谷部は、前年、来日した折に、フランスに家を買うべきかどうか、山本伸一に相談した。(中略)

 「私は、あなたが家を買うことに賛成です。フランス社会で信用を勝ち得ていくには、フランスに家を持ち、地域に根を張り、信頼を獲得していくことが大事だからです。

 それには、断じてフランスに家を購入するぞと決めて、真剣に祈ることです。しかし、ただ家がほしいというだけでは、祈りは、なかなか叶わないかもしれませんよ」

 長谷部は、意外な顔をしながら尋ねた。

 「何か、祈り方があるんでしょうか」

 「あります。フランスの人びとの幸福と繁栄のために、広宣流布を誓願し、祈り抜いていくことです。たとえば、“私はフランス広布に生き抜きます。それには、社会の信用を勝ち取るためにも、皆が集える会場にするためにも、家が必要です。どうか、大きなすばらしい家を授けてください”と祈るんです。

 人びとに絶対的幸福の道を教える広宣流布を誓い、願う題目は、仏の題目であり、地涌の菩薩の題目です。その祈りを捧げていく時、わが生命の仏界が開かれ、大宇宙をも動かしていける境涯になる。ゆえに、家を購入したいという願いも、確実に叶っていくんです。

 それに対して、ただ大きくて立派な家をくださいというだけの祈りでは、自分の境涯はなかなか開けない。だから、願いが成就するのにも時間がかかります。

 祈りの根本は、どこまでも広宣流布であり、広布のためにという一念から発する唱題に、無量無辺の功徳があるんです」

 広宣流布の誓願のなかにこそ、所願満足の道があるのだ。

 (第21巻「共鳴音」の章、289~291ページ)

 

 
学会の組織は「皆の幸福」が目的

 <81年(同56年)5月、伸一はドイツのフランクフルト会館で同志と懇談。学会の組織はなぜ必要かを語った>

 「ともすれば、個人の自由と組織とは相反するように感じる人もいるかもしれない。しかし、国家でも、会社でも、また、いかなる団体でも、その目的を果たしていくためには、組織は不可欠です。同様に創価学会にあっても、皆が信・行・学を実践し、広宣流布を進めていく手段として、組織はなくてはならないものといえます。

 今、皆さんが、こうして信仰することができたのも、組織があっての結果です。(中略)

 信心を貫くには、大勢の人びととスクラムを組み、勇気ある人生を歩み抜けるよう励まし合い、退転を戒め合い、正道へ向かうよう守り合うことが大切です。そう考えるならば、組織というものが、いかに重要であるか、よくおわかりいただけると思う。

 ただし、組織は手段であり、個々人の信心の向上を促し、幸福になっていくための指導こそが、その出発点であることを忘れてはならない。あくまでも学会の組織の目的は、一人ひとりのメンバーの絶対的幸福であり、成仏にあります。組織での役職も上下の関係を意味するものではありません。幹部は、いわば団結の要となる存在といえます。

 ゆえに、メンバーは互いに尊敬し合い、共に社会の一員として理解、信頼し、励まし合いながら、人生を勝ち飾っていただきたい」

 学会は、人びとの幸福と人類の平和、すなわち広宣流布を実現する唯一無二の団体である。したがって戸田城聖は、「戸田の命より大切な学会の組織」と言明したのである。

 (第30巻<上>「暁鐘」の章、354~356ページ)

 

けっこんには共通の人生ばんが大切

 <81年6月、伸一はイタリア・ミラノで青年の代表と信心懇談会を開催し、結婚観について述べる>

 伸一は、イタリアは青年のメンバーが多く、その両親などから、結婚観についても、ぜひ語ってほしいとの要請があったことを踏まえ、この問題に言及していった。

 「結婚は、自分の意思が最重要であるのは言うまでもないが、若いということは、人生経験も乏しく、未熟な面もあることは否定できない。ゆえに、両親や身近な先輩のアドバイスを受け、周囲の方々から祝福されて結婚することが大切であると申し上げたい。

