市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

チケットを売る 15 最後の聖戦 2

2009-12-11 | 宮崎市の文化
 さて、私はどくんご終演あとの一週間、マイノリティオーケストラ公演をどう成功させるべきかと、思案しつづけた。宮崎市の極楽湯の露天風呂で夜空を見ながら、また午後のビルの谷間から降り注ぐ小雨を、屋上露天の浴槽でうけながら、ぼうぜんと自問しつづけた。そしてひらめいたアイデアは、チケットを売らないということだ、後、20日あまりでチケットを予定枚数売るという方程式を解こうとすること、このことが最大のストレスをもたらし、いかにしても解けないはずである。条件が満たされて無いからである。そういうことにエネルギーを消耗するより、ほかに向けようと・・・。

 そのとき気づかされたのは、今回は、それぞれに実行委員会があるではないかという事実であった。ジールは、カフェがイベント担当者がいて、定期的にライブをやってきている実績がある。そしてNPO法人精神障がい者自立支援ネットワーク宮崎もやいの会は、組織をもち、その代表が取りくんだ。また東宮花の森東集会所はそれまでぼくとやってきた実行委員会が残存、今回の上演に取り組んだ。そこで、ぼくは、集会所の実行委員会だけにチケットの売れ行きに注意を向け、その対策を適宜やっていく、カフェもジールにも、もやいの会にも上演実現はかれらにまかせて、意識をまわさない。これで、時間を節約できるばかりでなく、集中を持続できると、判断したのであった。

 それに私はなにをやっているのだろう、このことに意味があるのか、すでに小春をユーチューブで知って半年がながれていた。ほとんと、その直感のほかに実際のことは何も知らない。そのライブこそ、宮崎市の今に絶対に必要な提示だと確信していること、これを実際に証明してみせることであった。心身の疲労が取れない毎日がつづいていたが、この人口温泉の湯煙のなかで、気分が溶けていくなかで、おれにはもうこの確信に賭けるしかないと、自虐的にも爽快な欲望のみが、胎内に感じられてくるのだった。

 弱気を排除する。これがもう一つの方法論であった。大変ですねとか、がんばってねとか同情のことばより、「自分でやったことでしょう」と笑ったあの演奏者の一言こそ、逆に私のエネルギー源となってくるのを、あらためて感じるのであった。それと、こうしたゲームにも似たプロセスには、思うようにいかぬ困難や、予期しなかった不運もあるが、幸運もあるということだ。この幸運についてはこれまでもなんどとなく経験・体験してきたことで、このチャンス到来への確率は、数学的であり、確率は高い、その現実判断が私を落ち着かせてくれるのであった。

 11月は、例年になく天候が悪く、じとじとと雨の降る日がつついた。うっとうしい日は気分も沈みこむのだが、幸いなことには、方向がはっきりしたので、もはや気分の浮き沈みはま脱がれた。そこにすでに幸運の到来はあったのだと、今は思うのである。

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