市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

テレビ見ない読書しない

2012-06-30 | 生き方
 6月が終わる。雨か曇天の日々、晴の日は、この地では6月22日台風4号の過ぎた翌日の昼間だけであった。今年こそは、ここ何十年ぶりの梅雨らしい梅雨だった。これは記憶に残るに違いない。この期にぼくは、前から考えていたことを実行している。それはテレビを見ない、読書をしないという実践である。もちろん、一晩にテレビを一番組、読書を100ページ余り(50分)は許している。これを実行しながら今更ながらにわかるのは、夜、この二つなしには、過ごしようがないほど夜は長いということである。

 通常、ぼくは自宅に帰り着くのは午後5時15分前後である。そして就寝が午後11時前後である。こうして、夜がぼっかりと空くのだ。夕飯は午後7時ごろ、その間にチップの散歩があり、夕食の準備を手伝ったり、掃除したりと時は流れていく。夕飯はいつも人間らしい食べ物にありつける。ラスベガスやワイキキのレストランのジャンクフードのような馬の餌さのようなものではないのが、いつもありがたい。その夕食を終わって、NHKの番組でも見るかというのが、消えてしまった。午後8時までの時間が長いが、やっと午後8じなると、外の暗さと同じくらい暗がりの時間が開く。ここで、読書という没入できるものがないのだ。そして、なにもすることなく、午後9時までの長いこと、ようやく午後9時のテレビニュースや映画やドラマやその他のテレビ番組となるのだが、これはないのだ。そして、ここにも深い穴が、ぼかりと開くのだ。

 午後10時ようやくテレビのニュースを見る。この時間までに夕食後に3時間余りの時間を埋めねばならない。これまでは、読書さへしていれば、どんな環境であろうと、何時間であろうと、時間をつぶそうとかいう意識さへなく、充実したつまり自分なりの時間を生きて楽しめたのだが、それはないのだ。こうして、ぼくは初めてのように痛感させられているのは、テレビと読書なしに生きている充実感がないほど、これに依存して生活してきたのだということである。

 で、今やっていることはどういうことかということである。ますは、なにもせずにぼーっとソファに座り込むか、籐椅子をやや傾けてリラックスするかでは、冬眠への誘惑を感じ出すので、これを避けるために室内運動を持ってきた。ストレッチ、腕立て伏せ、腹筋などを加える。かなりやったつもりが、時間はたった15分過ぎたばかりだ。なんとか30分を目標にしているが、どうなることやら。ただ15分くらいはやれだしている。この後、外での運動でサイクリングすることにした。これは、読書と同じ、あるいはテレビ視聴に勝る快適さで、快哉を上げることが出来たのだが、妻が猛烈にこの自転車走行を非難しだしたのだ。

「馬鹿じゃないの、雨の降る夜道を一時間も走っているのが、いいとでも考えるのでしょうが。はた迷惑も大変だわ」
「なんではた迷惑かよ」
「暗がりでの自転車がどれだけ運転者にとって迷惑か、あんたもわかるでしょうが」
「歩道とか、邪魔にならぬように走ってるが」
「邪魔になるのよ、道路を走ってるのが」
「こっちは何十年もサイクリングしているんだ、事故など起こしたことはないぞ」
「これで、事故になって、新聞にものって、夜に爺さんが自転車で事故に遭ったと名前も出たら、こどもたちも大恥を書くでしょうが」
「事故、そんなもんがあるか!!」
「あんたはどうかしてる、ボケがはじまっているのかしらね、止めなさい、雨の夜にサイクリングするなら、部屋の掃除、片付け、食事の後片付け、書棚や書類の整理、本の廃棄処分、なんぼでもすることはあるじゃないのっ!」
「ふざけるな、家ン帰ってまで勤めするか」という口論をかわしたわけである。

 この口論の根底をなしているのは、人生を遊びで過ごすか、実用で過ごすかの優劣を問うという価値観の対立であるようだ。ぼくは、基本的には、人はこの下らぬ社会に生きる限り、遊べる時間をそれなりに最大限に確保しなければならないとする。先日ひさしぶりにあった三木ちゃんは、またもや残業、残業の日々に追い込まれていた、彼女の音楽や芝居に対する感性を生かす時間が、学校事務に収奪されつづけているのだ。帰宅が毎晩、土曜もなしに午後10時ごろというのだ、それもこの残業の減ることは、見えないというのだ。現在の正社員にもどこにもありうる話だ。なんという卑劣な労働制度の現実であろうか。まさにヒトゴロシである。なんとか、彼女に言ったことは、まずは同僚と話し合って、一時間だけ残業を減らす事務処理の合理化実現するように、それを実現して次のステップに移行することと言うしかなかったのだ。と、彼女もそれをかんがえだしたところと、話に乗ってくれたのだ。いかに自分の人生に自分の遊び時間をぶち込んで確保するかが、あらゆる人がそうすることをと、これが、ぼくの念願である。

 本当の遊びの種類や方法を広げるために、テレビと読書の習慣を排除して、それに劣らぬ方法をもさらに確立できないかと、探しているともいえる。テレビと読書なしにも遊べる、充実できる手段は、あるはずと探しているわけである。今年の秋まで、このような夜を過ごしてみようと思う。まだまだ夜は長いが、残業に駆り立てられる人に比べたら、この遊びもまた快楽にすぎない。しかし、何かが見えるかもと思う。

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