 また、結婚すれば、生涯、苦楽を共にしていくことになる。人生にはいかなる宿命があり、試練が待ち受けているか、わからない。それを二人で乗り越えていくには、互いの愛情はもとより、思想、哲学、なかんずく信仰という人生の基盤の上に、一つの共通の目的をもって進んでいくことが重要になる。

 二人が共に信心をしている場合は、切磋琢磨し、信心、人格を磨き合う関係を築いていただきたい。もし、恋愛することで組織から遠ざかり、信心の歓喜も失われ、向上、成長もなくなってしまえば、自分が不幸です」

 人生の荒波を越えゆく力の源泉こそ、仏法である。崩れざる幸福を築く道は、学会活動の最前線にこそある。広布のために流す汗は、珠玉の福運となり、その一歩一歩の歩みが、宿命を転換し、幸と歓喜の人生行路を開いていく――ゆえに伸一は、信仰の炎を、絶対に消してはならないと訴えたのである。

 (第30巻<上>「暁鐘」の章、403~404ページ)

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小説「新・人間革命」に学ぶ 第23巻

2020年09月08日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第23巻 名場面編 小説「新・人間革命」に学ぶ  2020年9月8日

  • 連載〈世界広布の大道〉
絵・間瀬健治
絵・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第23巻の「名場面編」。心揺さぶる小説の名場面を紹介する。挿絵は内田健一郎。
 

 
 

創立者の思い胸に病を克服

 〈1992年(平成4年)、香港創価幼稚園が開園した。園長の黄瑞玉は、毎日、玄関で子どもたちを、笑顔で迎え、見送ってきた〉

 開園から六年ほどしたころ、その黄園長の姿が消えた。癌が発見されたのである。
 彼女には、深く胸に刻まれた、魂ともいうべき言葉があった。それは、職員室の壁に掲げられた「香港幼稚園は 私の生命也」という、山本伸一が認めた、あの言葉であった。
 黄園長は、癌の摘出手術を受けるために入院した。創立者の生命である幼稚園と園児たちから離れることが、辛くて、悔しくて仕方なかった。病魔に蝕まれた自分が、情けなく、不甲斐なかった。(中略)
 ――彼女は、健康を回復し、微笑みながら、登園してくる子どもたちを迎える、自分の姿を思い浮かべた。すると、それだけで、幸せな気分になれた。
 さらに、創立者の山本伸一と一緒に、幼稚園の玄関に立つ自分を想像した。希望の光が、全身に降り注ぐ思いがした。
 “園児たちが、山本先生が、私を、待っていてくれる。私は、山本先生に代わって、園児たちに生涯を捧げるのだ。絶対に負けるものか! 病を克服して、また、幼稚園の玄関で、子どもたちを出迎え、見送ろう!”(中略)
 やがて、黄園長は病を乗り越え、再び、幼稚園の玄関に立った。
 彼女は、毎日、伸一と一緒に出迎え、見送っているつもりで、園児たちに向かって、笑みの花を贈る。
 二〇〇〇年(平成十二年)十二月、香港を訪問した伸一は、卒園生の第一期から第三期の代表と再会し、記念のカメラに納まった。
 「お会いできて嬉しい。皆さんは、私の誇りです。宝です」
 第一期生は、既に中学二年生になっていた。伸一は、成長した皆の姿に目を見張った。未来へ伸びゆく姿に、深い感慨を覚えた。代表が、伸一に花束を贈った。
 「ありがとう。大きくなったね。立派に成長したね……」
 創立者と卒園生の語らいを見る黄園長の頰に、涙が光っていた。それは、子どもたちへの情愛と、生きる喜びの結晶でもあった。(「未来」の章、82~84ページ)
 

 

学び抜く人生に勝利の輝き
 

 〈80年(昭和55年)3月、創価大学の通信教育部は、初めての卒業生を送り出すことに。そのなかに、3人の娘の母である今井翔子という女性がいた。彼女は中学生の時に、事故で耳が不自由になり、大学進学を断念したが、向学の情熱を燃やしてきた〉

