今週の木曜だったか「グロースアップ現代」で、村上隆の芸術活動が放映された。視聴してみたが、やはり、かれの作品「マイ・ロンサム・カウボーイ」の海洋堂に依頼して生まれたフィギャアが16億円の価格で売れたというニュース性を、どれほども越えてないない内容でしかなかった。その視聴のあとに、ぼくはまるで食えないものを食ったような消化不良状態が残っているしまつである。
なにより作品映像を期待していたのに、作品の芸術性を明かすというのではなくマンガかアニメの断片にしかみえないように捉えられていた。それらの作品が高額で欧米の収集家を捉え、しかも、カイカイキキという村上工場で、製作をつづけられている。しかし、今はアメリカ発の金融崩壊で、絵画バルブも終った。村上よどうするという内容にしか受け取られなかったのだ。
なぜ、村上作品が、現代に評価されるようになったのか、かれの作品製作が、ファクトリの生産工程でおこなわれ、出来た作品は商品としてうられていく。そこに芸術家としての存在はどうなっているのか。そうした作品のオリジナリティとはなんのなのか、これらを90年代以降の文化状況の変化をとらえながら明らかにしていかねばならないのに、そんな発想などかんじられもしなかった。
彼は、そんな番組のながれのなかでも、日本現代アートの本質にかかわる発言を断片的の言っているのだが、番組プロデューサをそれに気づかずあるいは無視して進めていっている。かれは最高の技術を作品製作に注ぎ込む、そのための構成、素描、色彩、データーベースとなった作成マニュアルを用いて、それぞれの専門スタッフの技術を結集し、完成に至るのだが、何十回もやっていくとき、まさに突然のように、完成品があらわれる、このためにぼくはつづけるといっている。この重要な内容が素通りされているのだ。
結局、最後には、時代の文化状況も現代日本美術の現状も、その作品への理解も
なく、毛沢東のいったという「芸術家は貧乏で、名声も知らず求めず、ひたすら創造を求める」という発言をかれに提出して、かれに回答を促すという、愚問でおわるということになってしまっている。
村上は、よくもそんな番組に登場したものだと、おどろくのだが、しかし、かれはべつに怒ってもなく、弁解もせず、ひたすら自分の芸術活動を誤解されるままを容認して、登場をつづけていた。それが、かれの意外と素朴なひたむきな一面を見せてくれようで新鮮であった。
それと、90年代半ばから世界的な関心を引き始めた現代日本美術の作家は、村上隆だけでなく、かれもまた地上に噴出しながれだした無数の水流の一筋だという
ことを、美術史でも美術評論でもちょっと覗いて見れば、本屋の立ち読みでもわかるのを、しっておくべきだろう。テレビはそこだけが全体として、視聴者を錯覚させる伝達の傲慢性を生み出すということを、おたがい自覚したいものである。
なにより作品映像を期待していたのに、作品の芸術性を明かすというのではなくマンガかアニメの断片にしかみえないように捉えられていた。それらの作品が高額で欧米の収集家を捉え、しかも、カイカイキキという村上工場で、製作をつづけられている。しかし、今はアメリカ発の金融崩壊で、絵画バルブも終った。村上よどうするという内容にしか受け取られなかったのだ。
なぜ、村上作品が、現代に評価されるようになったのか、かれの作品製作が、ファクトリの生産工程でおこなわれ、出来た作品は商品としてうられていく。そこに芸術家としての存在はどうなっているのか。そうした作品のオリジナリティとはなんのなのか、これらを90年代以降の文化状況の変化をとらえながら明らかにしていかねばならないのに、そんな発想などかんじられもしなかった。
彼は、そんな番組のながれのなかでも、日本現代アートの本質にかかわる発言を断片的の言っているのだが、番組プロデューサをそれに気づかずあるいは無視して進めていっている。かれは最高の技術を作品製作に注ぎ込む、そのための構成、素描、色彩、データーベースとなった作成マニュアルを用いて、それぞれの専門スタッフの技術を結集し、完成に至るのだが、何十回もやっていくとき、まさに突然のように、完成品があらわれる、このためにぼくはつづけるといっている。この重要な内容が素通りされているのだ。
結局、最後には、時代の文化状況も現代日本美術の現状も、その作品への理解も
なく、毛沢東のいったという「芸術家は貧乏で、名声も知らず求めず、ひたすら創造を求める」という発言をかれに提出して、かれに回答を促すという、愚問でおわるということになってしまっている。
村上は、よくもそんな番組に登場したものだと、おどろくのだが、しかし、かれはべつに怒ってもなく、弁解もせず、ひたすら自分の芸術活動を誤解されるままを容認して、登場をつづけていた。それが、かれの意外と素朴なひたむきな一面を見せてくれようで新鮮であった。
それと、90年代半ばから世界的な関心を引き始めた現代日本美術の作家は、村上隆だけでなく、かれもまた地上に噴出しながれだした無数の水流の一筋だという
ことを、美術史でも美術評論でもちょっと覗いて見れば、本屋の立ち読みでもわかるのを、しっておくべきだろう。テレビはそこだけが全体として、視聴者を錯覚させる伝達の傲慢性を生み出すということを、おたがい自覚したいものである。