市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

教職のベクトル

2008-07-16 | 文化一般
 大分県教委の教員採用の不正が暴かれ、連日報道されつづけている。それが始まった直後に、宮崎日日新聞は、宮崎県教職採用に情実採用の不正はなしと、報じられていた。それを読んで、多くの県民はおかしいと思ったはずだ。そしてまた多くの県民が、宮崎県にはそんな不正はないと信じたと思う。緑と太陽の国とか、神話の国とか、わが郷土は特別と思い込む、思い込まされがちだからである。

 宮崎県だけ特別な太陽が、ふりそそぎ、緑濃く樹木が生育しているわけでないように、わが国の教委の構造と慣習が、宮崎県だけ、ここだけ特別であるはずは無いのである。当然、不正採用は生じたはずと、推測するのが、頭をはたらかせる人の意識であろうといわざるをえない。

 つい数日まえ、ある退官教授が、新聞に連載している自伝的回顧録の3日分を読んでみてと、手渡されたことがあった。ぼくはこの手のものはまったく読書の圏外なのだが、話のつぎほに速読してみて、おどろいた。今は名誉教授となった昭和30年代のかれの新卒時代、その宮崎県教育委員会時代の思い出の一節であったが、そこにあるのは、なんというか、教委や県庁にある村社会の生き生きした実態であった。血縁、学校の先輩・後輩、委員会、県庁の部局の上司と下部とのつながりが生活を彩っていたのである。正月、上司を慕って30人以上の同郷、同窓、同期などのつながりで、集まり、上司を仰ぐ酒宴のさまなどが、映画のシーンのようにぼくには映ったのであった。

 そこにあるのは、欧米の個人を中核にした近代的社会であるより「村社会」の風景である。論理より温情、上下の人間的つながりが人生をなしているのだ。そうした「暖かさ」の楽園で、親分が子分の面倒を見るのは当然であり、こどもをどうぞ
よろしくと頼まれ面倒をみてやるというのは、犯罪意識というより当然の義務として意識されてしまう慣習もあったのであろう。つまり近代化の超克はまだ終らず、
これは、文学、美術の主題としても日本人の文化をとらえつづける問題であろう。

 考えてみると、その親分的上司の心象は、すぐ想像がつく。何十倍の競争率で合格した40名余の合格者の何名かを落として、部下のこどもを押し込んだその報酬。
 
 報酬が、100万円!教員の一回分のボーナス程度で済むとは、安すぎる!!
私立の医大入学で押し込んでもらうだけで、何千万円とかかるのに比べて100万円で済むとは、これはわいろの範疇を逸脱している、そうではないだろうか。

 そして、100万円で人生を狂わされた若者たちがいる。これが温情主義の結果である。命がけで何千万円はらった両親のほうが、まだ許せるのでないだろうか。

 しかし、もはや後期高齢者にさしかかった、かれらの人生は、まさにあわれそのものであろう。なにがわが人生で残ったのか。まさに神はてんもうかいかいそにしてもらさずではないだろうか。そこでいいたい、教職員諸君、これから志望する、わかもの、その両親、兄弟姉妹、その当人よ、見事に教職の座をつかんだ日からベクトルを再考せよと。人生はもっと愉快に楽しくやろうじゃありませんかと、願うのである。



 
コメント (1)
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