 創価大学の通信教育部が開設されることを知った。
 “通教で学問を身につけよう。娘たちが誇りに思える母親になりたい!”
 子どもへの最高の教育とは、親が生き方の手本を見せることである。
 創大通教に入学した彼女は、育児と家事の傍ら、懸命に勉学に励んだ。しかし、あの事故に遭った時から、頭痛や耳鳴りが続いており、三十分も机に向かっていると、吐き気もしてくるのだ。それでも、身を横たえながら勉強を続けた。(中略)
 自分には無理なのではないかと考えることもあった。そんな時、いつも瞼に浮かぶのは、最初の夏期スクーリングの時に授業を見に来てくれた、創立者の山本伸一の姿であった。
 “お忙しい先生が、わざわざ私たちの教室に足を運ばれ、額に汗をにじませ、生命を振り絞るようにして激励してくださった!”
 耳が不自由な彼女は、伸一の話の内容はわからなかった。しかし、懸命に語りかける彼の表情から、深い真心と限りない期待を感じた。魂が震える思いがした。
 その時、今井は感極まって、泣きだしてしまった。涙でかすむ伸一の顔は、自分をじっと見ているように感じられた。(中略)
 “この励ましに、なんとしてもお応えしたい。そのために、私は必ず四年間で卒業し、先生に勝利のご報告をしよう!”(中略)
 スクーリングでも、教師が書く黒板の文字を見て、必死に理解しようと努めた。学友たちも応援し、筆記したノートを見せてくれた。
 そして、遂に卒業を勝ち取ったのである。
 伸一は、今井の奮闘の報告を聞き、卒業記念にと、自著の詩集を贈った。
 その中に、こんな一節があった。
 「他人を教育することは易しい
  自己自身を教育することは難しい
  生涯 確たる軌道に乗りながら
  自己を教育していくところに
  人間革命の道がある」
 (「学光」の章、180~182ページ)
 

 
 

地涌の使命に生きる共戦譜

 〈76年(昭和51年)7月、「人間革命の歌」が完成。“同志の心を奮い立たせる生命の讃歌を”と、山本伸一が作詞・作曲したものであった〉

 山本伸一は、「人間革命の歌」で、戸田城聖が獄中で悟達した、「われ地涌の菩薩なり」との魂の叫びを、いかに表現し、伝えるかに、最も心を砕いた。
 戸田は、この獄中の悟達によって、生涯を広宣流布に捧げんと決意し、一人立った。
 大聖人は「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(御書1360ページ)と仰せである。この悟達にこそ、日蓮大聖人に直結し、広宣流布に生きる、仏意仏勅の団体である創価学会の「確信」の原点がある。
 「地涌の菩薩」の使命の自覚とは、自分は、人びとの幸福に寄与する使命をもって生まれてきたという、人生の根源的な意味を知り、実践していくことである。
 それは、人生の最高の価値創造をもたらす源泉となる。また、利己のみにとらわれた「小我」の生命を利他へと転じ、全民衆、全人類をも包み込む、「大我」の生命を確立する原動力である。
 いわば、この「地涌の菩薩」の使命に生き抜くなかに、人間革命の大道があるのだ。
 伸一は、若者たちが、人生の意味を見いだせず、閉塞化した精神の状況を呈している時代であるだけに、なんのための人生かを、訴え抜いていきたかった。そして、彼は、その思想を、「人間革命の歌」の二番にある、「地よりか涌きたる 我なれば 我なれば この世で果たさん 使命あり」との歌詞で表現したのである。
 この年の暮れには、伸一の四十九歳の誕生日にあたる、翌一九七七年(昭和五十二年)一月二日を記念し、学会本部の前庭に「人間革命の歌」の碑が建立され、その除幕式が行われた。山本門下生として、地涌の使命を果たし抜かんとの、弟子一同の誓願によって建てられたものだ。
 「人間革命の歌」は、師弟の共戦譜である。そして、生命の讃歌である。
 碑の歌詞の最後に、伸一は刻んだ。
 「恩師戸田城聖先生に捧ぐ 弟子 山本伸一」(「勇気」の章、285~286ページ)
 

