81年、先生が16年ぶりにミラノへ。青年たちが目に焼き付けた光景とは 2020年9月15日
- 〈虹を懸ける〉池田先生とイタリア・ミラノ①
池田先生とSGIメンバーの出会いをつづる「虹を懸ける」。今回は、北イタリアの中心都市・ミラノに輝く師弟のドラマを紹介する。
ホームで待っていた誰もが、胸を高鳴らせた。
1981年6月2日の午後5時半過ぎ。池田先生を乗せた列車が、ミラノ中央駅に到着したからである。
前月末からイタリアを訪れていた先生は、“花の都”フィレンツェでの諸行事を終えた後、次の目的地である“芸術文化の街”ミラノへ。
滞在は3泊4日。現地では、芸術機関などへの表敬訪問や、メンバーとの懇談が予定されていた。
この日、駅で出迎えたのは、ジェノバ、トリノ、ベルガモの友を含む約60人。先生は真心に感謝し、ワイシャツの袖をまくり汗だくになりながら、一人一人に渾身の励ましを送った。
実に16年ぶり2度目となるミラノ訪問。広布史に不滅の光彩を放つ激励行が始まった。
翌6月3日、池田先生は、民音の招へいで同年秋に日本公演が予定されていたオペラの至宝「ミラノ・スカラ座」へ。民音創立者として心からの歓迎の意を伝え、バディーニ総裁らと和やかに語り合った。
また、スカラ座の対面にあるミラノ市庁舎では、トニョーリ市長(スカラ座の理事会の理事長)から、先生の名が彫られた市の銀メダルが贈られている。
振り返れば、先生のミラノ初訪問(65年10月)は、スカラ座に日本公演を要請することが、主たる目的の一つだった。
この時、同行した民音関係者がスカラ座を訪ねたのが、交渉の始まりである。
以来、16星霜。先生の多大な尽力と、関係者の粘り強い努力が実を結び、“スカラ座の壁以外、全て持ってきた”といわれる伝説の公演が実現することになったのである。
こうした民間レベルの文化交流を大きく進めながら、池田先生が力を注いだのは、新しい人材の育成だった。
先生がイタリアを初めて訪れた1961年当時、現地で出迎えた会員は、仕事で赴任していた日本人の夫妻だけであった。
それから20年、同国には多くのSGIメンバーが誕生。会員の7割以上は20代の青年が占めていた。
とりわけ拡大の原動力となったのは、ミラノで入会した若者たちである。
到着の翌々日(6月4日)の夕刻、宿舎で開催された信心懇談会には、創価班、白蓮グループを中心とした男女青年部の代表ら約50人の姿があった。
先生は参加者の質問に答えつつ、懸命に励ましを送った。
「広宣流布の活動といっても、その努力は全部、自分に返ってくる。したがって、後になって『信心を貫いてよかった』と思う時が必ず来るから、退転だけは絶対にしてはならない」
「信心の世界のみに閉ざされてはならない。信心している同志の連帯は確かに重要なことであるが、同時に多くの友人、多くの方々に自然の姿で接しゆく心の幅の広い青年であっていただきたい」
さらに先生は、結婚観について語るなど、懇談会は人間として、信仰者としての在り方を学ぶ、有意義なひとときとなった。
参加したサヴィーノ・マッツァリエッロさん(副壮年部長)は述懐する。
「私が鮮明に覚えているのは“信心はまず20年を目標に”との指導です」
先生は訴えた。
――人が社会的にも一人前に育つまでには20年かかる。樹木が大樹になるのも同じである。仏法は道理であるがゆえに、まず20年を目標に持続の信心であっていただきたい。全ての信頼できる信心の先輩たちの偉大さは、20年を経た人の中に見えるものだ――と。
マッツァリエッロさんは、生粋のミラネーゼ(ミラノっ子)。入会は78年、19歳の時だった。
幼少期、大好きだった父と離別し、母子家庭で育った。
家庭不和や経済苦などの悩みに直面したことで、生まれてきた意味を考えるように。その答えを教えてくれたのが、日蓮仏法だった。
