〈随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 富士のごとく堂々と 2020年8月3日
はじめに、東北・山形の最上川の氾濫、また秋田の水害に、心よりお見舞い申し上げます。
この七月、記録的大雨により、熊本はじめ九州各地、また岐阜・長野などで甚大な豪雨災害が続きました。農林水産業の被害も深刻です。コロナ禍の中、大変な御苦労をされている皆様方の健康と無事安穏を祈り、被災地の一日も早い復旧・復興を願ってやみません。
御書に「災来るとも変じて幸と為らん」(九七九ページ)と仰せのごとく、断じて変毒為薬の勝利劇をと、題目を送り続けてまいります。
「二十一世紀が勝負」と私は心定めてきた。
創価の民衆の大地から二十一世紀の世界へ、どれだけ社会貢献の地涌の人材群を送り出せるか。
誰よりも若人を慈しまれた牧口・戸田両先生と不二の祈りを込めて、私は未来部の薫陶に全精魂を注いできた。広布の父母たちと一緒に耕してきた人間教育の土壌の上に、今、仰ぎ見る後継の大樹が林立している。みんな立派になった。本当によく育ってくれた。
何より頼もしいことは、「従藍而青」の人材が次の人材を育てる、「令法久住」の励ましの連鎖が、限りなく続いていることである。
とりわけ、私の心を心として献身してくれている、未来部担当者の方々に感謝は尽きない。
今の未来部の友は、まさに「二十一世紀人」だ。
高校三年生を先頭に、二〇〇二年以降の生まれであり、二十一世紀とともに青春の年輪を刻み、「人生百年時代」を飾りゆく世代である。
思えば、フランスの大文豪ビクトル・ユゴーは、一八〇二年生まれであり、十九世紀の先頭を進みゆく人生の誇りを、生涯、持ち続けた。
わが師・戸田城聖先生は一九〇〇年に誕生され、二十世紀の民衆の悲惨な命運を大転換するために戦い抜かれた。
そして、戸田先生より百年の歳月を経て、躍り出た二十一世紀の「平和の旗手」こそ、わが未来部の一人ひとりなのだ。
人類は今、コロナ禍という世界的な危機に直面している。大きな不安や制約や変化の中で、勉学に挑む高校・中学・小学生の皆さんの苦労もひとしおであろう。
しかし、若き日に大きな試練を乗り越えることは、それだけ自分が鍛えられ、大きな使命を果たしていける。偉大な価値を創造していけるのだ。
なかんずく、「冬は必ず春となる」(御書一二五三ページ)という希望の大哲理を抱いた青春は、何ものにも負けない。
日本はもとより、世界でも、未来部の友は、コロナ禍に屈せず、強く朗らかに前進している。
各国・各地で、直接会えなくても、オンラインを活用して、共に歌い、共に演奏し、共に語り、共に励まし合っている様子も伺った。
未来部は、一人ももれなく「法華経の命を継ぐ人」(同一一六九ページ)である。その伸びゆく命の輝きこそ、何ものにも勝る人類の宝であり、世界の希望なのである。
未来部の友と進む道は、風雨を越えて夢とロマンの虹が光る。
半世紀ほど前、静岡の研修所で、未来部の友と一緒に新しい道をつくった思い出がある。共に汗を流し、石拾いや草むしりに精を出した。「道をつくる」苦労と誇りを、実際に体験してもらいたかったのである。
私は語りかけた。
「道ができれば、みんながそこを歩けるようになる。ぼくは君たちのために、懸命に道を開いておくよ。君たちは、さらに、その先の、未来への道を開いていくんだよ。それが師弟の大道だ」
この時、「世界広布の道を開く人材に」と夢を広げた女子中等部の友は、その後、創価大学へ進学し、モスクワ大学への最初の交換留学生となった。祈り、学び、努力を重ね、ロシア語通訳・翻訳の第一人者として、両国の平和友好の道、後進の育成の道を開いてくれている。
このたびモスクワ大学出版会から最終巻が発刊されたロシア語版『法華経の智慧』(全六巻)の翻訳にも、世界各地の友と尽力してくれた。
創価の師弟が開く探究と創造の「この道」は、地球を包んでいくのだ。
この夏、未来部の友は「ドリームチャレンジ期間」と掲げて、成長の日々を刻んでいる。
