市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

コメントにつき 批評性とはなにか

2008-11-05 | 文化一般
 コメントが、投稿できなくなっています。どうなったのでしょうか。いろいろ説明をみてみても、わかりません。コメントをいただいた方は、わたしの再コメントが、かくしえできていないことをご了解し、おゆるしください。

 前回、mkさんのコメントにより、村上作品のぼくなりの反応を、投稿しましたところ、再コメントで、あのマイロンサムボーイのフィギュアを、県立美術館の展示室に、平原孝明系のパンツをはいた女性彫刻で取り囲み、設置したらというアイデアに爆笑されたとコメントをいただき、おおいに、ぼくも笑いました。われわれの、あの文化公園、県立芸術劇場、県立図書館、県立美術館の庭のあちこちに立てられた宮崎偉人の銅像彫刻、これは前宮崎県の松形知事の強烈な提案によるものでしたが、これらを見ると、足腰が萎えてしまうのです、ぼくは。笑える村上作品のほうが、ぼくを元気付けてくれるし、今という現実を、偉人銅像よりも自覚させてくれる批評性をもっているからです。

 さて、こんなことをいうので、バチがあたったか、月曜日、自宅の駐車場で、親類一家の車を見送ろうとして、左足首から、ねじりながら倒れました、激痛で、起きられず、息もできぬので、話もできず、一同なにが生じのか、唖然として、そちらも黙ったままでした。何しろ、倒れる理由が理解できないためでした。

 後でみると、駐車場に向けて、カーブして坂になっているのです。そこで転げるなどは、常識ではかんがえれれないのです。この同じことがちょうど一年前バンコクのナイトマーケットで、石のでこぼこ階段を降りるときに起こったのです。

 翌朝は、チップの散歩、出勤しては、部屋にあづかる「子鉄」の二匹の犬の散歩も不可能かなと、気分も落ち込んでいきます。すると、家内が言いました。自分のまわりについて、まったく不注意なんだから、自分のことしかかんがえず、ひとつのことしかみえなくなる、そういう自分本位が、こんな結果を招くのよと、ぱしばしとたたくのでした。そういうもんかなあと、思うもののちょっと違うよと。

 ただ、じっとしている分は、痛みはないのです。となると骨は折れてない、ならたいしたことはないな、明日はなおるだろうと、寝ました。しかし、朝はかなりきびしくチップの散歩は不可能、家内が散歩にでかけ、僕は朝飯をつくりました。

 そして、予想したように午前9時、子鉄をあづかるころには、ふたたび散歩させられる具合に足首は治ってきました。するとおりしもしぇ・こぱんの青木さんが買い物の途中で、小鉄をかわいがりに立ち寄りました。彼女はかっては陸上やバスケットとスポーツ万能で、今はぼくのすすめたエアロビにはまり、あっというまに上達し、かつ楽しんでいます。その彼女に足首のことをはなしてみました。

 すると、彼女も左側に何度も倒れたというのでした。それは、最初の転倒で、靭帯がのびたため、ちょっとしたことで体重がささえられずにころびやすくなるんだと、骨折ならつながるけど、のびた靭帯はもう、もとに戻らないと、医者に注意されましと、懇切にその経験をはなしてくれました。それでわかった、なぜ、おこりえざるところで、倒れるようになったのか。注意しなくても、肉体反応は、そのくらいのところでは、転倒しないのだと。これは救いでしたね。痛みが急速に治まるのも理解できました。これからは、まわりを、肉体反応だけでなく、視覚でも注意すべき、墓所もあるでしょうね。

 家内のコメントも青木さんのコメントもそれぞれ有効ではあったと、今は思うしだいであります。しかし、できれば、自分本位でなく、状況の理解を科学的に判断してのコメントが、じつは人を立ち上がらせるとは、いえるかもしれないですけどね。
 






コメント (3)
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