市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

鍋(生活)と、じゃが芋(文化)

2008-08-19 | 街シーン
 鍋のなかの水にじゃが芋をほうりこんで、ひとりで水が沸きだすという、熱力学の反対が起きることはありえない。つまり、高千穂通りという生活の場を活気づける、ために生のじゃが芋(アート文化)を投げ込む装置という「T-ステージ」は、機能不能どころか、街のゴミと化している。生活の邪魔者である。なによりもデパート「カリーノ」の入り口の邪魔、そして、自転車駐車の妨害物となった。

 そこに一人の女性ガードが駐輪禁止と整理をやっている。実は、その女性と会話を交わすようになっていったのだ。ある日、ぼくはT-ステージに意図的に駐輪していた自転車の鍵が不明になったとき、彼女は自分のことのように心配して、探してくれたことが契機になった。あれから、ぼくは、彼女に協力して、そこに駐輪をしなくなった。だが、彼女がいない限り、駐輪は続行するつもりではある。こんな馬鹿げた歩道の占有は絶対に許せないからだ。

 それはそうとして、彼女の勤務であるが、宮崎市民の何人がその実態を知っているのだろうか。彼女は年のころは40歳前後の小顔のいい顔をしている。なぜこんな仕事についたのか、止むをえぬ生活の事情があるのだろうと思う。それほど、この仕事は、大変だと思われるのだ。彼女の勤務時間は、朝の10時からカリーノの終る午後10までという。この炎暑の路上で、朝の10時から夜の10時までである。ここのところの猛暑のため、一時間勤務で30分休憩という措置がとられだしたという。それにしてもだ、あなたやれますか。
 
 青い分厚い綿の長袖の制服シャツにネクタイ、制帽、白い手袋で、一日中、ここに自転車を止めないでくださいと、ていねいに同意を求めて、整理と監視を行なうのだ。どうかんがえても、彼女自身が、ここに自転車止めていいじゃんと意識してしまうのではないか。ぼくには、いつも止めてと優しかったが、ぼくは止めない。
止めないことに彼女への協力という意味をみいだしたからだ。しかし、彼女に意味はあるのだろうか。

 猛烈な日射、アスファルトの炎、ぼくは、猛暑のサイクリングでこの過酷さを体感しているので、その労働がよく理解できる。休憩時間は、デパートの部屋でというが、もちろんエアコンにはかからない。これをやると体調が狂うからだ。そして、午後7時半に日が沈み、やっと夜の10時に、長い一日が終る。

 この無為意味極まる駐輪整理という過酷な労働を強い、かつ税金の無駄遣をやるのがT-ステージの「結果」である。その発案者の文化意識が、どれほど冷えたじゃが芋であり、生のじゃが芋が水を沸かしだすという妄想であるかを、一日をはたらく一女性ガードは明らかにしている。これこそメッセージのある文化なのではないかと思う。

 彼女は、盆が終って、こんどは工事現場の安全整理に移動になると聞いた。これを聞いて、ほっとした。良かったですねというと、ええと笑ってうなづいてくれたが、彼女は内心はどうなのか、よくわからない。そして今やゴミというより、高千穂通りのかさぶた(Scab)と化したT-StageからT-Scabとなったものの撤去を望みたい、そうすること、それが文化発信ではないか。

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