今朝、朝食の料理にかかつたら、大根が切れているのを思い出した。早速、歩いて5分のスーパーイオンマックバリュー(暮らし館)に行った。大根はまた高値2倍になってきていて、上下半分に切ったものが、それぞれ98円であった。おろし大根には、上半分と下半分のどちらが美味いのか、どっちだったか、急に思いだしたが、どちらがどうとは記憶にない。そこで、レジの女性に聞いてみることにした。
「あのー大根は上と下では味が違いますよね?」
「ええ、下のとがった部分は一番辛いです。」
「上半分のほうが、すり大根(宮崎でのおろし大根)は上がいいでしょうか?」
「上のほうにいくほど、水気が多くて柔らかい味がしますから・・」
「そうか、じゃ上と替えてきますから」
と、大根の笊にとってかえした。それにしても彼女には、数ヶ月前も、ピーマンの袋を持っていって、これ少し古くないですかと聞いたことがあった。すると彼女は、手でポット押して、これダメですといい、残っていた3袋をすぐに笊から取り出して引っ込めてしまったことがあった。あれから、ぼくはピーマンの新鮮さを硬さでみることになった。
「でも、夏大根となると、どうしても渋みがでてきますよ」と、言い添えて大根をわたしながら、彼女はいい添えるのだった。
「あなたには数ヶ月前、ピーマンの古いのを教えてもらったことがありました。今回も精しく教えてもらったです。」
「精しくなんかないですよ・・」(笑い)
「農学かなんか学んだことがあるのですか?」彼女は大学を卒業したばかりに思えたので聞いてみた。
「いえ、お婆ちゃんが大根とピーマンを栽培しているので、しっているのですよ」
「ああ、それなら本物だ!」
どこのスーパーでもレジ係りの女性の前にはよく行列ができる。ぼくの見るかぎりで、レジの女性に声をかける客はほとんどない。まるで、目のまえにいて、会計をしている女性が、自動販売機のように感じるのか、始終無言のまま、顔もみずに黙って金銭のやり取りをして、立ち去る人はほとんである。どうもとか、ありがとうくらいは口にのぼらないのだろうか。もちろん、ぺらぺら、ぺらぺら話かけるのは、みっともないことではある。しかし、人間としての対面をしない、相手を機械とみることが可能になる感覚、そういうものが自然に出来てきているのではないかと思うのだ。
これは、レストランでのウエイトレスのサービスについてもたびたび観察してきた。たとえば、典型的なものでは、トンカツ定食などで、つぎつぎのトンカツに添える、タレ、ゴマのすり鉢、漬物、キャベツがテーブルに運ばれ、さらに味噌汁の赤味噌かしろ味噌の選択、白ご飯か麦ご飯の選択と、ウエイトレスはかなりのサービスを手際よく説明し、選択を聞きとっていくのだが、その間を、顔も上げず、下を向いたまま、ほとんどうなずきもせず、赤、麦などの単語をぶっきらぼうに言うだけ、最後まで、ほとんど無言で押し通し、彼女がありがとうございましたと立ち去るやいなや、連れの仲間や相手とわーっとしゃべり始める光景をなんども見てきている。これは年齢、性別にかかわらず、そういう無言の客もかなりひんぱんに目にしてきている。
黙っているのが、お上品とか、礼儀とかお客の威厳(立場)とかが、意識にあるのかとも思えるのだが、ぼくは、その態度はどうみても、思考停止の状態としか思えないのだ。だって、目の前にいるのは、自分にサービスしてくれる人間ではないかという判断を停止できるということは、思考停止、判断停止が、ごく自然にできないと、相手を黙殺しままでいることは、できないからである。
これをあえて、脳死状態ということで言うことにしよう。さて、本題は、だから、人には礼儀正しくとか、絆が大切とか、そんな道徳を言おうとしているのではないのだ。なぜ人間無視の感覚、意識が醸成されるのか、これが一番問題なのだ。実は、これはダイハートだけがあれば、世界は完璧という意識の醸成と関係があると思えるのだ。このことは、他のさまざまのわれわれの行動に観察できる。脳死の実例は日常生活のあちこちで観察される。これが問題なのである。ぼちぼち、折にふれてこれらを取り上げてみようと思う。