  

師弟が紡いだ「創価」の二字

 〈創価学会の創立の日となった、30年(同5年)11月18日は、『創価教育学体系』の発行日である。その不朽の大著は、師と弟子の語らいから生まれた〉

 冬のある夜、牧口と戸田は、戸田の家で火鉢を挟み、深夜まで語らいを続けていた。(中略)
 牧口は、自分の教育学説出版の意向を戸田に語ったあと、すぐに、それを打ち消すように言った。
 「しかし、売れずに損をする本を、出版するところはないだろう……」(中略)
 「先生、私がやります!」
 「しかし、戸田君、金がかかるよ」
 「かまいません。私には、たくさんの財産はありませんが、一万九千円はあります。それを、全部、投げ出しましょう」
 小学校教員の初任給が五十円前後であったころである。師の教育学説を実証しようと、私塾・時習学館を営んでいた戸田は、牧口の教育思想を世に残すために、全財産をなげうつ覚悟を定めたのである。(中略)
 牧口は、じっと戸田を見て頷いた。
 「よし、君が、そこまで決心してくれるのなら、ひとつやろうじゃないか!」
 牧口の目は、生き生きと輝いていた。そして、つぶやくように言葉をついだ。
 「さて、私の教育学説に、どんな名前をつけるべきか……」
 すると、戸田が尋ねた。
 「先生の教育学は、何が目的ですか」
 「一言すれば、価値を創造することだ」
 「そうですよね。……でも、価値創造哲学や、価値創造教育学というのも変だな」
 「確かに、それでは、すっきりしない。創造教育学というのも、おかしいしな……」
 戸田は、頰を紅潮させて言った。
 「先生、いっそのこと、創造の『創』と、価値の『価』をとって、『創価教育学』としたらどうでしょうか」
 「うん、いい名前じゃないか!」
 「では、『創価教育学』に決めましょう」
 時計の針は、既に午前零時を回っていた。
 師弟の語らいのなかから、「創価」の言葉は紡ぎ出されたのである。
 (「敢闘」の章、297~300ページ)

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「新・人間革命」学習のために 「中南米」

2020年09月04日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 「中南米」編  2020年9月4日

  • 新しき開拓の朝だ! 中南米のあの地、この地に 人間勝利の栄光の旗を!
池田先生が新しき広布の開拓に挑む中南米の友を激励。小説『新・人間革命』第11巻「開墾」の章には「中南米のあの地、この地に、人間勝利の栄光の旗は、誇らかに翻っている」とつづられている(1984年、ブラジルで)
池田先生が新しき広布の開拓に挑む中南米の友を激励。小説『新・人間革命』第11巻「開墾」の章には「中南米のあの地、この地に、人間勝利の栄光の旗は、誇らかに翻っている」とつづられている(1984年、ブラジルで)
 

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は「中南米」編を掲載する。次回は「欧州」編を11日付2面に掲載の予定。挿絵は内田健一郎。

 

さつの使命果たす人生を!

 <1965年(昭和40年)8月、伸一はメキシコ支部長のラウロ・イワダテと懇談。「メキシコが大好きになった」と語る彼に訴える>
 
 「自分のいるところが好きにならなければ、そこで、使命を果たし抜いていくことはできません。いやだなという思いがあれば、どこかへ行きたい、日本へ帰りたい、という心が働き、すぐに逃げ腰になってしまい、本当の仕事はできないものです。自分が、そこを好きになれる“良さ”を見つけることから、価値の創造は始まっていくといえます。
 
 (中略)戸田先生が夢にまで見られたメキシコを、私は大発展させたいんです。三年後には、オリンピックがありますが、それまでに、盤石な広宣流布の基盤を築きましょう。イワダテさん、時は“今”ですよ。
 
 あなたがメキシコに渡って四十年。それは、なんのための歳月であったか。仏法の眼から見れば、すべて、メキシコの広布に立ち上がる準備期間だったんです。
 
 いよいよ、これからが人生の本舞台です。やりましょう! 戦いましょう! メキシコに真実の幸福の風を起こすために」
 
 イワダテは、頰を紅潮させて頷いた。(中略)
 