お父さんやお母さん、担当者の方の応援を受けながら取り組む読書も、作文も、絵画も、語学も、まさしく「ドリーム(夢)」を見つけ、広げ、深めるチャンスとなる。楽しく伸び伸びと「チャレンジ(挑戦)」してもらいたい。
私が友情を結んだ世界の知性も、読書を通して、夢を広げてこられた。
核兵器廃絶に人生を捧げた、パグウォッシュ会議名誉会長のロートブラット博士が、少年時代の宝とされたのも、「読書の喜び」である。
ポーランド出身の博士の幼き日、第一次世界大戦が起こる。家は貧しく、二切れのパンが一日の食事という日もあった。そんな博士の楽しみは科学小説などの本を読むことであった。
「本当に悲しく、悲惨な時代であったからこそ、私は『夢』を求めていたのです」
若き博士は「科学を通して、人間が戦争をしなくてすむような世界をつくろう」と誓い、苦学の末、世界的な科学者になる夢を実現する。そして「核兵器のない平和な世界」という夢を、命の限り追求し続けたのだ。
広島、長崎、また沖縄の惨劇を二度と繰り返してはならない。人類の平和こそ我らの悲願である。
私が「後世に残せるような小説を書きたい」という夢を抱いたきっかけも読書であった。ユゴーの傑作『レ・ミゼラブル』との出あいである。
以来、幾十星霜を経て、小説『人間革命』『新・人間革命』を書き残すことができた。全て恩師から私への個人教授「戸田大学」での薫陶の賜物であり、多くの方々の応援のおかげである。
とともに、牧口先生、戸田先生から託された夢を、創価大学や創価学園の創立をはじめ、私は全て実現した。
次なる私の夢は何か。
世界中の未来部の皆さん一人ひとりが勇気の翼を広げ、自身の夢を実現してくれることだ。
私は、未来部の友の躍動する絵画を鑑賞するのが大好きである。
私自身は絵が得意ではないが、宝の未来部に思いを馳せながら、富士山を描いたことがある。
一九七九年(昭和五十四年)の五月五日――私が名誉会長になって最初に迎えた「創価学会後継者の日」である。「正義」「共戦」の一連の書を書き留める最中であった。
横浜の海を望む神奈川文化会館で、絵筆を屏風に走らせた。朝焼けの紅に包まれる富士である。手前の緑の丘には、満開の桜や枝を広げた松の木を配した。一本一本が伸びゆく人材なりと祈りを込めたのである。
四年後(一九八三年)の三月、大阪・枚方市の関西創価小学校を訪れた時のことだ。楽しい催しが終わり、皆が下校した静かな校舎内を視察した。
ある三年生の教室の黒板に、青のチョークで「この一年 元気にがんばりました」と書かれた文字が、目に留まった。その隣には、仲良く球技に興じる絵もあった。
この絵手紙への返事をと、私はチョークを手に取った。そして、黒板に向かうと、児童たちの健闘を讃えつつ、“いつか一緒に「王者の山」を登りゆこう”との願いを託して、大きな富士の絵を描いていった。
「あれになろう、これに成ろうと焦心るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ」(吉川英治作『宮本武蔵』講談社刊)
――師が愛弟子に語りかけたこの一節を、人びとの心が揺れ動く今だからこそ、私は「負けじ魂」燃ゆる友に贈りたい。
日蓮大聖人は、富士を仰ぐ天地で、大難と戦う若き弟子・南条時光に、「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」(御書一五七八ページ)と仰せになられた。
妙法を受持した最高に尊貴なる創価後継の友よ、富士のごとく、堂々と頭を上げて胸を張れ!
壮大な夢を描き、明朗闊達に挑戦しよう!
君たちが、二十一世紀の地球社会を、平和と幸福と共生の崩れざる宝土に築きゆくのだ。
不二の「正義の走者」の君たちよ、「生命の世紀」「人間革命の世紀」の大空に、凱歌の虹を鮮やかに懸けてくれ給え!
(随時、掲載いたします)
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