「環境を恨むのではなく、宿命を転換する生き方を知り、私の人生は大きく変わっていきました」
経済的に自立できる仕事がなかなか見つからずにいたが、先生との出会いを結んだ頃から歯科医療器具の販売業に従事。以来、“社会の信頼の大樹に”との思いで着実に業績を伸ばし、勝利の実証を打ち立ててきた。
二度と会えないと諦めていた父との再会も実現。後に父は病で急逝したが、祈った通りに家族の絆を確認することができた。
信心に反対だった母も、マッツァリエッロさんの変化に触れ、学会に理解を示すように。題目を唱え、座談会に参加するまでになった。
青年部時代は、創価班や男子部本部長として奮闘。同世代の仲間と共に学会活動に励んだ青春が、かけがえのない財産に。
その後もロンバルディア州の壮年部長などを歴任し、10年、20年、30年と、先生に誓った「不退の信心」を貫いてきた。
念願だった一家和楽も築き、信仰の喜びをかみ締める日々だ。
師弟の原点から明年で40年。マッツァリエッロさんは決意する。
「あの日、家族のことで悩んでいた私を、まるで父親のように優しく包んでくださった先生への報恩を胸に、生涯、創価の哲学を語り広げていきます」
1981年の池田先生の滞在中、青年たちが目に焼き付けた光景がある。
それはホテルスタッフや運転手など、現地で接した全ての人たちに、ねぎらいの言葉を掛け、丁重に御礼を伝える先生の姿だった。
創価班として役員に就いたロマーノ・イェランさん(壮年部副書記長)も、そうした振る舞いに感動した一人だ。
先生と一緒に勤行・唱題し、固く握手を交わしたことも、宝の思い出になっている。
「まだ入会して3年でした。特に印象に残っているのは、先生の『声』です。その力強く、優しい響きを耳にした瞬間、通訳の言葉を待たずして“この方は信じられる!”と直感しました」
この2年後、イェランさんは大きな交通事故に遭う。
命は守られたが、後遺症により、事故以前の記憶を一部喪失した。それでも、師匠との原点を忘れることはなかった。
彼が信心と出あったのは、いとこからの折伏がきっかけだった。
「親戚の中で一番暗かったいとこが、入会して別人のように明るくなったのです。とても驚きました(笑い)」
60年から70年代のイタリアは、社会変革のための学生運動が盛んで、イェランさんも熱心な活動家だった。
だが、権力や利害の壁に理想は打ち砕かれ、無力感から麻薬などに走る者も少なくなかった。
そうした中、学会の座談会に参加した若者たちは、人間革命の哲学と真実の信仰体験に感動。ミラノをはじめ各地に、歓喜の波動が広がっていった。
イェランさん自身も座談会が契機となり、弟と共に入会。翌年、銀行への就職を勝ち取り、初信の功徳を実感した。
家庭不和などの悩みにも負けず、仕事と学会活動の両立に全力で挑戦。困難を乗り越えるたびに、師弟の絆を強めてきた。
銀行で順調にキャリアを積んだ後、90年からイタリア創価学会の職員に。その後の先生のミラノ訪問を陰で支えてきたことも、自身の誇りと輝く。
「先生のように、一人を励まし抜く人生でありたい――これが私の日々の祈りです」
池田先生が三たび、ミラノに足を運んだのは、92年7月である。
11年前の青年たちは皆、中核のリーダーと育ち、ミラノのあるロンバルディア州の会員数は1000人を超えていた。
初訪問したミラノ会館での集いで、先生は呼び掛けている。
「現実を離れて仏法はない。また『幸福』もない。平凡な、身近ななかにこそ、人生の本当の幸福もある。また、そういう現実生活に幸福の花を咲かせていくのが仏法であり、『創価(価値創造)』なのです」
“いつかどこか”ではなく、“今ここ”で幸福を勝ち開く!
先生が示した“勝利の指針”は、友の心に厳然と刻まれている。
●ご感想をお寄せください
news-kikaku@seikyo-np.jp