註:ダイハードは前々回のブログ「今年も連休ダイハード連想」を参照してほしい。
「あのー大根は上と下では味が違いますよね?」
「ええ、下のとがった部分は一番辛いです。」
「上半分のほうが、すり大根(宮崎でのおろし大根)は上がいいでしょうか?」
「上のほうにいくほど、水気が多くて柔らかい味がしますから・・」
「そうか、じゃ上と替えてきますから」
と、大根の笊にとってかえした。それにしても彼女には、数ヶ月前も、ピーマンの袋を持っていって、これ少し古くないですかと聞いたことがあった。すると彼女は、手でポット押して、これダメですといい、残っていた3袋をすぐに笊から取り出して引っ込めてしまったことがあった。あれから、ぼくはピーマンの新鮮さを硬さでみることになった。
「でも、夏大根となると、どうしても渋みがでてきますよ」と、言い添えて大根をわたしながら、彼女はいい添えるのだった。
「あなたには数ヶ月前、ピーマンの古いのを教えてもらったことがありました。今回も精しく教えてもらったです。」
「精しくなんかないですよ・・」(笑い)
「農学かなんか学んだことがあるのですか?」彼女は大学を卒業したばかりに思えたので聞いてみた。
「いえ、お婆ちゃんが大根とピーマンを栽培しているので、しっているのですよ」
「ああ、それなら本物だ!」
どこのスーパーでもレジ係りの女性の前にはよく行列ができる。ぼくの見るかぎりで、レジの女性に声をかける客はほとんどない。まるで、目のまえにいて、会計をしている女性が、自動販売機のように感じるのか、始終無言のまま、顔もみずに黙って金銭のやり取りをして、立ち去る人はほとんである。どうもとか、ありがとうくらいは口にのぼらないのだろうか。もちろん、ぺらぺら、ぺらぺら話かけるのは、みっともないことではある。しかし、人間としての対面をしない、相手を機械とみることが可能になる感覚、そういうものが自然に出来てきているのではないかと思うのだ。
これは、レストランでのウエイトレスのサービスについてもたびたび観察してきた。たとえば、典型的なものでは、トンカツ定食などで、つぎつぎのトンカツに添える、タレ、ゴマのすり鉢、漬物、キャベツがテーブルに運ばれ、さらに味噌汁の赤味噌かしろ味噌の選択、白ご飯か麦ご飯の選択と、ウエイトレスはかなりのサービスを手際よく説明し、選択を聞きとっていくのだが、その間を、顔も上げず、下を向いたまま、ほとんどうなずきもせず、赤、麦などの単語をぶっきらぼうに言うだけ、最後まで、ほとんど無言で押し通し、彼女がありがとうございましたと立ち去るやいなや、連れの仲間や相手とわーっとしゃべり始める光景をなんども見てきている。これは年齢、性別にかかわらず、そういう無言の客もかなりひんぱんに目にしてきている。
黙っているのが、お上品とか、礼儀とかお客の威厳(立場)とかが、意識にあるのかとも思えるのだが、ぼくは、その態度はどうみても、思考停止の状態としか思えないのだ。だって、目の前にいるのは、自分にサービスしてくれる人間ではないかという判断を停止できるということは、思考停止、判断停止が、ごく自然にできないと、相手を黙殺しままでいることは、できないからである。
これをあえて、脳死状態ということで言うことにしよう。さて、本題は、だから、人には礼儀正しくとか、絆が大切とか、そんな道徳を言おうとしているのではないのだ。なぜ人間無視の感覚、意識が醸成されるのか、これが一番問題なのだ。実は、これはダイハートだけがあれば、世界は完璧という意識の醸成と関係があると思えるのだ。このことは、他のさまざまのわれわれの行動に観察できる。脳死の実例は日常生活のあちこちで観察される。これが問題なのである。ぼちぼち、折にふれてこれらを取り上げてみようと思う。
註:ダイハードは前々回のブログ「今年も連休ダイハード連想」を参照してほしい。
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