 「イワダテさん、人の一生には限りがあります。その限りある人生をなんのために使うかです。自分の小さな幸福を追い求めるのも人生です。しかし、あなたには、メキシコの広宣流布に生き、この国の人びとを幸福にしていく使命がある。御書に照らして考えるならば、あなたは、そのために、地涌の菩薩として出現したんです。どうか、メキシコの民衆の、幸福と平和のパイオニアとして、また、リーダーとして、生涯、広宣流布に生き抜いてください」
 
 (第10巻「幸風」の章、158~160、163ページ)
 

 
最も苦労した人がだれよりも幸せに

 <74年(同49年)3月、学会への誤解があり、ビザが発行されず、伸一のブラジル訪問は中止となる。翌月、ブラジル理事長の斎木安弘は、アメリカのサンディエゴに滞在中の伸一を訪ね、現地の様子を伝える>
 
 斎木は、喜々として報告した。
 
 「先生のブラジルへのご訪問がなくなったことをメンバーに伝えました時には、皆、悔し涙にむせびました。しかし、『先生がいらっしゃらないからといって、泣いているような弱虫でどうする! 私たちの手で、文化祭を大成功させるのだ。それでこそ真の弟子じゃないか!』と語り合いました。
 
 そして、みんなが“先生、見ていてください”との思いで、懸命に挑戦しました。
 
 文化祭は大成功でした。出席した各界の来賓も、感動し、学会への理解を深めております。また、みんなが、あらゆる機会に、学会の正義と真実を、勇気をもって語り抜いてきました。そうしたなかで、オザスコ市のように、市をあげて先生の平和行動を賞讃するケースも出てまいりました」
 
 伸一は、斎木の顔を見つめて言った。
 
 「みんな、さぞかし悔しかっただろう。辛かっただろう……。しかし、そのなかで立ち上がった。ブラジルはきっと大発展するよ。二十一世紀の“世界広布の雄”となることは間違いない!」
 
 経文には「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(御書231ページ)とある。
 
 今、いかなる決意で、どう行動しているのか――それによって、未来の結果は決定づけられていくのだ。
 
 誰よりも労苦を背負いながら、黙々と広宣流布のために戦う。その人こそ、誰よりも強く、誰よりも幸せになり、誰よりも栄光をつかむのだ。それが、因果の理法である。
 
 (第19巻「陽光」の章、233~234ページ)
 

 
と努力で「くつの勝利王」たれ

 <93年(平成5年)2月、伸一はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで、集った友に語る>
 
 「ひとたび太陽が東天に昇れば、その大光は遍く全世界を照らす。同様に日本に聖誕された大聖人の『太陽の仏法』は、全地球の全民衆を赫々と照らし、妙法の大慈悲の光を注いでいきます。そして、この大聖人の仏法の世界性、普遍性を見事に証明してくださっているのが、アルゼンチンの皆様の活躍です。(中略)
 
 アルゼンチンのことわざに『太陽は皆のために昇る』とあります。
 
 (中略)大聖人は『皆のために』――末法万年のすべての民衆のために、大法を説き残された。信仰しているか、信仰していないかによって、人間を偏狭に差別するものでは決してありません。どうか皆様は、心広々と、太陽のように明るく、アルゼンチンの全国土、全民衆に希望の光彩を送っていただきたい。
 
 (中略)人生は、悩みとの戦いです。大事なことは、自分にのしかかる、さまざまな苦悩や問題を、いかに解決していくかです。『悩み』を越えた向こう側にある『勝利』に向かって、知恵を絞り、努力を重ねることです。もし、こんな悩みがなければ――と現実を離れ、夢を見ているだけの生き方は、敗北です。どうすれば、今の課題を乗り越え、価値と勝利に変えていけるか――常に、その前向きな努力をなす人が『勝つ人』なんです。
 
 自分の一念が、そのまま人生となる――この真理を、見事なる勝利の劇で証明する『名優』であっていただきたい。また、周囲にも『自信』をもたせる『励ましの人』であっていただきたい」
 
