〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第24回 平和の旗を高く掲げて ②核兵器の廃絶〈上〉2022年9月25日
- 「魂の力」は原子爆弾よりも強い
65年前の1957年は、核兵器の廃絶へ向けて、大きな足跡が刻まれた年である。
この年の7月、カナダのパグウォッシュに、世界10カ国から22人の科学者が集まった。戦争と平和に関する諸問題を討議するためである。
「科学者の社会的責任」「核兵器の管理」「原子力の利用と危険」をテーマとした会議では連日、白熱した議論が交わされた。
22人の科学者には、アメリカやイギリスなど“西側”だけではなく、“東側”の人間もいた。冷戦による緊張関係から、会議は喧嘩別れに終わる懸念もあった。だが、見解の相違が感情的な対立に転化することはなかった。
最終日、科学者たちは「原水爆実験を中止すべきである」などの声明を発表し、会議は幕を閉じた。
会議は当初、1回限りの予定だったが、予想以上の成功を収めたこともあり、「パグウォッシュ会議」の名で、継続して行われることになった。
第1回の「パグウォッシュ会議」が開かれた57年の7月12日、戸田城聖先生は、ある雑誌の依頼に応じ、対談を行っている。その中で、こう述べた。
「原子爆弾だけは許せんぞ、おれは決めているのだよ。アメリカでも、ロシアでも、どっちであってもそういうことは断じて許さん」
同月3日、池田大作先生が無実の容疑で不当に逮捕・勾留された。新たな民衆勢力の台頭を恐れた、権力による弾圧――その迫害の嵐の中でさえ、恩師の胸中から核兵器のことが離れることはなかった。
対談から2カ月後の9月8日、戸田先生は青年への「遺訓の第一」として「原水爆禁止宣言」を発表した。
池田先生は、恩師の遺訓を実現するため、“東西の壁”を超えて、世界の識者と核兵器廃絶の具体的方途などについて語り合った。その一人が、「パグウォッシュ会議」の会長を務めたジョセフ・ロートブラット博士である。
「人間の道徳意識は、ひとたび戦争が始まってしまうと、かなぐり捨てられてしまうものです。そういう現実を、私は何度もこの目で見てきました」
こう語る博士に、池田先生は応じた。
「戦争の歯車がいったん動き始めると、それは暴走を始め、多くの尊い生命を飲み込んでいきます。
その凶暴さの前にあっては、冷静な判断や合理的な思考など、ひとたまりもない。だから私たちも、戦争そのものに絶対に反対するのです」
核兵器の廃絶を難しくしている理由の一つに、議論が「抽象的」になりがちなことが指摘される。核兵器の実態を知る機会がないことから、その脅威を想像できないのである。
昨年1月に発効された「核兵器禁止条約」は、被爆者の声が条約成立を後押しした。同条約の前文には、「ヒバクシャの受け入れ難い苦しみと被害に留意する」と明記されている。被爆者の声に学ぶことは、核兵器の恐ろしさを伝える大きな力である。
2018年3月、アメリカ創価大学(SUA)で、一人のヒバクシャの女性が講演した。
シゲコ・ササモリさん。13歳の時、広島で被爆。戦後、クリスチャンとなる。被爆から10年後、後遺症のケロイド治療のためアメリカに渡り、著名なジャーナリストであるノーマン・カズンズ氏の養女となった。
シゲコさんは世界各地で、自らの被爆体験を語り、核兵器の脅威を訴えてきた。彼女はSUAの学生に語った。
「戦争が始まってしまえば、みんな被害者。アメリカの兵士にも戦争の犠牲者がいる。だから、私はアメリカのことを恨んでいません」
一生の苦しみを背負わされた“敵国”を憎みはしない――。彼女の講演は、学生たちに大きな感動を与えた。
シゲコさんの養父であるカズンズ氏は、評論誌「サタデー・レビュー」の編集長だった。池田先生と3度にわたって語らい、対談集『世界市民の対話』を編んでいる。
