随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 行学錬磨の賢者たれ2022年9月29日
- 勝利の力は最高峰の哲学を学ぶ喜び
それは、聖教新聞を創刊して間もない、戸田先生の会長就任へ邁進する、ある夜であった。仕事を終えて、男子部の友の家に集まり、「開目抄」を拝読し合った思い出がある。皆、真剣であった。皆、希望に燃えて、未来を見つめていた。
その日の日記に、私は書き留めた。
「難解なれど、大聖人の御確信、胸に響く。乱世に、この貧しき家で、貧しき青年等が、大聖人の哲学を学びし姿、実に尊き哉」(一九五一年四月二十四日)
毀誉褒貶など眼中にも置かず、信ずる同志と「行学の二道」に励みゆく、この若き地涌の熱と力を、新出発の男子部が脈々と受け継いでくれている。「日蓮大聖人の民衆仏法」「人間のための宗教」の旗を高々と掲げ、意気軒昂に行進する若人が私の誇りであり、宝である。
「歴史の根底は人民の思想のうちにある」
フランスの歴史家・ミシュレは、高らかに宣言した。
民衆の一人ひとりが、いかなる思想を持ち、いかなる実践をするかで、私たちの住む世界は変わるのだ。
民衆の、民衆による、民衆のための思想の興隆こそ、まさしく創価教学である。この秋、学会伝統の「教学部任用試験(仏法入門)」が行われる。コロナ禍のゆえ、実に四年ぶりとなる。全国各地で、草の根の尊き研さんが重ねられている。
思えば、学会初の任用試験から、今年は七十年――。
『日蓮大聖人御書全集』が戸田城聖先生の発願で発刊された一九五二年(昭和二十七年)四月より八カ月後の師走に、満を持して実施されたのだ。
この年、私はまず、蒲田支部の同志と、朗らかに仏法の偉大さを学び語りながら、「二月闘争」で広布拡大の突破口を開いた。
御書発刊の波動の中、年頭に五千七百余世帯だった学会は、一年で総世帯数二万二千を超えて飛躍し、迎えた教学試験であった。
この試験の結果と意義を報ずる翌年の元日号の聖教新聞に、私は「世界最高の哲学を学ぶ喜び」と題して、一文を寄せた。
――生命を離れて宇宙はなく、生命を離れて社会も国家も世界もない。ゆえに生命哲学が個人並びに世界平和の本源である、と。
この最高峰の生命哲学を学ぶ喜びこそ、教学試験の合否を超えた眼目といってよい。ここに、自他共の人生の勝利への推進力も、社会の安穏への源泉もある。
七十星霜を経て、壮大な世界広布の広がりの中で、この喜びを、新たな求道の友と分かち合えるのは、何と嬉しいことだろうか! 人類が岐路に立つ今、「太陽の仏法」の生命哲学の大光を、さらに多くの世界市民の心に届けていきたい。
「四十歳まで……教学の完成と実践の完成」
三十歳を前に、私はこう心に期して、常に御書を繙いてきた。電車での移動の中でも、待ち合わせの合間にも。そして「法華経の兵法」を抱き締め、師弟不二の指揮を執った。今の青年部と同じ年代の時である。
御書を学ぶことは、大聖人の不屈の闘魂を滾らせ、民衆を断じて救わんとの大慈悲の心音を、わが生命に響かせゆく作業である。
御書を開けば、無限の勇気が湧き上がる。いかなる苦難に直面しても、絶対に活路を開いてみせるとの大情熱と智慧が漲る。
「私は、かりに地獄に堕ちても平気だよ。なぜならば、地獄の衆生を折伏して、寂光土に変えてみせるからだ」とは、戸田先生の不動の確信であった。
仏法は机上の空論ではない。現実に人びとの心を変え、生活を変え、社会を変えゆく実践の力である。
一九五六年(昭和三十一年)の「大阪の戦い」も、御書根本に徹した。一切の戦いの将軍学を御書に学ぶ以外に勝利はないからだ。
分厚い困難の壁にたじろぐ友と、「湿れる木より火を出だし、乾ける土より水を儲けんがごとく、強盛に申すなり」(新1539・全1132)を拝し、不可能を可能にする師子王の心を、共々に燃え上がらせた。
「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶うことなし」(新2054・全1463)を通して、心を合わせれば、必ず大願を成就できると訴えた。
あの「“まさか”が実現」の舞台裏にも、関西の同志と命に刻んだ御聖訓がたくさんあった。その日その日の戦いを、御書を通じて明確にし、一日を一週間にも十日にも、充実させるのだ――この御書根本の団結ありて、燦然と輝く金字塔は打ち立てられた。
今回、任用試験の出題範囲の御書三編は、私も若き日から同志と学んできた、思い出深い御文である。