 伸一は、アルゼンチンの同志が一人も漏れなく「不屈の勝利王」であってほしかった。
 
 (第30巻<下>「誓願」の章、366~368ページ)
 

 <93年(平成5年)2月、伸一はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで、つどった友に語る>
 

アンデスえたり われは勝ちたり

 <93年(平成5年)2月、伸一は海外50カ国・地域目となるチリを初訪問。広布旅を振り返る>
 
 思えば、どの国も、一つ、また一つと、全精魂を注いで歴史の扉を開く、真剣勝負の広布旅であった。
 
 戸田城聖は、第二代会長に就任した翌一九五二年(昭和二十七年)の正月、「いざ往かん 月氏の果まで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」と詠んだ。(中略)
 
 しかし、恩師は、一度も海外に出ることはなかった。伸一は、戸田の言葉を遺言として生命に刻み、師に代わって世界を回り、「太陽の仏法」を伝えてきた。
 
 (中略)その海外訪問も、このチリの地で、いよいよ五十番目となるのだ。
 
 彼の脳裏に和歌が浮かんだ。
 
 「荘厳な 金色に包まれ 白雪の アンデス越えたり 我は勝ちたり」(中略)
 
 チリSGI総会で伸一は、チリの各地で活動に励む同志の労苦を思いながら、「逆境に負けずに頑張り抜いてこられた皆様には、アンデスの山並みのごとく、限りなく功徳が積まれていくことは絶対に間違いない」と賞讃した。
 
 さらに、このチリで、海外訪問は五十カ国・地域となったことを伝えた。三十三年前、富士の高嶺を仰ぎつつ、世界平和への旅を開始して以来、五大州を駆け巡ってきた。そして、日本とは地球のほぼ反対側にあり、「チリ富士」といわれるオソルノ山がそびえるチリを訪れたのである。伸一は、烈々たる気迫で呼びかけた。
 
 「戸田先生は、さぞかし喜んでくださっているにちがいない。しかし、いよいよ、これからが本番です。常に皆様を胸中に描き、日々、共に行動している思いで、全世界を、楽しく朗らかに、駆け巡ってまいりたい!」
 
 (第30巻<下>「誓願」の章、382~383、386ページ)

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新・人間革命」に学ぶ 第23巻 基礎資料編

2020年09月02日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第23巻 基礎資料編 2020年9月2日

  • 連載〈世界広布の大道〉

イラスト・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第23巻の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。挿絵は内田健一郎。
  

 【物語の時期】1976年(昭和51年)1月~8月30日

 
「未来」の章

 1976年(昭和51年)4月16日、札幌創価幼稚園が開園。創立者の山本伸一は、入園式に出席し、自ら園児たちを出迎える。式の前日にも幼稚園の教職員と懇談し、「仲良く、団結して、最高の人間教育の城をつくってください」などと励ます。
 式典で伸一は、園児たちを生涯、見守り続けていこうとの思いから、最後列に座る。引き続いて、記念撮影と記念植樹に参加。さらに、園児をバスで送り、通園状況を確認する。翌17日も、幼稚園の各保育室を回り、園児たちと心の絆を結ぶ。
 その後も伸一は、多忙なスケジュールの中、折にふれて幼稚園を訪問。入園式や卒園式には、園児たちに思いを馳せながら、メッセージを書き贈った。教員たちも幼稚園のモットー「つよく ただしく のびのびと」を実現するために懸命に奮闘する。伸一と教職員の情熱に育まれ、園児たちは伸び伸びと成長し、「未来」へ羽ばたいていく。
 札幌創価幼稚園に続いて、香港、シンガポール、マレーシア、ブラジル、韓国にも幼稚園が開園する。各国・各地域で創価の人間教育は、高い評価を得ていくことになる。
  

