まっさんは、中島みゆきの作詞・作曲を彼女が歌う主題歌で始まる。ぼくにはそれが軍歌に聞こえてならないのだ。毎朝軍歌とともに出勤しているようだ。生まれた国、育った国、美しい国でわたしたちは麦となるというのだから、お国のために世界市場に出せるウィスキーをつくるというようにしか解釈できない歌詞が、力んだ歌い方で流れてくる。これはドラマのまっさんにはそぐわない。
元気のない国から元気に溢れる国となって、みんな元気をだそうではないかというのだから、そういう意味では、この麦の歌なる主題歌は一致しているともいえる。
しかし、まっさんの主題は、エリーの助言・考え方・行為によって、まっさんは危機を乗り越え、乗り越えしながら、国産ウィスキーの製品化へと至りつつある。でそのスコットランドから日本へ来た嫁のエリーのかいがいしい嫁ぶり、夫への愛情、二人の夫婦愛が、家族愛として語られる。ここが、問題なのだ。たしかに愛情が描かれているのだが、まっさんがどん底に陥るたびに解決のヒントにきづき、立ちあがってこれたのは、エリーの愛情だけではなくてエリーの具体的な考えや意識、行為がまっさんの危機を乗り越えさせているのだ。
エリーはなにをまっさんにあたえることが可能だったのかを、注意してみると、それは愛情だけではないのだ。その根源にあるものは、危機にあって彼女自身をも動かしてくるのは、西欧の近代化が生み出した、市民的自由・独立である。その価値感が、困難を克服させる意識と行為をうみだしている。自由・独立の個人としての勇気、だれにでも通用する普遍的な合理性をまっさんに自覚させるのだ。つまり、ムラから都市へという近代化の道を、彼女は、いつも示しているのだ。愛情も日本人との付き合いも、無為意識に行為するこの近代化されたエリーの姿がきわだって美しい。
ドラマは大正時代の話だからというわけではなく、現在ただ今こそ、エリーの近代化は、視聴者の胸にせまってくるようだ。おそらく半分くらいの日本人は、現在でも会社と家族でしか世界はないのではないか。その全体のなかで安住しているばかり。個人であるまえに場の空気に調子をあわせるものをいわぬ人間、つまりものをかんがえられない人間なのではないか。会社も安定せず、
家族も崩壊してしまい、何を頼りにしていいかわからぬものは、ムラもなく、国家に頼る幻想に陥る。つまり全体主義の中に意識を溶かしていく。おそらくまっさんのドラマは、国の賞賛を狙ったのかもしれないが、不思議なことにエリーをリアルに描こうとして、遅れた日本の近代化の問題があぶりだされているのが面白い。
元気のない国から元気に溢れる国となって、みんな元気をだそうではないかというのだから、そういう意味では、この麦の歌なる主題歌は一致しているともいえる。
しかし、まっさんの主題は、エリーの助言・考え方・行為によって、まっさんは危機を乗り越え、乗り越えしながら、国産ウィスキーの製品化へと至りつつある。でそのスコットランドから日本へ来た嫁のエリーのかいがいしい嫁ぶり、夫への愛情、二人の夫婦愛が、家族愛として語られる。ここが、問題なのだ。たしかに愛情が描かれているのだが、まっさんがどん底に陥るたびに解決のヒントにきづき、立ちあがってこれたのは、エリーの愛情だけではなくてエリーの具体的な考えや意識、行為がまっさんの危機を乗り越えさせているのだ。
エリーはなにをまっさんにあたえることが可能だったのかを、注意してみると、それは愛情だけではないのだ。その根源にあるものは、危機にあって彼女自身をも動かしてくるのは、西欧の近代化が生み出した、市民的自由・独立である。その価値感が、困難を克服させる意識と行為をうみだしている。自由・独立の個人としての勇気、だれにでも通用する普遍的な合理性をまっさんに自覚させるのだ。つまり、ムラから都市へという近代化の道を、彼女は、いつも示しているのだ。愛情も日本人との付き合いも、無為意識に行為するこの近代化されたエリーの姿がきわだって美しい。
ドラマは大正時代の話だからというわけではなく、現在ただ今こそ、エリーの近代化は、視聴者の胸にせまってくるようだ。おそらく半分くらいの日本人は、現在でも会社と家族でしか世界はないのではないか。その全体のなかで安住しているばかり。個人であるまえに場の空気に調子をあわせるものをいわぬ人間、つまりものをかんがえられない人間なのではないか。会社も安定せず、
家族も崩壊してしまい、何を頼りにしていいかわからぬものは、ムラもなく、国家に頼る幻想に陥る。つまり全体主義の中に意識を溶かしていく。おそらくまっさんのドラマは、国の賞賛を狙ったのかもしれないが、不思議なことにエリーをリアルに描こうとして、遅れた日本の近代化の問題があぶりだされているのが面白い。
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