例えば、「一生成仏抄」の「深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみが(磨)くとはいうなり」(新317・全384)との一節は六十五年前の九月、葛飾総ブロックの結成大会の折に友と拝読した。
――模範の組織をつくるには、どうしたらよいか。その一切の源泉は、この御文の通り、勤行・唱題にあると確認し、「全会員が、しっかり勤行できるようにしていこう」と挑戦した。三年後、葛飾は三総ブロックへと発展を遂げたのだ。
「我ならびに我が弟子、諸難ありとも疑う心なくば、自然に仏界にいたるべし」(新117・全234)
この「開目抄」の御金言は、一九六九年(昭和四十四年)の年末、障魔の烈風が吹きすさぶ中、病を押して訪れた三重県の松阪会館で、中部の宝友と深い決意を込めて心肝に染めた。
また、現在の勝利島部の同志をはじめ、各地の友と折々に拝してもきた。
先日(八月二十日)、聖教新聞で紹介された、茨城県つくば市の百三歳の母も、この一節をこよなく大切にされていた。
かつて座談会でお会いした時、御書を大事に抱えておられた。家計をやりくりして買われたようだ。私が「開目抄」の御文を引いて話す間、尊き母は、手元の御書へ、私の顔へと、目を行き来させながら、真剣に聞いてくださった。
この御文の余白に鉛筆で「弟子の決意」と書き、悔しい時も苦しい時も読み返しながら、地域に仏縁を結び、味方を一人また一人とつくってこられた金の足跡に、私は妻と合掌した。
日本中、世界中に光る、「自然に仏界」を勝ち開いた多宝の父母たちを、必ずや御本仏は「善き哉、善き哉」と御照覧くださっているに違いない。
「創価学会の使命は、まさに教学の振興にある」
この恩師の言葉の通り、人間主義の教学運動の奔流は、世界五大州を包む大河となった。
本年も各国で教学試験が行われている。既に実施された英国やドイツ、マレーシアのほか、韓国の教学部上級試験(六月)では、実に一万六千人の友が受験されたと伺った。
今月も、ニュージーランドやコロンビア、シンガポールで、“任用試験”が大成功裏に行われた。
振り返れば、海外の同志にとって初めて“任用試験”が行われたのは、約六十年前のことである。当時は論文審査であり、多くの意欲的な論文が寄せられた。
一九六三年から、米国やスイス、イタリア等の現地で教学試験が行われ、私も口頭試問などを担当した。
当時、北欧スウェーデンでは、日本からの派遣団が立ち寄り、教学試験が行われたが、受験者は女子部員一人だけであった。
しかし、その夜の座談会に出席した彼女の友人が、入会を決意している。彼女はやがてスカンディナビア半島の広布草創を奔走してくれたのである。
「一は万が母」(新578・全498)である。一人の受験者への激励が明日へ福智の門を開くのだ。
御書研さんの喜びは、アフリカにも大きく広がり、統一教学実力試験は三十カ国以上で開催されている。
最初は、点数がつくことに不安を覚えたというメンバーも、仏法を学ぶ中で誰かに感動を話したくなり、自然と友人を座談会などに誘うのが常だという。
こうした中、青年世代が仏法の法理に共鳴し、探究を深めて、社会へ展開する息吹に、世界の知性も大きな期待を寄せておられる。
フランス語版「御書」の総合監修をしてくださった、デニス・ジラ博士は、「真に世界に開かれた宗教には、その根本をなす精神性や伝統を受け継ぎ、堅持しゆく若き後継者の存在がある」と指摘し、創価の青年たちこそ「人類の未来である」との希望を語られている。
不安や不信、恐怖や憎悪に引き裂かれる時代にあって、生命の善性への絶対的な信頼に立ち、人間革命の方途を示す哲学ほど、望まれるものはあるまい。
私たちが朝な夕な読誦する「法華経」の自我偈には、「毎自作是念(つねに自らこの念を作す)」とある。
「御義口伝」では、この「念」の意義について、「一切衆生の仏性を念じたまいしなり」(新1069・全767)と仰せである。
我らの自行・化他の題目は、地球民族の仏性を信じ抜き、一人また一人と、勇敢に誠実に忍耐強く呼び覚ましていく音律なのだ。
わが教学部は、新たなるスローガンとして――
「御書根本」「師弟不二」「異体同心」の教学部
世界宗教の誉れ高く
創価教学の興隆を!
――と掲げた。
さあ、心も広々と、教学研さんの秋だ。
行学錬磨の賢者たちよ、今日も生命尊厳の大哲学に触れよう!
そして、学んだ喜びを、地域へ、社会へ、世界へ、勇んで語り広げよう!
ここから「平和」と「人道」の世紀を開く、大いなる熱と力が生まれゆくのだ。
(随時、掲載いたします)
ミシュレの言葉は「フランス革命史」『世界の名著37 ミシュレ』所収、桑原武夫・多田道太郎・樋口謹一共訳(中央公論社)。