 
がっこう」の章

 創価大学に通信教育部が開設され、5月16日に開学式が行われる。山本伸一はメッセージを贈り、通信教育とは“信”を“通”わせ合う教育であり、「第一期生の皆さんこそ、通信教育部の創立者」と訴える。
 通信教育部は、伸一が、創価大学の設立を構想した当初からの念願であり、民衆教育の眼目であった。開設準備に当たる教職員は意見交換を重ね、各都道府県に通教生の相談にのり、アドバイスする「指導員」を置くことを決定。また、伸一は、通信教育部の機関誌を「学光」と命名。それは“学の光で人生、社会を照らしゆく”との指針となった。
 8月15日からは創大通教初の夏期スクーリングが開始となり、伸一も大学を訪れ、通教生を激励。秋期スクーリングでも、懇談や記念撮影を行う。また、11月の「創大祭」では通教生の展示が好評を博す。
 通教生たちは伸一の心に応えようと、苦闘を重ねながら勉学に励み、1980年(昭和55年)3月、通教から初の卒業生が巣立つ。その後、医学・工学の博士、公認会計士、教員をはじめ、社会に貢献する人材が数多く育っていく。
  

「勇気」の章

 5月16日の夜、大学の2部(夜間部)に学ぶ男子学生部員による「勤労学生主張大会」が開催される。前年(1975年<昭和50年>)に、伸一の提案で2部学生の集い「飛翔会」が結成。メンバーは伸一と同じ青春の道を歩む誇りに燃え、先駆の学生部のなかでも一段と輝きを放っていた。
 大会の報告を聞いた伸一は、“広布の重要な局面で猛然と先駆し、大勝利の突破口を開くのが「飛翔会」だ”と期待を寄せる。8月29日に開催された第2回総会では、各方面に「飛翔会」を結成することが提案された。その後も伸一の励ましは続いた。
 伸一は、「7・17」を記念し、全同志の広宣流布への誓いを託した「人間革命の歌」の制作に取り組む。その日は、57年(同32年)に、事実無根の容疑で、大阪府警に不当逮捕された伸一が、釈放され、創価の正義の勝利を誓い合った日である。
 歌詞は18日午後の本部幹部会で発表。さらに、推敲が重ねられ、同日夜、歌詞・曲ともに完成し、師弟の共戦譜「人間革命の歌」が誕生したのだ。翌日の夜には、全国各地の会合で声高らかに歌われ、世界各地の同志へと広がっていく。
  

 5月16日の夜、大学の2部(夜間部)に学ぶ男子学生部員による「きんろう学生主張大会」がかいさいされる。前年(1975年<昭和50年>)に、伸一の提案で2部学生のつどい「しょうかい」が結成。メンバーは伸一と同じ青春の道を歩むほこりに燃え、せんの学生部のなかでもいちだんかがやきをはなっていた。
 大会の報告を聞いた伸一は、“広布の重要な局面でもうぜんせんし、大勝利のとっこうを開くのが「飛翔会」だ”と期待を寄せる。8月29日に開催された第2回総会では、各方面に「飛翔会」を結成することが提案された。その後も伸一のはげましは続いた。
 伸一は、「7・17」を記念し、全同志の広宣流布へのちかいをたくした「人間革命の歌」の制作に取り組む。その日は、57年(同32年)に、事実こんようで、大阪けいに不当たいされた伸一が、しゃくほうされ、創価の正義の勝利を誓い合った日である。
 は18日午後の本部幹部会で発表。さらに、すいこうが重ねられ、同日夜、歌詞・曲ともに完成し、師弟のきょうせん「人間革命の歌」がたんじょうしたのだ。よくじつの夜には、全国各地の会合で声高らかに歌われ、世界各地の同志へと広がっていく。
  