広島に原爆が投下された12日後、氏は「サタデー・レビュー」に「現代人は時代遅れだ」との一文を掲載する。
「一九四五年八月六日をもって人間は新しい時代を迎えた」
氏が論じた「新しい時代」とは、核兵器の出現によって、国家が行う戦争が全人類を破滅させるものになった、ということ。こうした時代になったからこそ、「世界人としての人間」へ変わらなければならないと強調した。
誰よりも、氏自身が「世界人」として行動した。1949年、氏は広島を訪れる。原爆の傷痕が残る街を歩き、被爆者を取材した。帰国後、氏は核兵器廃絶の行動を開始する。
「サタデー・レビュー」で、原爆孤児を援助する“里親”を募り、400人を超す孤児を支援した。さらに、原爆でやけどを負った日本の女性25人の渡米治療も実現させる。
この行動に対して、“支援を受けられない人もいる。不公平ではないか”との批判もあった。氏は反論した。
「ただ一つの人生を有意義にする手伝いは、必ずしも万人の更生をもたらさないかも知れないが、しかしそれで十分に、社会のエネルギーの根本的な形を示している」
一人を救うことができずして、社会の変革も、核兵器廃絶もない――。それは、池田先生とも強く響き合う、氏の信念だった。
「ワンダフル!」――インド・ガンジー研究評議会議長のニーラカンタ・ラダクリシュナン博士が思わず感嘆の声を上げた。
1993年の夏、広島を訪問した博士は、被爆者の金光悦子さんと語らう時間を持った。博士は率直に尋ねた。
「原爆を投下したアメリカをどう思いますか?」
金光さんは答えた。
「憎んだ時期もありました。でも、人を、国を恨むことに心を費やすことが、どれほど惨めか。人生、何に生命を懸けるかが大切です。私は、すべての人の幸福のため、すべての国の平和のために生命を捧げます」
この言葉に、博士は感動したのである。懇談の後、博士は述べた。
「あのご婦人の心のなかに、不滅の力がある。あのご婦人の心の行く手に、世界の希望がある」
金光さんは14歳の時、爆心地から1・5キロの場所にあった女学校の校庭で被爆した。50人のクラスメートの中で、生き残ったのは4人。金光さんは上半身に大やけどを負った。
ある日、銭湯に行くと、「ほかの客が気味悪がるから来ないで」と平然と言われた。泣きながら家に帰り、母に怒りをぶつけた。母は優しく語った。
「だれが何と言おうと、お母さんは、おまえが一番素敵だと思ってるよ」。母の温かさに、また涙が流れた。
その後、金光さんは和裁を学び、着物を仕立てるように。59年、被爆者の秋次さんと結婚。2年後の61年に正恵さんが誕生した。
正恵さんが3歳になった頃から、金光さんは娘の異変に気付いた。正恵さんは、よくころんだ。医師に診てもらうと、重度の視力障害だった。
“原爆はどこまで私たちを苦しめるのか!”。自分の運命を恨んでいた時、地域の知人から信心の話を聞いた。
懸命に学会活動に励んだ。正恵さんの視力は治療が功を奏し、入会1年後には、主治医が驚くほど回復した。
金光さんは「動員学徒等犠牲者の会」の一員として、戦争で苦しんだ人の支援に奔走してきた。その母の心を継ぐ正恵さんも今、同会の一人である。
93年8月6日、小説『新・人間革命』の執筆が開始されたその日、ラダクリシュナン博士は池田先生と会談。それに先立ち、博士は周囲に語った。
「ガンジーは、いかなる暴力も否定しました。そして主張していました。『魂の力』は原子爆弾よりも強い、と。この、だれもがもつ『魂の力』を引き出し、平和を生み出していく――これこそ池田先生が進めておられる運動です」
【引用文献】ノーマン・カズンズ著『人間の選択』(松田銑訳、角川書店)、『ある編集者のオデッセイ』(松田銑訳、早川書房)
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