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文化は人間性の勝利をもたらす力

2022年09月22日 | 妙法

第21回 「青年部の文化運動」 文化は人間性の勝利をもたらす力2022年9月22日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
青年部への指針
一、出発は今だ、と勇敢に立ち上がれ!
二、嵐を誉れとして正義を語れ!
三、不二の後継の勝利で未来を開け!
(「随筆 民衆凱歌の大行進」〈誓いの青年に贈る〉から)
米シカゴでの第1回「世界平和文化祭」の翌日、その再演が市庁舎前のデイリープラザで行われ、池田先生が出演者をたたえた(1981年6月29日、米シカゴで)
米シカゴでの第1回「世界平和文化祭」の翌日、その再演が市庁舎前のデイリープラザで行われ、池田先生が出演者をたたえた(1981年6月29日、米シカゴで)
学会を真似する時代

 池田先生が、青年部の室長時代、視察に訪れた催しがある。1958年(昭和33年)5月24日、東京・国立競技場で開催された「第3回アジア競技大会」だ。
 同競技大会は、4年に1度開かれるアジア最大のスポーツの祭典である。
 この日の日記には、こうつづられている。「第三回アジア大会を観にゆく。青年部幹部二、三人を連れて。将来の、学会青年部の体育祭、文化祭の参考にとも思い……」「絢爛たる、若人の熱と力と技」「来年は、必ず、青年部で開催してみたい」(『若き日の日記』)
 同行した幹部には、音楽隊の初代隊長などがいた。観戦すると、先生は語った。
 「やがて、何でも学会の真似をするような時代が来るよ」――それは、先生の強い確信と深い覚悟の言葉だった。
  
 学会の文化祭の淵源は、54年(同29年)11月7日、東京・世田谷の日大グラウンドで開催された「世紀の祭典」である。青年部主催による初めての体育大会で、企画したのは先生だった。
 当時の理事室は、当初、開催について賛同しなかった。同年5月6日、池田先生の提案によって音楽隊が発足するが、それまでの道のりにおいても、先輩幹部たちは理解を示さなかった。
 しかし、先生の決意は揺るがなかった。
 “優れた宗教があるところ、必ず偉大なる文化、芸術が生まれる。真の人間文化の創造は学会の使命である”
 音楽隊の発足や「世紀の祭典」の開催に、ただ一人理解を示してくれたのが戸田先生だった。恩師は、「将来のために意味があるだろうから、やりなさい」と愛弟子に言明した。
 ある懇談の際、池田先生は、青年部の文化運動の意義について述べたことがある。
 「青年は、信心、信心と口で叫んでいるだけでは行き詰まってしまう。学会は信心を根本にした幅広い文化活動が必要なのです。だから、私は戸田先生の許可をいただいて始めたんだよ」

【「若き日の日記」1958年(昭和33年)12月12日から】
若あゆのごとく、躍動する若人。
この人たちのため、自分は一生戦おう。
犠牲になってもよい。恩師がそうであった。
「行こう! ついていらっしゃい」――指揮杖を振る池田先生を先頭に、朗らかに行進する音楽隊(1958年3月16日、静岡で)
「行こう! ついていらっしゃい」――指揮杖を振る池田先生を先頭に、朗らかに行進する音楽隊(1958年3月16日、静岡で)
上手になったね

 池田先生の熱意によって実現した「世紀の祭典」は大成功を収めた。
 以後、「若人の祭典」と銘打たれた体育大会が各方面で開催され、華やかなダンスや人文字なども取り入れられていく。
 壮年や婦人も勇んで応援し、青年部の文化行事を通じて人材の拡大が図られる“創価の伝統”が築かれていった。
 「若人の祭典」は、“師弟の原点”を刻む歴史的な催しにもなった。1957年(昭和32年)9月8日、横浜・三ツ沢の陸上競技場で行われた同祭典で、戸田先生は「原水爆禁止宣言」を発表した。
 そうした中で、池田先生は、文化運動において大きな役割を担う「音楽隊」「鼓笛隊」の育成に力を注ぐ。
 54年5月6日に発足した音楽隊は、3日後の9日、初めて出動。雨の降りしきる中、全国から集った青年5千人の前で、演奏を披露した。その時、青年室長の先生は、自ら渾身の指揮を執った。
 音楽隊の楽器は、借り集めたものだった。先生は、“広布の楽雄”を一流に育て上げるため、楽器を工面した。さらに、音楽隊に対してこまやかなアドバイスを送り続け、演奏曲や演奏形態、服装などに創意工夫が重ねられていった。
 鼓笛隊は、33人の編成で56年(同31年)7月22日に結成された。先生は、“世界一の鼓笛隊に育て”との期待を込め、私財を投じてファイフとドラムを贈呈。翌57年10月に行われた鼓笛隊の第1回研修会で、「太陽のように明るく 月光のごとく清らかな鼓笛隊たれ」との指針を贈っている。「上手になったね」――先生は、練習会場を訪れては、“平和の天使”たちを励まし続けた。
 58年3月16日、「3・16」の広布後継の儀式の終了後のこと。戸田先生は、体が著しく衰弱する中にあって、車駕に乗って会場を後にした。
 池田先生は参加者を見送り、鼓笛隊、音楽隊がそれぞれ歓送の調べを奏でた。
 見送りを終えた愛弟子は、恩師に聞こえるよう、音楽隊に演奏を依頼する。そして、この時の「星落秋風五丈原」が、戸田先生の聴く最後の曲となった。
 翌59年(同34年)4月の戸田先生の一周忌法要で、音楽隊・鼓笛隊は同曲をはじめとした演奏を恩師の墓前でささげた。
 墓参の後、池田先生は語った。
 「音楽隊、鼓笛隊の音が響いているうちは、創価学会は大丈夫です」
 先生の手作りによって、音楽隊・鼓笛隊は、各種コンテストで輝かしい実績を残す、名実ともに“日本一”の文化の旗手へと発展を遂げている。本年は、東日本大震災復興支援のための、音楽隊による「希望の絆」コンサートが2年ぶりに生演奏で再開された。さらに、3年ぶりのパレード出演によって、各地に“友情のハーモニー”が広がっている。

池田先生の配慮でそろえられたファイフ。“世界一の鼓笛隊に”との師の願いは、今、現実のものに。世界各地で鼓笛隊が結成され、あの地この地で“創価の妙音”が響き渡る
池田先生の配慮でそろえられたファイフ。“世界一の鼓笛隊に”との師の願いは、今、現実のものに。世界各地で鼓笛隊が結成され、あの地この地で“創価の妙音”が響き渡る
「第三文明」の夜明け

 58年6月30日、総務に就任した池田先生は、学会の実質的な舵取りを担いながら、青年部の文化運動に次々と新たな灯をともしていった。
 58年10月6日には、150人の乙女で「女子部合唱団」(女性部「富士合唱団」の前身)を発足。前年8月、恩師から「青年部に合唱団をつくったらどうかね」と提案されていた。発足式に出席した先生は、信心を貫くよう望み、後に、「“富士のように気高く”そして、“広野の如く限りなく”広布の道を進みなさい」との指針を贈っている。
 59年は、夏に「若人の祭典」が初めて全国展開された。10月15日、先生の提案で、初の「全日本学生弁論大会」が東京・目黒で開催。11月23日には、東京・神田で第1回「学生祭」が行われた。
 宗門は、“「祭り」は他宗がしていることであり、そんな祭りをやる必要があるのか”と、浅はかな言いがかりをつけていた。学生たちを守り、宗門を説得したのは先生だった。
 そんな中で開かれた学生祭は、創作劇、日本舞踊、器楽演奏、記録映画「学会の歩み」の上映など、芸術色豊かな行事となった。先生は席上、「この催しこそ、色心不二の哲学を根底とした大文明、文芸復興の夜明けである」と宣言した。
 文化運動の潮流が広がる中、先生が訴えたのが「第三文明」の大構想である。
 27歳の日記でこうつづっている。
 「次の、深く、輝く文化は、必ずや、この大衆を土壌にしたところに、永遠の金字塔の文化が、樹立しゆくことだろう。ああ、第三文明」(『若き日の日記』、1955年11月12日)
 59年7月3日の男子部幹部会で、初めて「第三文明」について詳しく言及し、青年部に大きな期待を寄せた。
 「現代の民衆は、精神文明の世の中にも、物質文明の世の中にも、もの足りないと感じております。民衆の根底からの欲求は、物でも心でもありません。真実に渇仰しているのは、色心不二の生命哲学から出発した『第三文明』なのです」
 9日の女子部指導会では、「世界平和のために、最高の文化建設のために、『第三文明』という、色心不二の文化を創っていくのです」と強調した。
 その後、師がともした「第三文明」の理想の灯は、創価の青年たちの手によって世界へと広がっていく。国境を超えた若人の絆が輝く「世界平和文化祭」「世界青年平和文化祭」は、社会に大きな反響を呼ぶ一大イベントとなった。
 「音楽祭」「文化祭」「創価青年大会」等、時代に即した形で平和の潮流を拡大する青年部の文化運動。この下半期には、青年層を主役とする「SOKAユースフェスタ」が、各地で開催される。
 先生は述べている。
 「文化とは『文をもって化す』ことであり、人間の心を耕す作業といってよい。暴力や権力、金力といった人間を脅かす外からの力に抗して、人間性の勝利をもたらす力である」
 文化による創価の連帯は、分断の闇を照らす“希望の光源”となろう。

宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで開催された「世界青年平和大文化総会」(2000年2月5日、池田先生撮影)。フィナーレでは、先生も呼応して立ち上がり、参加者と一緒にカチャーシーを舞った。先生は「沖縄に光る大誠実の『人間性』と、恐れを知らぬ『勇気』こそが、二十一世紀の平和文明の決定力となりゆく」とつづる
宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで開催された「世界青年平和大文化総会」(2000年2月5日、池田先生撮影)。フィナーレでは、先生も呼応して立ち上がり、参加者と一緒にカチャーシーを舞った。先生は「沖縄に光る大誠実の『人間性』と、恐れを知らぬ『勇気』こそが、二十一世紀の平和文明の決定力となりゆく」とつづる
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