市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

ビエント・デル・スール ライブを聴く 日高プロショップ・コンサート

2008-11-29 | アート・音楽
 11月8日〔2008〕日高プロショップ会場での昨年につづく諦鵬、金庸太、外山友紀子のタンゴトリオのライブを聴いた。その前から、ぼくにとって音楽を聴くとはなんだろうと、考えていた。そのスタンスがはっきりしないので、どうも、それは一時の快感であったとでも言うしかなかったのだ。映画なら面白い、美術ならハットさせられる、クラシック音楽ではなんだろう。

 それが、ロック(ROCK)でどうだろうかと思いついた。ロックは激しく揺する、打ち倒すという意味があるが、不思議なことにやさしく揺する、ゆり椅子(rocking chair)の両義性を持っている。このコンサートで、諦鵬が、激しい調子で癒すという編曲を頼まれて、どうも出来なかったというような話をしたときに、思いついたのだ。つまり、揺すって癒される、激しかろうと、優しかろうと、これが音楽にはあると、思えたのだ。

 ここ半年あまり丹念に60年代から現在までのロックバンドを、cdで聞いてきたのだが、最近のロックの多くが、美旋律も持つバンドほど聴衆を拡大しているようである、コールドブレイにしろ、アーケードファイア、REM,ボーズオブカナダと、旋律はバラードのように癒し系だ。とくにヘビメタのメタリカにいたっては、主題歌のナッシングス・エルス・マターなどは、ウィーン少年合唱団が、カバーしている。その美声と、ロック特有の危機感を盛り上げる展開との調和の美しさで、まさに全身をゆすぶられるのである。人は危機の底でこそ救いを与えられるのかと。

 そこで、今回、これまでのタンゴトリオから、ビエント・デル・スルー(南の風)と名前を変えたトリオは、微妙な立場に入ってきていると思えた。これまでは、タンゴ特有のエモーションで、激しく揺すってくる演奏が、静かな、旋律に変わってきたように思えたのだ。タンゴとか、ブラジル音楽とか、エスニックや民俗性よりも、どこか抽象化された旋律に変わってきた。旋律の繊細さが、これまでとは違ってきた。諦鵬も口数が極端に少なくなって、全体に緊張感が漂う。こうなると、ささいな三人のバランスの狂いも演奏をダメにしかねないのだ。そういう点では、タンゴの歴史が一番安定して豊かな深い調和感で、ぼくを癒してくれた。

 これまでのトリコン、2000年の外山友紀子の初めてのリサイタルから始まり、2003年の東宮花の森、2007年日高プロショップとつづいているスタイルは、タンゴから室内樂のような、優しく揺する、それはひじょうにソフィストケイテッドの高度な演奏に変わってきたと思えた。これはわざわざ困難な道程を選んだことになろうか。しかし、キャッチーな大げさな演奏をテレビでしてみせ、それを解説する司会者がばかげた賛辞を浴びせるのが主流になりつつあるなかで貴重な路線だろう。

 それと、もう一つは、こうなると、会場が大事だろう。今回のプロショップは、あの華麗な会場の運営をショップの運営でやり、会場の椅子のうえにプログラムをみな置いていた。なぜ受付でてわたさなかったのか。人手の節約だったのか。おかですこし遅れてきたぼくは、満席と勘違いして、後ろの隅の座席しか空き椅子を見つけられなかった。じつはどこもまだ空いていたのに、椅子の上にプログラムがあれば他人の席と思うではないか。

 これから、どこでビエント・デル・スルーのライブが公演されるとしても会場もまた演奏の要素であるという困難も抱え込むことになろう。きわめて、神経がすみずみまで行き届き、ごまかしの効かない演奏、派手さでなく地味さで、人を揺する演奏が、人を深く揺することになろうか。今回は70点の出来だったと思う。いつかた、かれらの高度の演奏を聴きたいを切に願っている。
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