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市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

チケットを売る 14 最後の聖戦 1

2009-12-09 | 宮崎市の文化
 
 来ないやつは来ないでいいと、粋がっていたが、現実は、甘くなかった。夢は見るうちだけは楽しいものだ。もっとも悪夢というのもあるが、夢は楽しい、願望の反映で、夢見ているときは実現している。いざ実現しよとして夢は、はじけて消える。だから夢のままで、現実を見たくなくなるのだ。まさに夢見る人だ。そうならないためには間にまず自分を変身させねばならない。

 計画では、9月23日の秋分の日までにテント芝居のチケット150枚程度を売り終え、全力を小春マイノリティオーケストラ上演に注ぐという計画であった。これまでの実績から、これは可能ともくろんでいた。しかし、4年前とは状況が大きく変わっていた。あのときの実行委員のほとんどは、今回は、暇なしで参加できなかった。残ったのは実行委員というより、テントが命のような三木ちゃんと梅崎さん、シノブちゃん、それと山崎さんだけであった。かれらは実行委員というより、熱烈なファンである。

 まさに夢見る人たちである。その夢を適える責任はすべてぼくに降りかかりだした。まさか、そうなるとは、思いもしてなかった。9月23日はあっという間にやってきた。その日になっても、ただの一枚もどくんごのチケットは売れていなかったのである。さらに気づいたのは、実行委員たちが乗った船は、泥舟であり、すでに大河のど真ん中に漕ぎ出していたのだ。おまけに目の先は激流が逆巻いて笑っていた。

 さすがに悲鳴を上げたくなった。友だちのある演奏者に、窮状を話すと、だって自分でしたことでしょうと、平然とほほえまれたのであった。笑ってるのか手めえ・・

  夢が覚めてみれば、どくんごはまだ一枚のチケットも売れていない。10月になり、4人とぼくは、狂ったように、いっせいにテント芝居のチケット売りに走り回ることになった。こうしてまた一ヶ月が経った10月23日、公演まで残す日は10日になった金曜日、最後の実行委員会の夜がきた。しかし、実行委員4名の売り上げ枚数は35枚でしかなかった。そしてもうこれ以上は不可能だというのであった。その言い分は、ぼくにはわかりすぎるほど分かるのだ。昼間を勤め、それほど演劇でのつながりが無いかれらに、これ以上は無理というのは、分かりすぎていた。実行委員会は幻想であったのだと、それははじけて消えた。かっての楽しい日々であった実行委員会の思いでも、すでに消滅していた。

 それからのチケット売りは、二十日鼠の比ゆで描いたとおりである。その狂ったような自動運動をつづけていると、思いもしなかったが、テント劇場の上演はだんだん現実化の様になってくると思えだしてきた。そして11月1日、寒風の吹き荒れる臨海公園の曇り空に、劇団を迎えるっことが出来たのであった。。

 泥舟ではあったが、夢をあきらめきれない5名の欲望で、岸にどうやら乗り上げられた.上演は、二日間ともにテント内は70名あまりの入りであったが、舞台はなぜか満席にも感じられた。真冬なみの寒風が吹きまくり、テントの内側にごうごうと音を立てて風が通過するようであった。劇は大興奮の盛り上がりを見せていった。

 小春上演は、もう正味でも一ヶ月しかない。裸の実行委員長が寒風の臨海公園に立って、舞台を凝然と見つめ続けていた。

 2公演を一挙にやるとは、なにかが間違っていたのか、思いは沈みつづけた。それは泥舟の最後のようであった。しかし、泥舟はわれわれを岸まで運んでくれのだ。この事実は否定できないではないかと、思うのであった。

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