マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 「アフリカ・オセアニア編」 2020年9月25日
小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は「アフリカ・オセアニア」編を掲載する。次回は第18巻を10月9日付2面に掲載の予定。挿絵は内田健一郎。
〈1962年(昭和37年)2月、山本伸一は初めてアフリカの大地に立った。エジプトで博物館等を視察後、ホテルに戻ると、伸一宛てに日本から電報が届いていた〉
伸一が自分の部屋で電報を開くと、ローマ字で打たれた「KOUSO NASI(控訴なし)……」の文字が目に飛び込んできた。
一月二十五日、大阪事件の第一審の大阪地裁の判決で、伸一は無罪となったが、検察が控訴することが懸念されていたのだ。
しかし、判決後十四日間の控訴期間内に、検察は控訴の手続きを取らなかったのである。
あの検察の厳しい求刑を思うと、意外な感じもしたが、第一審の無罪判決を覆すことは困難であると判断し、やむなく控訴を断念したのであろう。
これで大阪地裁の判決が最終の審判となったのである。
伸一は、鉛のように、重くのしかかっていた心労が、霧が晴れるように消えていくのを覚えた。彼の顔に微笑が浮かんだ。
窓際に立つと、真っ赤な大きな夕日が、ナイルの流れを深紅に染めて燃えていた。その太陽のなかに、恩師である戸田城聖の顔が浮かんだ。
伸一は、恩師に心で語りかけた。
“先生! 無罪は、最終的に確定いたしました。
これで、先生の命であった創価学会に、傷をつけずにすみました。なんの憂いもなく、後継の若師子として、世界平和の大舞台に乱舞することができます。
地上から「悲惨」の二字をなくすために、先生の広宣流布の構想は、必ずこの伸一が、すべて実現してまいります。
先生の分身の、まことの弟子の戦いをご覧ください”
その夜、伸一の部屋に同行のメンバーが集まり、皆で真剣に勤行・唱題した。
それは、感謝の祈りであり、新しき広宣流布への旅立ちの、誓願の祈りでもあった。
また、このエジプトだけでなく、伸一が初めて足を踏み入れた、未来の大陸アフリカに生きる人びとの、永遠の平和と幸福を祈っての唱題でもあった。
(第6巻「遠路」の章、133~134ページ)
〈75年(同50年)1月、グアムでの第1回「世界平和会議」で伸一は、ガーナにアフリカ初の会館の建設を提案する。前進の目標をもった友は、喜々として自ら建設作業に汗を流す〉
作業は午前中が勝負であった。正午を過ぎると暑すぎて働くことができないからだ。一年の大半は、最高気温が三〇度を超えてしまうのだ。
勇壮にドラムを打ち鳴らし、皆でリズムを取りながらの作業である。資材を担ぐメンバーの肩は腫れ、指先も痛んだ。
しかし、皆、自分たちの手で、アフリカ初の会館を完成させるのだという誇りと使命に燃えていた。誰もが活気に満ち、喜びにあふれていた。
指示されて始めた作業ではない。皆、自ら喜んで希望し、参加した会館建設である。
自分から勇んで行動を起こそうとする自主性、自発性こそが、自らの力と歓喜を引き出す源泉となるのだ。(中略)
だが、順調に進むかに思われた会館建設に、思わぬ障害が待ち受けていた。クーデターなどが頻発したのである。
政治の混乱は経済の混乱を招き、物価は高騰した。クーデターによって通貨自体が変わってしまうこともあった。
マーケットからは、ほとんど商品が消え、物価高は際限なく進んだ。
建設用の鉄筋も三倍から五倍ぐらいに跳ね上がった。需要の高いセメントは特に高値で取引され、値段がないに等しかった。ドアの取っ手一つ手に入れるのも大変であった。
資材は決定的に不足していた。しかし、メンバーは、必ず幸福と平和の法城となる会館を建てるのだと真剣であった。
強き決意は、困難をはねのける。
皆がなんとか工夫して資材が集まると、また、作業に取りかかるのだ。
その繰り返しのなかで、遂に一九八三年(昭和五十八年)の年末、アフリカ初の会館となるガーナ会館が完成をみるのである。
(第21巻「SGI」の章、87~89ページ)
〈91年(平成3年)11月、東京の創価国際友好会館で、アフリカ外交団26カ国の総意として、伸一に「教育・文化・人道貢献賞」が贈られた。この日は学会に宗門からの「破門通告書」が届いた日でもあった〉
外交団を代表してあいさつした団長のガーナ大使は、伸一並びにSGIの世界平和への実績として、アパルトヘイト撤廃への貢献をはじめ、創価大学や民音などを通してのアフリカと日本の教育・文化交流などをあげた。
そして、SGIは人類の理想を共有する“世界市民の集い”であると述べ、力を込めた。
「私どもは、“共通の理想”を実現しゆくパートナーとして、SGIを選んだことが正しいと確信します」(中略)
長い間、圧迫、差別などに苦しめられ、多くの困難と戦ってきたアフリカ大陸の歴史。そのなかで培われた鋭い眼による評価に対して、伸一は身の引き締まる思いがした。(中略)
「教育の道」「文化の道」「人道の道」――これらの道が開けてこそ、真実の仏法の精神も広く世界に脈動していく。仏法の精神である人間主義、平和主義は、あらゆる壁を超えて、「人」と「人」を結んでいく。その実現をめざすなかに、仏法者の正しき実践がある。(中略)
“人権の勝利”へ、新しい時代の幕が、この日、厳然と開いたのである。各国大使の心こもる祝福は、堂々と「魂の独立」を果たした創価の未来に寄せる、喝采と期待でもあった。
(第30巻<下>「誓願」の章、324~327ページ)
〈64年(昭和39年)5月、オーストラリアを訪れた伸一は、オーストラリア国立大学に留学していた日本人の青年と再会し支部長に任命する〉
「首都のキャンベラには、私だけですが、オーストラリア全体では、私がつかんでいるだけで、五、六人おります。このほかにも、おそらく、まだ何人かは、いるのではないかと思います」
伸一は、その一人ひとりの状況を尋ねたあと、力強い声で語った。
「人数は少ないが、オーストラリアに支部をつくろう」(中略)
「支部長でも、地区部長でも、すべて、原理は一緒だよ。
一人ひとりを、自分以上の人材に育て上げていけばよい。そして、同志を着実に増やしていくことだ。心配しなくて大丈夫だよ。
それから、支部名だが、オーストラリア支部ではなく、メルボルン支部にしようと思う。今後、オーストラリアも、広宣流布が進めば、各地に支部がつくられていくんだから、国名を支部名にするのはよそう」
未来の大発展を想定しての、支部の名に、同行のメンバーは、伸一の大確信と決意を感じ取った。(中略)
「君の深い任務は、この国の広宣流布にある。それが地涌の菩薩としての、根本の使命だ。(中略)
人間として、何が偉いのか。何が尊いのか――社会的な立場や経済力にばかり目がいき、その基準がわからなくなってしまっているのが、現代の社会です。
仏法は、その根本的な価値を教えている。それが、広宣流布に生きることです。
人を救い、人を幸福にしていく作業に励んでいくなかにこそ、人間としての最大の輝きがある。
なんのための人生かを見失えば、社会的に、どんなに成功したとしても、本当の充実も、幸福もない。これを忘れてはならない」
(第9巻「新時代」の章、73~75ページ)