「敢闘」の章
かんとう」の章

 7月23日、伸一は名古屋で女子部の人材育成グループ「青春会」を激励。夕刻、三重県の中部第一総合研修所へ。歴代会長の精神を学び、継承するための遺品などが展示された記念館をはじめ、研修所内を視察。26日は中部学生部の代表と懇談し、「学生部厚田会」を結成した。
 一人ひとりの励ましに徹する地道な「敢闘」の日々は続く。
 8月6日には鹿児島県の九州総合研修所を訪問。12日には東京に戻り、3日間にわたる茨城指導へ。
 19日から再び九州総合研修所に向かい、20日、人材育成グループ「鳳雛会」の結成10周年記念大会に出席する。席上、伸一は、皆が山本伸一の分身として、師と共に広布に生きることを願い、和歌を贈る。また、22日には本部幹部会や女子「鳳雛グループ」の大会に出席。23日は、喜界島の草創期を築いた婦人に最大の励ましを送る。
 伸一の入信記念日であり、恩師との思い出深き24日には、清水、国分の両総ブロック合同の代表者勤行会へ。翌日は「伸一会」の集い、さらに神奈川、埼玉の文化祭に出席するなど、同志の激励に力を尽くす。
  

 7月23日、伸一は名古屋で女子部の人材育成グループ「青春会」をげきれいゆうこく、三重県の中部第一総合研修所へ。歴代会長の精神を学び、けいしょうするためのひんなどがてんされた記念館をはじめ、研修所内をさつ。26日は中部学生部の代表とこんだんし、「学生部あつかい」を結成した。
 一人ひとりのはげましにてっする地道な「かんとう」の日々は続く。
 8月6日には鹿児島県の九州総合研修所をほうもん。12日には東京にもどり、3日間にわたる茨城指導へ。
 19日から再び九州総合研修所に向かい、20日、人材育成グループ「ほうすうかい」の結成10周年記念大会に出席する。席上、伸一は、みなが山本伸一の分身として、師と共に広布に生きることを願い、和歌をおくる。また、22日には本部幹部会や女子「鳳雛グループ」の大会に出席。23日は、かいしまそうそうを築いた婦人に最大のはげましを送る。
 伸一の入信記念日であり、恩師との思い出深き24日には、きよみずこくの両総ブロック合同の代表者勤行会へ。よくじつは「伸一会」の集い、さらに神奈川、埼玉の文化祭に出席するなど、同志のげきれいちからくす。
  

【「人間革命の歌」の書】
【「人間革命の歌」の書】
池田先生が「人間革命の歌」の歌詞をしたためた書の一部。3番の歌詞の最後に、「人間革命 光あれ 合掌」と記されている。書全体は幅3メートル30センチに及ぶ
池田先生が「人間革命の歌」の歌詞をしたためた書の一部。3番の歌詞の最後に、「人間革命 光あれ 合掌」と記されている。書全体は幅3メートル30センチに及ぶ
池田先生が「人間革命の歌」の歌詞をしたためた書の一部。3番の歌詞の最後に、「人間革命 光あれ 合掌」と記されている。書全体は幅3メートル30センチに及ぶ

 池田先生は「人間革命の歌」の完成を記念し、1番から3番の歌詞を一幅の書にしたためた。
 冒頭には、「わが広宣流布に勇敢に向いゆく わが同志乃益々御健斗と無事とを祈りつつ 此の一詩を全学会乃諸兄諸姉に贈る」との言葉とともに、歌が完成した「昭和五十一年七月十八日」の日付が揮毫されている。
 また、結びには「一千万地涌の同志乃永遠なる栄光の旅路を祈る 初代 牧口常三郎先生 二代 戸田城聖先生 三代 池田大作 記す 創価学会本部 会長室にて」と書きとどめられている。

 池田先生は「人間革命の歌」の完成を記念し、1番から3番のいっぷくの書にしたためた。
 ぼうとうには、「わが広宣流布にゆうかんむかいゆく わがどうますますけんとうと無事とを祈りつつ の一詩を全学会乃しょけいしょおくる」との言葉とともに、歌が完成した「昭和五十一年七月十八日」の日付がごうされている。
 また、むすびには「一千万の同志乃永遠なる栄光のたびいのる 初代 牧口常三郎先生 二代 戸田城聖先生 三代 池田大作 記す 創価学会本部 会長室にて」と書きとどめられている。

 こちらのURLから、「人間革命の歌」の動画を視聴できます。
 https://youtu.be/yeBV79f63ME

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