市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

第11回宮崎映画祭とうっとうしい映画

2005-07-13 | Weblog
 塩田明彦監督「カナリア」は、テロを犯したカルト教団から施設に保護された12歳の少年が、家族をとりもどすために、施設を脱走、妹だけを連れ帰った祖父の住む東京を目指すというストーリである。途中、これも家族崩壊で放り出された12歳の少女も同行しはじめて、旅がつづく。テロのオカルト教団は10年前のオーム事件だが、それと少年をむすびつけて、いったい何を言おうとしたのか、最後まではっきりしない。ただ、教団に母を、祖父に妹を奪われた少年の鬱屈した思い(これは監督のもの)だけが、描かれるというしんどい映画である。                       

いたるところに、ご都合主義の筋運びがある。少女と男の車を追いかける少年は、手に金属バットをにぎって、追ってくる。いつバットを見つけたんだ、しかも数キロも走って、交差点で車の屋根に飛び乗る。スーパーマンかお前は。少年の行動には何の計画性もないのだが、東京では元幹部に出会える。それに古女房のような12歳の少女に日常をたすけられる。この女性観もおかしい。そしてご都合の筋にのって、ついに妹を取り戻すというえんえん2時間14分の映画であった。日本映画の閉塞感のみが重く伝わった。しかし、こんなマスターベーションは、そっとほっとけばいいのである。監督の濡れた石を、映画祭で、こっちがなぜかかえねばならんのだ。

 鈴木清順の「オペレッタ狸御殿」を恵風のひろこさんは、清順は嫌いと一言ではねつけた。会場のオルブライトホールは年寄りが多かった。しかし往年の狸御殿とは似て似つかぬ、まるで特殊浴場の街か、地方に出現してきた奇怪なアトラクションの施設をぐるぐる引き回されたようであった。本人は新機軸のつもりだろうが、昔の講談社絵本、岩見重太郎とか、源義経、狸合戦とかの武者絵を、何枚も何枚も見せられつづけられただけだった。

 新機軸は、70年代のアングラ演劇のシーン、その後は小劇場運動で周知となったミュージカル形式によっている。しかし清順が当時それに関心をそそいていたとは思えない。それらも今は古くなったカステーラだ。今頃になって、そのしなびた皮やスポンジをよせあつめて、菓子を作るという行為は空恐ろしい。

 ある意味ではこれが現代日本かもしれない。安土桃山から平安時代、近現代まで勝手きままに引き出し、自分のあたまにあるイメージの西洋、東洋、そして日本まで組み合わせ、風土も伝承もなんの関係も無い文化、こここそが日本知識人、芸術家の旅路の終着点かもしれないぞ~怖いいい・・・こんなものを映画祭でやるとは、うっとうしいぞ。あんたらの趣味なんか。
コメント
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