市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

崩壊市街 上野町=涙町 市場消滅

2005-10-17 | 崩壊宮崎市街
 戦前から5年前まで賑わって露天市場は消滅した。その末期の状態はどうだったのか、付近の何人かに聞いてみた。ただこの話は露天商でなく、商店・地区住民の側だけの話である。道路にじゅくじゅくと腐った果物・野菜の汁が流れ出てきているのに知らん顔だ。汚いから清潔にと言っても、注意してもダメだった。何か言えばもうけんか腰。見かねて隣の経営者が文句をいうと、強面の人だったので、やくざに頼んで脅迫するとかうわさをたてられたりでした。

 あの人たち(露天商)も自分たちで、争っていたね、隣のテントでこっちが見えない間の幕を取れとかね。夜は夜で釣堀営業だ、花・野菜とは別の遊び人間が出てきてね。これは昭和40年ごろ、ここにあった釣堀、射的場のことか。この遊戯場はまもなく終わった。夜通し、客の呼び込み、寝られはしなかった。テントを被せのゴミのような野菜の山。暗がりに売春の呼び込みが立つた。市役所の人がきて、清潔にせよと注意するともう喧嘩がはじまった。警察官にも猛然と反発する。。裁判で5年の立ち退き猶予が出たので、なんでも自分たちの主張が通るとますます態度がひどくなったのよね、でもなぜこれほど露天商側は強固な態度だったのか。こちらにも言い分があったろう。しかし、もうわからない。

 こうした中で一人の主婦が、あの露天市場は、今時、客と売り手が言葉を交わしながら売り買いできる楽しい場でもあった。あんなやりとりが、今、買い物するのにどこでやってますか。子供たちだってこういう場で、人との会話が大事な訓練ができるのに、お互い喧嘩でぶっ潰してしまいました。市役所の上の人たちにだれひとり、この両者を仲裁して、市場を残すことが出来なかったのでしょうかね・・・と。

 まさにぼくの感想もその通りだ。



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