市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

かぎりなく真実に近いというのはなんだろうか 2

2008-11-11 | 映画
 そうです、ノンフィクションの本も映画も現実そのものではない、いわば、その現実の解釈、あるいは加工品と、ぼくは思います。麦から出来た焼酎、焼酎から芋は、さわれない。そんな比喩、ちょっと甘いです。しかし、これでいきます。というのも、ぼくらは、世界の現実のほとんどすべてをテレビ映像か、活字でしかしってないわけ、現実は、直接に知ることはない。こんな世界と自分のあいまいな関係は、哲学的、文化的、社会学的なアカデミーで論じるしかないようですが、今は、もっと日常体験から直裁に語ってみようと、思うのです。

 映画のドキュメントは、焼酎の味なんですよね、加工以前の芋の味を論じることは不可能だといえませんかね。つまり現実そのものは関係ないと、これは恐るべきことです。これはたとえがまちがっているのかなと不安です。しかし、焼酎の味は吟味できます。つまり「闇の子供たち」の味を、味にかぎって知りうるのです。

 そこで、味として比べてみたいのは、他のドキュメント作品です。すぐに思いつくのは、マイケル・ムーア監督の「シッコ」です。アメリカ医療の現実を、ドキュメントフィルムや、ニュースフィルム,マンガ、写真などを繰り込みながら、その悲惨さを暴く、ノンフィクション映画です。しかし、その映画をすすめていくのは現実の悲惨そのものでなく、笑いです。

 そう、あの事故で指を失った大工のシーン、薬指なら1万2千ドル、人差し指なら4万ドル、どちらにするかね、で、保険証のないかれは薬指を切り落としてもらう。あまりの現実に笑うのをおさえられない。やがて、クライマックスは、9.11のテロで犠牲者の救助に当たり、その現場でのちに病気になった市民たちを連れてグアンタモナ収容所に押しかける。そここそ、アメリカ医療で、唯一の医療保険がいらぬ病院なのです、で、かれは9.11の救命に当たったこの愛国者たちを、アルカイダの収容者なみに治療を施してくれと叫ぶのです。爆笑でしたですね、このシーンでは。

 断られたら、そのままキューバに渡り、そこの無料の医療制度を利用して、治療を受けさせる。アメリカが敵国とみなし、社会主義のびんぼう国とみなしたキューバで最高の治療を無料でうけるという、ブラックユーモアで、アメリカ文明の矛盾を一挙に分からせてくれるのでした。

 悲惨さをドキュメントしながら、エンターテイメントになっているのです。マイケル・ムーアの現実をなんとしても変えたいという情熱が、この加工をし、その味を生み出し、ドキュメント映画史上の最高の興行収入を上げたといわれます。

 さて、このような例は、カルカッタの貧民屈を舞台にしたドミニク・ラビエールの小説「歓喜の街カルカッタ」があります。あれほどの悲惨の現実から、まさに人間のゆたかなドラマがつむぎだされています。これは1985年出版されるや、世界中から寄付金が著者のもとに送られ、インド政府そのものが、この貧民屈の改善計画に着手したといいます。ほかにもジョージ・オーエルの「パリー・ロンドンどん底生活」「ウィガン波止場への道」などの過酷労働のノンフクションなどを思い出しました。これらの作品に共通しているのは、明るさとエンターティメント性なんです。つまり大衆性なのです。それがなぜ可能だったのかは、論じるスペースがたりないのですが、要はこの明るさが味だということを言いたいのです。人はそれで勇気と開放感をあたえれる、それが改革の火種となるかもです。

 どうも日本のこの手の映画は、暗い、うっとうしい、閉鎖的だといえませんか。
だから観客動員ができない。それは、味が悪いといわれず、中味が濃い、高すぎて
大衆には不向き、これは芸術だと、新聞・テレビは喝采を浴びせる、こんな芸術賛美の19世紀のロマン主義、あるいは70年代のル・サンチマンの閉塞性が現実をじつは遠ざけてしまっていると、いえないかと思うのです。
コメント (4)
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