市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

かぎりなく真実に近いというのはなんだろうか 

2008-11-09 | 映画
mkさんのブログ「365日映画を吸う」の{[映画][ホン] 闇の子供たち }を読んで、本や映画のかぎりなく真実に近いとはなんなのかを、またかんがえさせられたので、のべてみます。
 
 そう思ったのも、ノンフィクションともかんじられるほど、真実に近いという触れ込みのタイ児童売春の現実を、梁石日(ヤン・ソギル)著「闇の子供たち」これを映画化した阪本順治監督の「闇の子供たち」の感想をmkさんが述べているのだが、なるほどとぼくも読んだような観たような思いをもったのです。そして、こんな小説や映画を読みたくもない、見たくも無いとしりごみしてしまったのです。

 貧困のため売られた10歳前後の子供たちが、マファイの経営する売春宿で、児童を性欲の対象にする性的変質者の客たちに供される、これだけでもへどが出そうな、そして性的虐待のシーンも迫真的にあばかれているというのだから、たまらない。mkさんのブログも気分の悪さとやりきれなさのヘビーな感情が、うかがえるのです。あなたのブログのタイトル365日映画を吸うで、なにを吸わされたかと思うと、ひごろの日本映画への疑問がわいてきだしたのです。

 制作では、阪本監督は、俳優たちに児童買春の現実を可能な限り真実性にちかづけるために現実の理解を深め、出演するタイの子供、その両親役にも真実への理解をなんどもなっとくのいくまで説明して、演技の迫真性と引き出したという。

 だったら、てまひまかけずに売春そのものをドキュメンタリーにしたらいいのではなかったかと、言えるわけでしょう。それは危険で不可能だったようです。だから真実の演技で真実を再現したという、かぎりなくノンフィクションに近いフィクションになったといいます。このようなことで、おおくの人がドキュメンタリ映画と思っていたふしもあるわけです。

 問題はここからですが、映画「闇の子供たち」は、フィクションであれ、ドキュメントであれ、児童買春というタイの現実そのものでは、ありえない、全く別物にすぎないということです。俳優の演技であれ、虐待される児童そのものを撮影したとしても絶対、本人そのものではない、フィルム上の映像、またはハードディスクの数値のファイルにすぎません。では、それはなんなのだろうかという、ことです。ぼくが、ひっかかったのはこのところなんです。

 現実そのものでもないなら、あなたは、なぜそれまでに落ち込んでしまうのでしょうか。なんでわらわないのですか。どうして、そうなんですか。

 それは、うっとうしい映画でしかないのではないですか、こういっても、いいのではないのでしょうか。

 このヘヴィな吐き気を催すほどの児童買春の現実を向き合うかぎりなく真実に近いとする映画は、フィクションであれ、ノンフィクションであれなにをなしえたのでしょうか。以下つづけます。今は長すぎたので、ここでいったん区切ります。 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする