市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

2011GWを終わる リセット人生スタート

2011-05-07 | 生き方
 今年のGWは、3.11の東日本大震災と福島原発災禍を背後に感じての毎日であったが、そのためか、今年のGDは異常な天候であったという意識をほとんど自覚できなかったのではないか。小雨か曇りの連日というゴールデン・ウィークは、まさに異例であった。童話によくあるように豊作が7年つづいたあとに飢饉が7年つづきましたと、あれは言葉のあやではなくて、恐るべき自然の現実をあらわしているのだと思う。何年も異変はつづくようである。

 29日「昭和の日」には、霧島の旧林田温泉ホテルに泊まった。あの人気の絶えた露店風呂で、過ぎ去った70年代のわが一家を、つまり昭和に生きた活気あふれたファミリーライフを回想したのだが、3日、4日とふたたび、鹿児島県出水市(鶴の飛来地として有名)の義妹夫婦の家を訪れた。自動車で訪れるのも12,3年ぶりであった。あっという間に時間が流れ去っていたのだ。興味があったので、近道と聞いたルートを選び、有料道路を栗野でなくて、一つ先の横川で降りて、近道と聞いたルートを辿りだした。しかし、途中でルートから逸れてしまって、山中に紛れ込んでしまった。ただ、この道は何十年も前に峠を越して行く出水への道であったことを、切れ切れに思い出すことはできた。しかし、それにしてもあまりにもお粗末な舗装、そして道路はついに2車線から自動車一台がやっと走れる山道に変わってしまった。迫る山肌、切り立つ崖ぶちを曲がりくねって連なる自動車道などが、現在、存在していること事態がおかしなことに感じられるのであった。以前はこんな道路は、どこにも当たり前として存在していたのを、すっかり忘却してしまったいるのを自覚できるのであった。感覚は、いつまのまにか、このような不便な道路の存在を受け付けなくなってしまっていたのだ。つまり変えられてしまっていたのだ。

 今回、義妹夫婦には、人生のリセットをいうことを話題にしようと思っていた矢先の山道を走ったことは、生きるというライフスタイルが、自分で意識しないまま、いかに激しく変容させられるかを、まざまざと自覚させられたのであった。だったら知らぬ間に、変えられるよりも自分で変えることこそ、生きるに値するのではないかと思うのであった。

 3.11以後、被災者とともにぼくらの生活も変わっていくはずだ。いや変わらなければ、この災禍は真に解決できない。それ以前の生活を以前のまま復活させることも不可能であるが、その再現は豊かな人生の意味を保障しない。またふたたび、同じ惨禍を招くしかないからである。だから、それぞれに復活の人生目標は、リセットして、新たなライフスタイルを確立していくしかない。

 さて、ぼくは日本国家とか国民がということを、一応、視野に入れない。ただ、僕自身のためにそれを考える。だから、それは妄想というこになるかもしれないが、ぼくにとっては、なによりも確実な現実であることは確かだ。ここからスタートしてみようとしている。その目標は、一つは「貧乏への道」である。さらにもう一つは「環境料理」である。これから、この内容を具体的に書きつづけることにしていきたい。今は、環境料理という造語について、ここで触れておきたい。

 環境とは、自分が生活している場所のことであるが、それを料理するとは、環境を言語で表現することを意味している。料理しなければこの「場所」は食えないのだということを、ようやく理解できるようになったわけである。つまり、これまで、環境を批判することやギャグして野次ることで、なんらかの提言したつもりでいたが、この5年間、これでなにか環境が変わったとか、そんな兆候も反応もなく、提言の無意味さを今頃になってようやく自覚できるような始末である。

 しかし、環境を言葉で表現することはぼくにとって絶対に必要である。いやそういうおもしろさがなければこの環境を生きる意味がないではないかと感じるようになってきていた。そこまで思いいたったときに、自覚できることは、環境を変えようと提言するということでなくて、食えるように料理してみることではないかと、料理して食ってみることであったと言えるのだ。まさに自分本位であり、自分で食えるか食えないかが、美味しいか不味いか、そもそも食材として有効だったかどうか、そんなことではないかと思うようなった。

 これが環境料理の意味であり、これからやろうとしていることである。つまり料理は人にも提供してみたい。そんな欲望があるがゆえに、環境料理をこのブログに発表していくことになる。ばかかあほかと言われても今はそれしかないのも現実である。

 今日、土曜日も曇りである。ゴールデン・ウィーク、連日、曇りもしくは小雨に日々であったが、宮崎県の猛烈な水不足が満たされることなかった。綾の照葉樹林の一部の樹木は立ち枯れを始めた。全体の生態系の破壊が危惧されてきている。なんのための曇天、小雨か。この嫌がらせの天候の意味が深まる。
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霧島山系 林田温泉

2011-04-28 | 生き方
  4月23日土曜日、次男夫婦、孫たちに誘われて「林田温泉」に一泊した。今はこの温泉は「いわさき霧島ホテル」と名前を変えている。10年ほどまえに岩崎産業に合併されて、林田温泉という名称は消えてしまった。

 この温泉から西へおよそ5キロのところが、噴火をくりかえしている新燃岳である。今年はこの噴火で、近くの高原町や都城市が火山灰の深刻な被害を蒙っている。新燃岳に隣接しているということで、宿泊客のキャンセルがあいつぎ、ゴールデンウィークを控えていても、客足はほとんどないということだ。はるかに何十キロも西の方に広がって都城平野には、椎茸、ほうれん草と火山灰による壊滅的被害が起きている。この温泉は、その火山の隣なのである。しかし、温泉の西は霧島山系の山脈が聳えて新燃岳を隔てているわけである。ホテルの支配人さんの説明では、ここからは、山に隔てられて、灰も降らなければ、噴煙も見えず、爆発音も聞こえないというのだ。その話を聴くまでもなく、ほんとに廻りは、夕闇につつまれてあまりにも静寂で、かえって噴火の現実感がないのであった。

 10年ほど前に、長男と小学生になったばかりの孫と3人で、この温泉に立ち寄ったことがあった。その前は、この長男が小学生だったころだから、今から40年くらい前になる。そのころは、この温泉は、門の前にも土産物店のテントが立ち並び、温泉内は、お土産店、飲食店、ゲームセンターと長い通路にそって立ち並びごったがえしていた。ここ20年ほどで、だんだん衰えてきて、室内はがらんとしてしまって、かろうじて10年前のピンポン台の並んだコーナーだけが残っていた。ここで、風評被害も加わって、賑わいがすべて消え去ってしまったようだ。

 浴槽のある浴場は、男性のところで、巾が15メートル長さ30メートルもあり、そこに25メートルプールくらいの温泉がたぷたぷと湯煙を上げているのだ。大きな岩石で縁どられ、ところどころに岩が島のように置かれている。硫黄のかすかな匂いが温泉をいっそう感じさせてくれる。以前は、この浴場はガラスの填められた格子状の壁と塩化ビニールの屋根で覆われていたが、その屋根はとり払われ、ガラス格子の寂れた壁のみが残っている。露天風呂になったので、それはそれでおもしろい。午後9時、入浴客は、ぼくたち3人だけだ。孫と次男は向こうの岩陰に隠れてしまった。もうまわりには誰もいなくなり、かってここで走り回るようにしていた二人の子供がいたのが幻想のように甦ってくるのだった。あの頃は、高度成長期でファミリーに元気や活力が漲っていた。それも懐かしいのだ。今はなんだろうか。ファミリーは、日本とともに活力を失ってきているのではないだろうか。その哀切感が浴槽に浸かりながら、襲ってくるのだった。ガラス格子の外は今は樹木が生い茂り、かっての桜島,錦江湾の展望も見えなくなっている。しかし、不思議なことに、この衰亡がいいのだ。なぜか新しい時代に入っているのを感じるのだった。

 風評というのは、まったく当てにならないものだ。風評を突破すると、そこには、すばらしい贈りものがある。そんな一夜であった。群集の通る道はおもしろくない。われ1人の道こそおもしろいものだ。つくづくそう思うのだった。大浴場にわれ1人・・・
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貧乏への道 「どんどん労働、どんどん労働、ここも労働」

2011-04-16 | 生き方
  今回はモノより心の豊かさというような抽象的な社会目標でなくて、原発に依存しない低エネルギーの社会への実現という目標が、腹の底まで染み渡り、その心身への侵食が、これからは実現するまで続くことになろう。福島原発の事故は、つぎつぎの難問を生み出し、治まる気配もまだ見えない。それだけも緊張を強いられるが、それと、これほどの世界規模の自然災害、人為災害が、また起きる、それも近く起きるように思えてならない。もう熱さ過ぎて忘れることが出来るような災害ではなくなったようだ。だから目標と希望が、しっかり出てきたともいえる。それをぼくは「貧乏への道」と言ってるわけである。

 今、ぼくの家の玄関脇の床下に子猫2匹を養っている真っ黒の野良猫が住みつきだしている。真冬も無事に乗り切り、ただ一匹だけは近所の奥さんの話では、よだれをだらだらたらしながら苦しみもだえていたという。だれかが毒を飲ましたのではないかと。その話から10日ほどして、他の2匹と親猫は無事に床をねぐらにしだしたのである。そこで、ぼくはドッグフードの残りをあたえだしたところ、これを食いだしだ。ただ、一日どこにいるのか、多分、ほかに餌を求めているのだろう。この黒猫は、近づいてはくるがそれは、慣れ親しんでではなく、警戒のためで、こちらが前にでるとしゅーっするどい息をはきながら牙をむき出して攻撃の姿勢をとる。まさに彼女にすれば、一日の貧しい餌をとること、一日のねぐらをとることだけで、過酷な労働なしには過ごせないことを想像させるのである。

 50年ほどまえは、ぼくらの生活も一日を過ごすには、水汲みから料理、洗濯、風呂、掃除と、労働なしには、なにもおわらなかった。現在はどうか。指一本あれば、すべてが可能になった。風呂も指でスイッチを押せば、浴槽の水張り、湧かし、脱水まで一連の作業は終わる。その間に料理も指一本で電気釜、電子機器によるさまざまの料理も終わり、家庭によっては食器洗いまでスイッチ押せば済む。そして、自動車で、スターターを捻れば、どこにでも運んでくれる。体も意欲も使用せずに毎日が無事に暮らしていけるということになっている。この野良の黒猫親子の暮らしとくらべると、なさけないほど、われわれの心身の内的活力は閉じ込められて衰弱のきわみに陥っているのではないかと空恐ろしくなってしまうのだ。

 われわれは、毎日の暮らしの中に労働を取り戻していけないのだろうか。指しだい、指だけの家事労働、そんな暮らしよりも体全体を使っての生活がはるかに快楽ではないのだろうか。たとえば、キャンプ生活を思えば、あの一日の充実感と開放感は、どんどん労働の成果であろう。

 低エネルギーの社会生活を実現するにには、自分のエネルギーをどんどん出せるような生活を楽しむしかないのではないか。たしかにその楽しみはあるのだ。それを語り会おうではないかと思う。
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貧乏への道 「どんどん労働、どんどん労働、ここも労働」

2011-04-16 | 生き方
  今回はモノより心の豊かさというような抽象的な社会目標でなくて、原発に依存しない低エネルギーの社会への実現という目標が、腹の底まで染み渡り、その心身への侵食が、これからは実現するまで続くことになろう。福島原発の事故は、つぎつぎの難問を生み出し、治まる気配もまだ見えない。それだけも緊張を強いられるが、それと、これほどの世界規模の自然災害、人為災害が、また起きる、それも近く起きるように思えてならない。もう熱さ過ぎて忘れることが出来るような災害ではなくなったようだ。だから目標と希望が、しっかり出てきたともいえる。それをぼくは「貧乏への道」と言ってるわけである。

 今、ぼくの家の玄関脇の床下に子猫2匹を養っている真っ黒の野良猫が住みつきだしている。真冬も無事に乗り切り、ただ一匹だけは近所の奥さんの話では、よだれをだらだらたらしながら苦しみもだえていたという。だれかが毒を飲ましたのではないかと。その話から10日ほどして、他の2匹と親猫は無事に床をねぐらにしだしたのである。そこで、ぼくはドッグフードの残りをあたえだしたところ、これを食いだしだ。ただ、一日どこにいるのか、多分、ほかに餌を求めているのだろう。この黒猫は、近づいてはくるがそれは、慣れ親しんでではなく、警戒のためで、こちらが前にでるとしゅーっするどい息をはきながら牙をむき出して攻撃の姿勢をとる。まさに彼女にすれば、一日の貧しい餌をとること、一日のねぐらをとることだけで、過酷な労働なしには過ごせないことを想像させるのである。

 50年ほどまえは、ぼくらの生活も一日を過ごすには、水汲みから料理、洗濯、風呂、掃除と、労働なしには、なにもおわらなかった。現在はどうか。指一本あれば、すべてが可能になった。風呂も指でスイッチを押せば、浴槽の水張り、湧かし、脱水まで一連の作業は終わる。その間に料理も指一本で電気釜、電子機器によるさまざまの料理も終わり、家庭によっては食器洗いまでスイッチ押せば済む。そして、自動車で、スターターを捻れば、どこにでも運んでくれる。体も意欲も使用せずに毎日が無事に暮らしていけるということになっている。この野良の黒猫親子の暮らしとくらべると、なさけないほど、われわれの心身の内的活力は閉じ込められて衰弱のきわみに陥っているのではないかと空恐ろしくなってしまうのだ。

 われわれは、毎日の暮らしの中に労働を取り戻していけないのだろうか。指しだい、指だけの家事労働、そんな暮らしよりも体全体を使っての生活がはるかに快楽ではないのだろうか。たとえば、キャンプ生活を思えば、あの一日の充実感と開放感は、どんどん労働の成果であろう。

 低エネルギーの社会生活を実現するにには、自分のエネルギーをどんどん出せるような生活を楽しむしかないのではないか。たしかにその楽しみはあるのだ。それを語り会おうではないかと思う。
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貧乏への道 「京」

2011-04-13 | 生き方
 貧乏について考えようとしていたら、「京}(けい)という数の単位が、日常生活に現れてきた。生まれて初めて京が、数えられる実在として、目の前に登場したのだ。こんな日がくるとは予想も、想像もしてなかった。福島原発の放射能ベクレルが120京であると、ディスプレイの下に示されてきた。

 ぼくは貧乏という小さな数字についてちまちまつぶやこうとしていた瞬間になんだ、この数値はと驚くのであった。そばで妻が京は、なん兆なのと、彼女もおどろいたように聞いてきた。素直に、ぼくにものを聞くなどということはめったに無いのに。何万兆だよなと、答えたがあまり確信はなかったのだが、先日、世界の金融市場をかけまわっている投資資金が6000兆円あまりあるといわれていた。このうちの3000兆円が世界の金持ちたちの余った金で投資ファンドによって、餌さを嗅ぎまわっているという。この上の数だと思ったわけである。当たっていた。まさに貧乏とのこれほどの対極はない。

 本年度の国家予算、一般会計の分で93兆円、税収は30兆、震災復興に27兆円と試算されている。わが国のGDPはここ数年間550兆円である。「京」という数字が日常で使用されることがないはずである。この数が、テレビという日常シーンで福島原発から放出されたセシウムなどの放射線能力として登場するとは、腹がたつほどとんでもない現実に投げ込まれてきているのを痛感する。こうなったら、ますます貧乏への道をリアルにしなければと思うのである。

 また東京都民は石原慎太郎を知事に選んでしまった。昔は東京都の議員選挙では地方にない革新性が示され、うれしくなったものだが、今では、日本での最大の保守的結果を出している。東国原前宮崎県知事が第二位となったのは、さすがだが、30代以下の世代の投票が寄与していたというから、未来はあるわけだ。

 さて、昨日、地方選挙で大敗した菅総理の記者会見がテレビで中継された。ところで、記者たちの質問は、容赦ないものであったし、なかには質問そのものが、質問というより、あなたはなぜまだ首相の位置にとどまっているのかというようなものもいた。ぼくは菅首相には批判的であるが、記者らは、これほどの批判をなぜ、石原慎太郎に向けて発しないのかと、思うのである。記者たちの多くは、自分たちの生み出した菅イメージに自らまた囚われてしまっているのではないかと、笑いたくなってきた。こりゃイカンではないかと。その石原都知事は当選会見で、福島原発については、理性的でありましょうと、なんどものべた。この意味は原発を感情的に否定すれば、わが国のGDPは破滅する。これは国家が低落して、とんでもないことになるという意味である。しかし、理性的ということは、いかに福島原発を否定する未来をかんがえるということに、とどのつまりは行きつくではないのかといえないだろうか。「京」から日常単位への道を探す方法に理性の活用があることを探していきたい。貧乏への道である。これからのブログのぼくのテーマはそうなる。
 
 



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東日本・大震災 思いの復興

2011-04-02 | 生き方
 毎日、毎日、目を奪われるように地震・津波の災害、原発事故の深刻さが、報道されて息をつかせぬばかりに事態が進展・展開していっている。そんな日々すでにいかに復興すべきかと菅首相はしゃべりだした。夕べ、菅首相が記者団を前にして、復興会議創設の話をしたのを聞いた。壊滅してしまった市や町村の市街地を、背後の山を切り開いて移転させ、現在の平地には海産物生産工場などを集中させ、山の住宅から人々はこれらのの工場へ通勤するという未来の街を語っていた。津波の危険性を回避できる市街地の再生であるというアイデアであろうが、あまりにも単純すぎて、軽すぎて、思いつきすぎる。人々が伝統的に暮らしてきた街とは、こんなアイデアで復活できるものではないであろう。このことで住民が満足させられるのであったなら、わざわざ山を削り、土地を整備し、水道電気ガスなどのライフラインを張り巡らし、流通の市場を創り、生活の場を復活させるよりも、どこか、日本中のあちこちにある場所に、たとえば宮崎県に、そのまま街を移動してしまったほうが金も手間もかからず、効率的である。これはまさに独裁国家の人間無視の実績のある都市計画アイデアであるが、山を削るのも同類ではないか。

 さて、この宮崎市で、官庁の年末移動に伴う歓送迎会の宴席の自粛、その他、お祭り、イベント、歌舞婉曲のともなう会合や行事の自粛、その他さまざまで、宮崎市の飲食店は去年の口蹄疫、今年の鳥インフルエンザ、新燃岳噴火と災禍つづきで、経済不況に追い込まれてきている、とくに小企業、なかでも飲食店業は、人災というべき自粛運動の圧迫に喘いでいる。また演奏者のほうでも、知人のだれかれが、この自粛運動に悩ませれ、上演をためらったことを直接聞いたり、ブログで読んだりしてきた。

 いったい、この自粛運動とはなんなのだろうか。第一のそれはなによりも滅私奉公の道徳観であろう。なぜ自分を滅すことをするのか、それは、震災者への配慮りよりも、直接的に他人の目への恐れからである。自分を取り囲んでいると思う審判者という存在があるという恐怖感からである。そして最後に論理性の排斥がある。滅私、つまり自己の喪失は理論ではどうにもならない、むしろ理論を口にすることでなく、大いなる正義という抽象的存在に従うことになる。自粛運動は、この3点の意識に基づいている限り、被災者にとっては、無意味でしかない。またその生活を救う手立てとしては、役に立たない。この現実との乖離は、すぐにその非合理性のために、破れて消滅してしまう。そのプロセスは大衆意識の高揚として表れ、たちまち役立たずとして低下して、運動は終息する。しかし、この間における莫大な損失ははかりしれない。そこで喪失された所得金額を、直接に被災者救援にまわすほうが、どれだけ効果がり、実際的な行動であったかを、知るべきだ。

 しかし、この滅私奉公、他人意識、合理性排除は、ぼくら日本人のミトコンドリアであり、それ独自の遺伝子をもった存在として細胞内に行き続けている。だからこの意識を拭い去ることは、不可能に近い。もっともこれが、他人への思いやり、自己制御、論より情の柔軟な現実対応のすばらしさを発揮することもあり得るのだが、この遺伝子をかかえこんで、いかに現実に対処していくべきかは、きわめて、このような危機のときには大切であろうと思う。ただ、闇雲にこの遺伝子が大衆運動として発言されるときを、警戒しなければならない。復活への未知が始まろうとしているとき、大衆意識は警戒しなればなならない。菅もまたきわめて大衆的運動家でしかないと思われる。

 東日本大震災について、前回につづいて書いているわであるが、この大震災もまえに書いたブログは、宮崎県串間市の女性歌手ホウちゃんが、串間市への原発誘致に反対して幸島前の砂浜で、唄祭りをやったことを書いた。その3月4日の土曜から7日目,3月11日の金曜日に大地震、津波、福島原発事故が起きるとは、想像もできないことであった。そのホウちゃんの生活を、ふと思い出す。クーラーも洗濯機も使わず、ガスの代わりに薪を囲炉裏にくべて料理をし、水道でなく井戸水を自製の消し炭をつかった浄化槽で漉して使用しているという生活のサバイバル性を思いだすのだ。こういう生活が可能な場所が串間市の日南海岸沿いにはあるのである。もちろんすべての日本人がこのようなライフスタイルを取ることは不可能であるし、実現すべきでもないのだが、ここに一つの可能性があることを感じずにはおれない。

 それは端的に言うならば、貧乏への冒険である。貧乏への意思である。こういう人生観の具体化がありえて、しかるべきだと思うのだ。すくなくとも、貧乏のもつ豊かさ、貧乏人の誇りと名誉が人生の目標として、サラリーマンの道と別に確立される可能性を思うのである。この人生を三浦展は、下流社会の階層集団となづけているが、そうではない豊かさがここにある発見が予想される。さらに「自分を探すな、仕事を探せ」と豪語するかれの論理が、探した仕事は、いっしゅんにして、悲惨な消滅でしかないことでもあることを自覚せずにはもはや生活できない時代が始まったことも現実である。この世界を、いかにしてサバイバルするかを思う時代になった。おそろしく、しかも考えようによっては希望に満ちた時代が始まったと、思わざるをえない。
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東北・関東大震災 このブログをどうすべきか

2011-03-26 | 生き方
 東北・関東大震災が連日24時間で、テレビ全局が報じてきた。先週に入って、NHKをのぞいて通常の番組に変わってきたが、それでも災害の報道に意識は我知らず向いてしまい、日常番組を視聴してみる気分にはとてもなれない。しかし、夕べようやく10時半すぎには、視聴を止めて就寝することにした。こんな日々、ブログを書くなどという気分になれないし、書くことの空しさや、恥や罪悪感さへ覚える毎日である。こんなものを書いていてなんの意味がありやと、このまま止めてしまってもいいのだが、この2週間、ふと気付きだしたことは、この大震災、地震,津波、原発事故の拡散と恐怖のなかで、被害者の苦悩に向かい、ぼくにも生きる意味を与えてくれるのは言葉によるコミュニケーションであり、現実についての認識であり、ぼくを克服へと希望をさせるのも、これらの言葉によることにふときづかされたのだ。ぼくが放り出そうとしている言葉による表現に、じつは無意識に頼ってきていることであった。ならば、今、自分はどんな言葉を並べて行こうとしているのかと、かんがえざるをえなくなったことである。

 ほんとにこの2週間、テレビの報道番組を中心に新聞やインターネットに溢れ変えるこの大災害を知らせ、認識させ、考えさせる言葉に曝されてきた。そして次第に希望を見出していける言葉による表現は、この大惨事の文学、芸術の言葉より、科学の言葉、惨状の理論的分析であることに希望を抱かされていることに気付かされている。この言葉によって再生の方法と目標を立てられるだろうと信じるようになっている。

 東北・関東大震災が、自然災害である以上に、文明災害であることは、日に追って明らかになってきている。人が自然科学や社会科学のテクノロジーで実現することが可能になった生活空間が地震・津波で破壊されたのだ。その深さと広がりが、想像を超えた脆くて危険極まりない生活基盤の上に営まれていることを、日々、痛烈なまでに認識されてきている。この基盤を作り上げているのも文明ではある。そこで、この文明を黙示録的に否定する文学的表現は、、これまでもなんども繰り返されてきた。たとえば2009年の3月1日のNHKテレビ番組ETV特集で、辺見庸の特番「しのびよる破局の中で」がある。かれはこの2時間ちかくの長時間番組のなかで、日本人の文明的終末について語りつづけた。半年ほどのちにそれは、辺見庸著「しのびよる破局 生体の悲鳴が聞こえるか」として出版された。当時、2008年のリーマンショックの金融危機、翌年の鳥インフルエンザ人への感染が避けられないという危機感などが重なりつづけていた。かれは、これらが文明つまり資本主義社会が生み出す歪みのためであり、その歪みは、われわれの生体までをストレスで悲鳴をあげさせると陰々と語り続けていた。ぼくは、その番組ものちの本もなんの具体性も科学性もないと、当ブログで批判している。ジョージ・オーウェルの言葉で「本当に飢餓線上にある人間は、飢餓などは論じない」という箴言があるが、飢えてないから飢えが話にできるのだと。ほんとうに現代社会について悲鳴をあげるほど切実に生きているのかという疑問が、ぼくの批判の根底にあったのだ。ぼくは、そのときかんじられたのは、すべては、辺見は脳梗塞による自己のうつ病を語ったにすぎないと、批判した。
 
 その翌年、宮崎にはコウテイ疫災害が発生した。人も牛もまさに生体の悲鳴をあげつづけた。辺見はかって「もの食うひとびと」という世にしられたドキュメント作品を書いている。なら、このコウテイ疫の現実について、かれはどう論じるのか、それを知りたがったが、ついにかれの発言はしることができないでいる。さて、、かれはまたしのびよる大地震ということも語っていた。地震もまた文明の災いとしていた。パンでミック(世界的爆発感染)という言葉を多様しながら文明の破局が拡大していくという展望は、執拗に語られていく。あれから2年を経た今、この大震災について、かれの言葉はなんなのか、密かに思っていたところ、数日前の毎日新聞紙上でインタビューに答えた記事が、数人の文化人、有識者とならんで掲載されていた。かれはそこで、言った。自分には言葉がないと、そして、この大災害について、現実以上になにを私に言わせようとするのかと、憤懣と嘆きをのべていた。かれの黙示録的表現の終焉をまさに示してあまりある記事であった。そして、最高にお粗末で、まさに無意味きわまるものが、石原慎太郎の言葉であった。津波は、われわれの我欲への天罰であり、この津波でわれわれの我欲を洗い流す禊をすべきであると。その想像力を欠落した自分本位の世界認識、ここに彼の文学的言葉の末路を感じざるをえないのだ。文明批判は、こんな人間による文学的言葉では、なんの意味をもなさぬことを今更ながら思わざるをえないわけである。

 もちろん文学や芸術を否定することではない。今は、問題を解決する方法を知らねばならぬことで、科学的文辞のほうにこそ真実があることを、思うわけである。

 さて、昨日の宮崎日日新聞の文化面に1人の画家の個展の紹介記事が囲みで掲載されていた。背広ネクタイ姿で、会場なのか、自分の油彩作品のまえで直立不動の姿勢の写真が掲載されていた。ぼくは思わず、その姿に目を奪われてしまった。かれの作品をもって対峙するには、東北・関東大震災のいかなる現実を対処しようとするのかと、その直立不動のネクタイ姿に想像するのであった。津波はもちろん後に原発事故の恐怖や災害拡大、停電、放射能危機の不安、そして数百回もくりかえさている津波の恐怖の映像、肉親を今も探しつづける家族のやつれた悲劇的姿と、映像はぼくの意識から離脱しない。おそらく宮崎市民のほとんどの住民もそうであろうと思う。それに向かって、ネクタイ背広の画家とその油彩作品がなにを訴えようとするのか、ぼくならそういうことは絶対にやらないし、やれなかったろうし、なぜだ、なぜこの画家はこれがやれたのか、新聞社は、なぜこの文化を現実につきつけることが可能だったのだろう。つまり、それは芸術であったせいだろうか。なんとう芸術のあり方だろうか。

 その当日の昼、新聞社の隣のデパートカリーノの前におどろくほどの人だかりができていた。テントが2つ張られ、カリーノの玄関前にも人々が群がり、写真をさかんに前の行列に向けていた。近づいてみると、一つは募金集めのテントであり、もう一つは献血のテント行列であった。もちろん、ここにダルビッシュの元妻の募金するイベントであったとしても、この募金は真実のものであり、献血はなおダルビッシュとは関係が無かったと思う。この人々の行動は、なんというアートだろうと、ぼくは感動できた。いや、これは芸術的感動そのものではないか、行為が芸術になっている。そこに、一つの文学的言葉がまだ存在しているのを感じることもできるのであった。ことばにならぬことば、そのことばもまたぞくぞくと誕生してきている。これらもまた勇気と解決と目標を与えだしている。
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金と暇

2011-03-05 | 生き方
 先週の木曜日、ホウちゃんから記録映画「カンタ!ティモール」の上映会の案内メールがとどいた。彼女はいつも唐突におもしろそうなイベントを知らせてくれる。おもしろそうなという言い方は、彼女の切実な思いからすると軽すぎる気もするが、ここから始まるという気がするので、おもしろさは、ことをやる上の核心ではないかと思っている。2月4日にも、彼女は自分の住む串間市の市長さんが原発誘致を「めちゃくちゃしたがって」4月の住民投票にむけて「原発バンザイ的な冊子」を「全家庭に配ったり」するのに異をとなえ、私たちは「ア-スディ串間」をやることとしたとメールしてきた。このアースティ串間は、賛成・反対をこえて、未来のあり方をイメージできるような「楽しいイベント」にしようというのであった。楽しいはおもしろいと重なるということだ。だが、このイベントは原発反対運動や!として、市からどこの場所も借りられなかった。そりゃそうでしょう。反対を受け止めていけるような繊細さがあるはずはないやろう。原発誘致とは、金を貧乏な串間市に爆発噴火噴出させ潤わせるという妄想〔ホウちゃん側からみれば)もしくは経済合理化(市長さんの側からみれば)である。この点をめぐって、住民はどちらを選ぶか、決意を迫られてきている現況であろう。ホウちゃんは、そこで、新月で旧正月の日、午後2時、幸島の見える海岸で仲間たちと祈ることにしたという。100匹目の猿で有名なシンクロ(日本や世界のあちこちの猿が、串間猿に習ってとつぜん芋を洗うという行為をやりだした猿文化シンクロナイズ現象)の猿の島を対岸にして、午後2時〔虹)に唄ったのである。彼女もまた、人々のシンクロナイズを祈ったのであろう。

 当日の映画会もまたシンクロを呼び起こす祈りのイベントというイメージに満たされていたように思う。記録映画「カンタ!ティモール」は、パプアニューギニアの西端にある小さな島であるが、インドネシアからの独立運動をつづけ、徹底的な弾圧を受けてきた。2002年だったかようやく独立を達成した直後にあっても、インドネシア政府は密かに反対勢力の住民を民兵にして、村を焼き、村人を殺していく。その後も真の独立を願って運動がつづけられ、弾圧は2008年ごろまで何度もくりかえされてきた。なぜこれほどの独立を願う東ティモール民衆への弾圧が必要だったのか、また、なぜかくも執拗に国軍に反抗して、独立運動をつづけていったのか、その事実にぼくは圧倒される。ただ、映画には、このような経過が取り扱われているわけではなく、インドネシア軍による暴力は、過去の報道映画の断片や、村人の証言から伝えられているばかりで、どれも悲劇の断片として、ちりばめられていた。この映画はどうやら、政治を主題としているよりも、人の生き方を伝えようとしている。残虐・非道の歴史よりも、人はかかる悲劇を耐えてなぜ生き延び、かつ充実して明るく人生を謳歌できるのかを、謎めいてぶっつけている。

 今「謎めいて」と言ったが、この東ティモールの村人たちは、ほとんど生活するにモノを必要としてないように見えることだ。掘っ立て小屋程度の住居や、着た切りの衣服、ガスも電気もなく、テレビもパソコンも携帯もない生活。それは貧しさ、過去の焼き討ちや経済疲弊が原因ではあったろうが、かれらには、それを求める欲求は、なさそうである。金を稼ぐという行動よりも集まって唄い、踊りする日常が続けられていく。経済発展や消費社会の到来が求められる気配さへどこにもない。現在、グローバリゼーション化で、あらゆる国家が、経済社会として一体化をのがれられない現況で、その影響から隔離されているその現実は、ぼくには国家としては存立しえないであろうかと思われる。しかし、村人は、そこと関係なく生きているという報告は、それを果たして現実として受け止めていいのか、その印象は、残ってしまった。

 しかし、それはまた、人はパンのみに生きるにあらずの強い、現実性のあるメッセージに満たされていた。このことが、現代に緊急な課題として、伝えられていくべき可能性を持っていると思えたのであった。当夜、天空ジールの会場に集まった観衆の多くは、ダウンシフター(車のギアを低速に切り替える)つまり生活ののんびりさをベターとする人たちだったようだ。金よりもひま、自由な時間を稼ぎたいライフスタイルの人である。ホウちゃんも、炊事は薪でやり、瓦斯コンロもクーラーも無い生活、水道もなく井戸水で、テレビもないし、物々交換、買うよりも修理、リサイクル品の再利用、服も自分でつくるということらしい。これらをおもしろがってやっている。浄水機を作り、塩を海水から作ったという。この生活を悲惨とおもうか、豊かと思うかは人それぞれであろうが、一つだけ言えるのは、貧乏をおもしろがらなくては、これからの日本国では、豊かに生きられないということだ。

 30社も50社も企業訪問をやって内定を得られず、自分はダメ人間を思い込まされる社会にまだ金を稼ぐ生き方がまっとうで唯一の人生だと、信じ込まされている学士たちに緊急に告げるべきことは、「金よりも暇を稼げ」ということであろうかと思う。無縁社会といういう恐怖や不安も金稼ぎの視点から生まれている幻想に過ぎない。生きるのに無縁も他縁もあったものではない。ただ自己が、確固たる自己がありさへすればいい。暇がなければ自己は育たない。この戦略と戦闘にだけ、今の現代日本の若者は、背負っていけばいいとは、なんと幸せなことだろうか。さしあたり飢えて死ぬことも無ければ、徴兵制度で兵役につく義務もないのだ、自分の本当に好きなことだけに命をすり減らせば、未来は開くのである。カンタ!チモールは、このメッセージで日本人を鼓舞するのではないかと、思うのであった。ホウちゃんは、この映画を見て「号泣」したというが、ぼくは、泣きも笑いもしなかった。感動よりも生きる方法を感じるのであった。



 



 


 

 

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断捨離(だんしゃり)」

2010-12-17 | 生き方
  水曜日(12月14日)午後3時ごろ、デパートカリーナのあたりをぐるぐると廻った。刀削麺(とうしょうめん)というラーメンを出す店を探した。麺や牛肉を包丁で削りながら、鍋に落していくのだそうだ。その店はなかなか発見できなかったが、それにしても横町には人影も無く、師走の賑わいなど、どこにも無かった。デパートが3点も固まった中心市街地もまさに師走はなく、どんよりとした曇り空の下で冷えていた。10年ほど前は師走といえば、商店街には人がきぜわしく往来し、ジングルベルが流れ、デパートの食品売り場などは、熱気であふれかえるようであった。モノも食品もどんどん売れていき、客たちが手にしたデパートの買い物袋が幸せ家族を感じさせ、それが師走であった。今は消えた。

 この「断捨離」とは、家のなかの使用しなくなったモノをすっぱり捨てて、もはやモノ依存の生活から離別し、新しい人生を開こうという生活革命の用語であるらしい。その断捨離の実践映像が、NHK12月16日のクローズアップ現代で放映された。とある夫婦のアパートの一室、開かずの間として、そこはまさに、今はもう使用していない品物が、山のように積まれていた。それを思い切って捨てた夫婦の新生活が放映された。捨て去った後の部屋はフロアーは新築当時のように光、そこは新しく家族の団欒の間に生まれ変わり、新らしい生活がはじまったというのだ。また父母を看取った一人娘が、遺品を整理し、すっきり広くなった家に、一人で生きる新しい意欲が涌いてくるのだと報じられた。ゴミのように家屋に溢れる品物を、思い切っての廃棄した決断の結果は、たしかに目をみはる快適空間を生み出してくる。新生活の場として目を奪うのであった。

 ここで一人のモダン僧侶がコメンテーターとして登場し、モノの過剰、情報の過剰を自分の意思で斬り、そのことから真の生活をとりもどすことを説いてみせる。その煩悩に捉えられた心から解放されたかのような、モノの無いぴかぴか、清潔な空間が我が家に現れる。断捨離の功徳というわけか。

 だが、ちょっと待って欲しい。ここには気付かれてない大きな問題がある。
あなたが踏ん張って廃棄処理したもの、その山のようなモノは、あなた一人で消滅したわけではないということである。だれがゴミ焼却場に産廃処理場に運んでいって目の前から消してくれたのかだ。水道を捻れば、水がでるようなものではない。わが隣近所でもときどき山のように燃えるゴミがだされる日もあるが、雨の日など、それを懸命にごみ収集者に運びこむ一人、もしくは二人の収集員の労働をみると胸が塞がれるようである。それは30キロの山中のゴミ処理場までも労働はつづくのである。このような排出を断捨離の意欲で、全戸がやったら、事態はどうなっていくのだろうと、想像しなければならない。

 ぼくは、いつも思うのだが、都市の住宅街を山の上から見下ろしたり、自転車で走りぬけたりするときに、市街を覆う住宅が、それそれゴミ処理場、産廃処理施設の役目を負っているのだと想像するのだ。多分4分の3、あるいは3分の2くらいは、不用品、ゴミと化した物品で部屋は覆われているのはまちがいない。ほとんどいのマンション・アパートの片隅の窓際をみてみよう。たいがいが、その窓際に重ねなられた段ボール箱を除きみることができよう。また玄関わきの傘たてに100円のビニール雨傘が10本もつっこまれていたりする。このような不用品を、全家庭がゴミだししたならば、処理はどうなるのか。どれだけの償却費用がかかるのか、その経費はどうする。人権費だけでも、現在の何十倍とかかってくるはずである。われわれ各人が断捨離で新しい生活を楽しみたいということは、このことと関係しているのだ。

 不必要になったら捨てる。そして、広くなった部屋でさっぱりするとは、他人を犠牲にしてのみ成立することでしかないのだという、問題を想像してみようじゃないかと、思うのである。

 ぼくの10畳のプレハブも衣類、スポーツ用品、本などで、足の踏み場もないくらい埋まっていた。先日、スティール棚を購入して、整理しようとした。いやその前に知人が軽トラで産廃処理場まで運んでくれるとも提案してくれた。だが、その部屋を何度かみながら、物品の配置を考えてみた。そして日曜日、その案によって、朝の10時から午後6時までかかって配置し終わった。そしたら、およそ6畳くらいの空間が出現した。ここは日当たりがいいし、冬の昼間の書斎としてもチップの昼寝の部屋としても最適となった。いやあ、品物をすてなくて良かった。世話になった品物であるし、無用になったら焼却炉に放り込むというのはね、それを思う。節子は、かねがね、モノをすぐ捨てるぼくの精神を批判していた。一言、モノだって心があるよ、かわいそうじゃないと。そういう言い方もあるのだと、今は思わないでもない。それとどうじに思う、この整理され天井ちかくまで重ねられ,治まってしまったモノ、本をみながら、おれは、国家の全廃処理に奉仕しているのだと、誇りうるのだ。固定資産税まで支払ってゴミ処理場の役目を背負っているのだ。いいじゃないか、それで満足しようなと。






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宮崎市の師走の町で

2010-12-11 | 生き方
 昨日は、真冬の寒冷で、宮崎県で初氷であったという。もちろん、ここ宮崎市では霜もなかったが、手袋をしていてもかじかんだ。寒風が吹き、師走の中心市街地にでてみると、いきなりデパートの垂れ幕ポスターに「じぶんの町を良くするしくみ」と明朝体の赤い活字体の文言が目に入った。きりりと意識を刺すようなフォントのポスタがおおいかぶさってきた。並んでいた「がんばろう宮崎」と「1000,000人のサンタクロースキャンペーン」とくらべて、この奥歯にものがはさまったような言い方に違和感と不快感がどっとつきあげてくるのを感じたのだが。

 じぶんの町を良くするしくみとは、かんがえてみると、なんにも具体的な意味はつたえていないのだ。この不愉快さがあるのだった。こういう垂れ幕を手間隙かけて製作、デパートに垂らすよりも、このデパートの裏側にあるポケットパークと愛称された場所を、以前のように自転車が気楽に停められるようにするほうが、よっぽど「じぶんの町を良くするしくみ」になるではないか。そう思えないか。だいたい「町と良くする」とは、具体的にどういうことなのか、そのコンセプトはあまりに広がりすぎて、つかみようがないのである。たとえば、例の前宮崎市長であった津村氏のシンガポール幻想による駐輪禁止、看板規制、歩道整備などなどによる街中のお片づけの大衆受けの「良くする」都市整備を連想させられる。これも良くするとしくみと、いえぬことではないが、このために中心市街地の賑わいが消失したことを併せてみると、良くすることではなかったのだ。町、街の都市的仕組みを、良い、悪いで一言でもんきりポスターにされることではないのである。

 むしろ、この文言を「じぶんの町を悪くするしくみ」と変えたほうが、意味は明確に伝達していけるのではないだろうか。悪いということは、きわめて具体的にイメージできる。だれもこうであったらと、それぞれのイメージを確かめられる。この文言が回覧板のような明朝体フォントでなく、手書きで荒々しく書かれていたら、この垂れ幕は、師走の街を気ぜわしく往来する人々を挑発できよう。今年のしめくくりとして、じぶんの町を悪くするしくみを、考えさせてくれる。心は、生き生きとなる。悪い町、悪い場所ほど、想像力をじつは書き立ててくれるのは、アートの生まれる状況となりうるのだ。

 もちろん、こんな冒険などだれもしないであろうから、やるならこちらでやるしかないではないか。しかし、資金を出してくれるものもないだろうし、製作しても、デパートが壁面を使用させてもくれないだろう。だいたいそんな意識や発想があるなら、せっかくの自分のもっているポケットパークのバックヤードに鎖を張って駐輪禁止にして、人々も散らすようなことは思いつきもしなかったろう。で、どうするか、その代案として以下のようなことを考えてみた。
 
 垂れ幕にかわり、人差し指の先に納まるようなポスターを作る。そのなかに「じぶんの町を悪くするしくみ 連絡先090-・・」とあるだけのポスターでこれを、電柱やら壁やら軒下やら店のテーブルやら柱に貼付させてもらう。これを気付いたものだけが、このポスターに反応できるようにする。実はこのアイデアは、今年の宮崎映画祭第16回で上映された「亀は意外と速く泳ぐ」で、毎日なにも生じない平凡な生活にあきあきした主婦が、ある日街の中の階段の通りで、つまずいて転んだとき、倒れた目の先の石段に小指の先ほどの広告が目に入るそれは、スパイ募集の広告であった。この奇妙な広告のパクリである。このような広告に応募したという点でスパイの資格十分と採用されるのだが、こちらもまたこのポスターに関心をよせる市民がいたとしたら、それだけで町は良くなっていく契機となるであろうと思うわけである。

 今年も先月にチケット売りのワークをしたのだが、この体験から、ここ数年の間に、ほとんどの人々が、「じぶんが関心がないものには、まったく関心を働かせることはない」という実感をもつようになってきている。自分で光をはっして、未知なるものを照らしてみるという意識が働くことが衰弱の一路をたどっている。だから、光っている電飾のようなものにしか関心が向かない。これこそクリスマスのツリー飾りの電飾に群がることになるのだろうか。これではじぶんの町は良くなることはないであろうと、今日も師走の町で思うのであった。

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朝食料理と意識

2010-09-04 | 生き方
 夏休みも終わり、孫たちはまた学校が始まった。ぼくのチップの散歩は、年中無休、土、日もない、休み無くなんでもつづけるということは、ときにあきあきして疲労もたまり、ストレスにもなる。一週間に一度の休息というのが必要かと思ってみたりするのだが、休みのないという身体的行動は、じつは当たり前のことだと気付かされる。たとえば、食事をするということ、これは止められない。止められないということは、この場合料理をするということに直結している。家事の多くは、この止められないという仕事なのである。これは至極、残酷なことになっているのだ。渡部昇一という学者がいるが、かれは男子で知的生活を送らんとするならば、ぜったいに厨房に入っても立ってもならぬと、その「知的生活の方法」という文庫本のなかで宣言している。で、かれは結婚しているわけで、妻に、女性だけが厨房仕事をすべきであると断言しているのだ。、まさにNHKの評判朝のドラマ「げげげの女房」である。それはともかく、このように朝飯を食うということなども、定期的に止めるということは、ほとんど不可能なことなのだ。思ってみるとそうなんだと気付かされる。

 またまたチップの散歩で、小学校に通う近所のこどもたちといっしょに歩く日がもどってきた。そんなときに、ぼくはなんどが、こどもたちに今朝はなにを食べたと聞いてみることがあった。たいがいなこどもが、パンだというのだ。パンのほかにはというと、パンだけと、あっさり答える。味噌汁はと聞いても、ほとんど味噌汁のある朝ご飯などはないようであった。おそらく若い母親たちも共稼ぎなどで、ゆっくり朝食を作っている暇などないのであろうか。

 自動販売機のまえに乗用車を停車させて、コーヒーの缶を出す若い女性たちのどことなく疲労感をにじませる中腰の姿は、毎度の情景であった。このコーヒーで疲れを鎮めて出勤するのであろう。かなりのこども、若者たちが、朝飯抜きのような状態で、長い一日を迎えることになっているようだ。こんなことを見てきているうちに、朝飯を作ってみようという気持ちを起こして、それをスタートさせて、その日がいつだったか記憶も薄れたが、すくなくともまる3年は経っている。家内がときどき割り込んできたほかは、毎日、日曜だろうと料理してきていた。今はそれは空気を吸うような自動的な行動であり、きっかり45分以内で料理を終えている。

 こんな料理なら、そうとう忙しい人でもやれるのではないか、ということで、紹介してみる。この朝食料理の核は、この3年間、同じ野菜炒めで、変化しないということである。3年といわず半年も同じ料理をつくれば、ほとんど頭をつかうことはなくなる。それに料理は自動反応のようになってしまう。それでいて、単純労働ではないということが、特異点であろう。一回、一回、やってみる技がある。これでしか美味い料理はできない。この技のバリエーションは、3年やっても尽きなくて、飽きが来ないというわけである。

 ではレシピを説明しよう。主婦が見たら笑い出すようなものだが、それでもまちがいなくブレックファストにはなってきた。サラダ油やオリーブ油、にんにく、椎茸、その他の茸類、ピーマン、しし唐,人参、ジャガイモ、ベーコン。おろし大根、目玉焼き、切り餅。こーひー(コーヒー豆からコーヒーを淹れる)トースト。ジュース(りんご、ばなな、人参、アロエなど)が基本。それに野菜は、折に触れて、ときどきかぼちゃやなすなどを加える。ピーマンとしし唐というのは、じつは花壇のはしに4本植えているのだ。これだけで、5月下旬から11月まで毎日のように収穫がつづくのだ。生で齧っても甘みがあって食えるほど美味しい実なのだ。ヨーグルトやチーズをくわえるときもある。牛乳は蛋白源として飲む。フライパンと電子レンジと、トースターとを適宜なときに発動させて、すべてが出来上がり終点時間は同じになるようにする。そんなわけで、おろし大根は野菜炒めの合間にやる。

 野菜は最初に冷蔵庫から出し、裁断してすぐに冷蔵庫に戻す。にんにくは薄皮ははがずに。ピーマンは縦割りしただけで、なかの種もしろい果肉もそのまま焼く。ベーコンとにんにくを裁断したら、包丁は洗って収納する。コーヒーは、野菜炒めのあと、目玉焼きをしている間に豆をカッターにかけ、淹れるのだが、全体の時間は5分くらいで終わる。湯は料理のあいまに沸かしておく。この出し入れはパソコンのキーを押して、必要な言葉を入力するのと同じだ。

 パンは始めはホットサンドを作ったり製パン機で自家製のパンをつくったりしたが食パンがフランスパンという単純なものが一番、ただし、コンビニのパンや大量生産の安かろうパンは役に立たない。いいパンを足で探しておく。コーヒー豆も豆が生命線、これもずいぶん探したが今は東京の喫茶店のものを通信販売で定期購入している。そう、3年も同じ料理をやっていると、ジャガイモにしろ大根にしろピンからキリまであるのがわかってくる。うまいジャガイ、うまい大根を探し出して、これを食うときの快感は、すばらしい。餅はに新潟産の切り餅を一切れ、この餅はコーヒーとじつによく合うのだ。これはたいがいの人がへえと驚くんだが、味の微妙さでコーヒーと餅は調和するのだ。

 料理の手順というのも経験で、ここもあすこもと改善点を見出してこれる。そして速くなるし、さらには、料理をした痕跡さへとどめぬシンクと食卓周りで、料理は終わるのだ。あとの皿洗いも5分で乾燥機内に収められる。午前6時半起床、寝床や部屋のかんたんな片付け、チップの散歩、仏壇の灯明や水お供え、チップの食事、ゴミだしとやることがあるが、すべてやれる。今思い出すと、朝食をつくるということは、ぼくにとって快楽でありつづけている。家内は夕食をつくるが、義務感を払拭できないでいる。アソビでやるのと義務でやるのは気分が違うのだ。じつは、この3年間でかなり努力を要したのは、料理ではなくて6時半に起床するという習慣であった。なにしろ50年間、午前8時ごろにしか起床しなかったのだから、これを改めるのが、おおきな苦労であったが、今では、日曜になろうと、午前一時に就寝しようと、午前6時半までに起床しないと、かえって体調が悪い。このように習慣というのも変えることができる。人の身体的行動は、実に単純である。意識こそが最大の難関ではないのだろうか。あの渡部昇一は、この40年間、意識を変えることができずに老いを迎えたようである。知性とはなんなのだろうか。まずは朝食を十分食って一日を迎える習慣から見えてくるもの、これは体験してみる価値はあると、ぼくは若い奥さんや女性たちに進言してみたい。




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宮崎市 今日は晴れ

2010-07-05 | 生き方
 
 夕べは 午前一時過ぎからチップが落ち着かず、明け方までに午前1時半、午前3時15分と外へ連れ出したが、排便するでなく、帰ると隣の部屋に行ったり、風呂場に入ったり、廊下から外をうかがい続けたりと、ぼくも寝つかれずに、そのまま朝になった。前日からつづいた嘔吐やら、皮膚炎のかゆみも納まっておらず、さすがに今朝は食欲喪失、ぐったり横たわっていた。10分間ほど(犬の1分は人の6分)、マッサージしてやると、気持ちよさそうに横たわっていた。それからクリニックには出勤が遅れると受付に電話して、そのまま9時前に青木病院へ。皮膚薬、かゆみ止め、嘔吐おさえの注射をしてもらって、ようやく元気そうになり、そのまま出勤した。ほんと、節子はなぜか神経痛が納まらず、これでぼくが歩けなくなったらチップはどうなるんだ、これから容易な問題ではなくなってくる予感がする。
 
 7月2日映画祭(第16回)が始まり、日曜日夜8時からポーランド映画を観た。暗すぎる。あんな北欧の風土、石倉のようなところが住居で石灰質の混じってどろどろとして荒地のひろがる街はずれが、暗さをいっそう募らせる、映画と実際の風物は、ちがうかもしれないが1968年のころのぼくの記憶では、北欧の暗さは底知れぬものを感じてはいた・・それに比べて日本の風土は楽なもんだと、ぼくは思ってしまうのだが、今週九州、宮崎県は、宮崎市街を除いて洪水災禍が、テレビで繰り返し報じられているのに、そう思う。

 今日は月曜、今朝は抜けるような晴れだ。この晴れ感は6月12土曜日以来の雨、曇りの連続のとぎれた隙間であるのかもしれないが、爽快感は気分を引き立ててくれる。蒸し暑さもまだ感じないですむ。

 先週、木曜日の夕方だった、そのときはチップは元気で、夕方早くに散歩に連れ出して、我が家の前に近づいたとき、班員のAさんに出会った。あれ、今日は早いですなと声をかけると、
「やっと、終わりました、口蹄疫」というので、かれの時事の挨拶に共感した。かれは燃えないゴミの運搬を市の仕事でやっているダンプのドライバーだと知っていたので、どうやら感染が納まるようだという、市民に流れてきだした安堵感の挨拶かと思った。ところがそうではなかった。口蹄疫の実際作業のことだった。おもわず、驚愕してしまった。わが12世帯班、80歳以上の世帯主が4世帯(女3人男1人 みなシングル世帯)来年はそこにさらに2世帯がくわわる。この超高齢世帯の班のなかに口蹄疫の仕事に関わった世帯があったとは、想像もできなかった。思えば彼だけは50歳台で、一番若い所帯主であり、4人のこどもがいた。アパート住まいであったが、こどもたちはそれぞれ独立して世帯を別にしていった。

 「殺処分をやりました。いや、処分された牛や豚の運搬です。そう、ほらそこら辺で、処分されるんですよ。」と、かれは前のアパートの角、20メートル先の地点を指差して
話をつづけだした。 「殺処分と肉用に搬出されるとは、まったく違うんですよ。それは苦しみが違う、吼え、泣き叫び、目は血走り、もがきながら死ぬんですからね」
 「まこちそら、そこのアパートの角くらいのところで、処分されるのを見ながらダンプの運転席で待っているんです。処分は電気ショック、注射、ガスなどですが、みんな鼻や口から血を流したり吹き出して死んでいる。それにみんな目を開いている、今でも生き返ってくるのかと思うくらい、はっきり目を開けているんです。それをリフトで救い上げてダンプに積んで運ぶのです。」
 「毎日やったんですか」
 「2ヶ月間、毎日です。やっと終わりました、やっと、」
 かれの真っ黒く日焼けした顔は、元気そうであり、ほっとして、かれに心からご苦労さんでしたねと言うばかりであった。

 ぼくの家からあるいて3分のアパートの2階にかれは奥さんとこども一人で暮らす世帯員だった。わが班内に口蹄疫の実際に関わった仕事をしている人がいたとは、想像を超えた現実であった。そして今朝は晴れであった。そしておもわず、ぼくは書いた。気分は今朝は爽快感があると、これが人間の本質なのか、想像力などあってないようなものに過ぎないと、だが、それだから救われているのかもしれないが、人の実存としてゆるされるのだろうか。
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口蹄疫の終わりを願って

2010-06-16 | 生き方
 都城市、宮崎市、西都市と口蹄疫感染が先週につぎつぎと発生した。多発感染の原因はいったい何なのか、それをだれも具体的には理解できない。ウイルスの研究者の談話を熱心に聴くのだが、素人が言うこととあまり変わらない。研究者にとっても判断は出来てないとおもわざるをえないのだ。先週の土曜日に、思い切ってぼくは自転車で富田地区に行った。自動車には国道10号線でウイルス汚染の洗浄が実施されていたが、ぼくは,その脇の自転車道を行くと、べつに注意されるでもなく、監視人から労われて通って行けた。ぼくは汚染されていないのか、汚染されたままなのか、そのことを正確に想像することもできない。今や、宮崎市内ではイオンショッピングモールや銀行や、中央公民館、美術館、デパートなどでは靴で消毒液のマットの上を歩いて入る。そしてこういうことが、どれほど有効なのか、いや、実施される施設と実施されない施設もその施設の事情に任せられている。これは、施設のそれぞれの事情に任せられている。このことは全体主義国家でないすばらしさを残しているということではある。ぼくは思うのだが、しかし、それゆけに都城市、宮崎市へと感染は広がり多発しているのか、どうなんだろう。これを、研究者といえども断言できないまま、テレビで談話を繰り返している。そんなのんきな談話でいいのかと、じりじりとしてくるのであった。

 宮崎市は一昨日の14日から、県立図書館、芸術劇場、美術館、市立図書館や、イベントホール、中央公民館や体育館、科学博物館、その他の公共施設が閉館となった。民間に委託された橘通り繁華街の中心にある宮崎アートセンターは開館されたままである。デパートもイオンも県病院も開かれている。学校も保育園も映画館もだ。そういうことで、ウイルスの飛散にほんとうに効果があるのだろうか。いや、考えだすと自動車の車体の車だけを消毒したりするだけでいいのか。乗車中の人は消毒せずに大丈夫なのか。それでは消毒の徹底は可能なのか、それは不可能というしかないではないのかと思うのだ。ぼくは、村上龍の小説「ヒュウガ・ウイルス」を思い出す。この小説は、今から10年前に発表された作品であるが、当時の分子生物学の解明した病原体ウイルスの想像を絶した感染力の知見を背景にしながら、ウイルスに感染した都市を、特殊爆弾によって一瞬で壊滅させるという作戦に従事する特殊部隊の物語である。その事実感に圧倒される。その特殊病原体ウイルスは、「レトロウイルス」といわれ、宿主になった細胞に入り込んで、自分のDNAを宿主のDNAに組み込ませる。そこから宿主のDNAと同じになり増殖して、子孫を増やして細胞を突き破り、粒子を拡大する。30億対の塩基配列で書き込まれた遺伝情報と60兆の細胞による人間の精神と肉体が、わずか1万3千塩基しかないウイルスのヒュウガ・ウイルスで、一挙に破壊され、宿主となった人の最後を迎えるのである。汚染された地域は、ビッグバンと呼ばれた九州東南部の歓楽都市だとされている。まさに宮崎県のようにも思える。ただ、この小説の価値はこの黙示録的恐怖ではなく、ウイルスの想像を絶した生体を想像させることである。このような小説を読んで、ならば、この不徹底な消毒はなにを意味しているのだろうか。ただし、そのために感染がなお拡大しつつあるのかと、これもだれにも分からない。一番大事なことは、今の状態では、これが現実なのである。そう、分かることだけを手がかりに行動しサバイバルするしかないのではなかろうかと思う。しかし、学者さへ分かってないのである。しかし、わかったように談話しつづけるしかないようにみえる。ただ、辛うじて今われわれにも、分かるのは、宮崎市、都城市の感染は、24時間あまりで、畜舎の全頭殺処分ができた。これで、他の畜舎への感染が終息できるのであれば、エピデミック(地域感染)は、パンデミック(世界感染爆発)にならずに終息できよう。そうなれば、初動対策の有効なことが、明確に分かるわけで、これがまずスタートとなろう。

 ここで、もうひとつ思い出したことがある。それは去年の冬、新型インフルエンザのパンデミックの様相を帯びだした2月、NHKの特集で、辺見庸氏が出演した、破局到来の危機を語る番組である。かれは「もの食う人びと」のルポルタージュで1994年に注目を浴びた。人が食うとはどういう意味か、飢餓線上にないぼくら日本人が、完全に忘却してしまった食うという本質的意味を、問い直しこのままの飽食の日々は、やがて飢餓という終末を迎えるという内容であった。そのために今こそ、彼は口蹄疫の感染爆発について、何を語るかと思うのだが、その発言は知らない、ただ思い出したのは、あの特集番組での発言であった。

 かれは、スタジオで、新型インフルエンザの危機、環境、エネルギー、資源とすべてが破局に向かってなだれをうちながら落ち込んでいっているというのだ。世界感染爆発パンデミックといくともいくども口にしながら、その破局を呼び寄せているのは、人間たちの意識であるというのだった。食料はもちろんあらゆる消費物資の豊かさ、情報の豊かさ、個人的自由の豊かさが、じつは人間的な充実感を希薄にしている。人間として、その生体が当然実感できる痛みや歓喜、感情までも空ろにしているというのだ。終始一貫、その口調は悲痛感にあふれ、世界は中世のペスト疫を描いたカミュの小説ペストと比較されながら、現代の黙示録が語られていった。ぼくはそれを視聴しながら、なんという文学性だろうかと思った。しかし、それは現実を捉えていないし、予測もしていないし、個人感情の満足でしかないと思えた。人は内面を荒廃させ、人間らしい実感が消えつつあるという。つまり人を伝える言葉を失いはじめているというのだ。これが破局の本質だと・・・。

 今、この文学性を宮崎の口蹄疫の現状に当てはめてみるとき、これらの文学的言説は何の意味もないことを、われわれは知ることができる。つまり、かれの黙示録には、なんの意味も背負わせることが出来ないことを感じるのだ。人は人間であるための言葉を失っているというのである。

 ぼくは、言葉がなくなったとは思わない。自然科学、社会科学、そして哲学の言説は、ぼくを口蹄疫についてかんがえさせ、判断させる言説に遭遇できる。カミュのペストを再読する気にはとうていならないが、自然/社会科学書、哲学書は口蹄疫への理解を深めさせてくれる。ここからスタートしなければならないと思うばかりである。
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班長さん ご近所とは何?

2010-04-17 | 生き方
 去年の一月は、村上春樹の「アンダーグラウンド」でスタートし、今年は小熊英二の「民主と愛国」をぐうぜんに読むことから年が開いた。前者が777ページ、後者は999ページだった。こんな本だれが買って読むんだろうか、とくに後者の一抱えもありそうな分厚なはハードカバー、定価6615円を買うやつがおるのかと、これがなによりも本を手にしての第一印象であった。偶然がなければ、こんな本を読むなどとは、思いもしないし、多分一生手にすることもなかったはすだ。とにかく温泉行きの正月休みに、この分厚い硬い本を持参して読みにかかったわけであった。あんた馬鹿じゃないのこんな本を何で読むのと節子は、とくに「民主と愛国」とぼくをにらみながら言い放ったのだ。こんな本を読む暇があったらしてもらいたい家事労働は山のようにあるのにという思いはそくそくと伝わってくるのであった。といわれながら、読み始めたら、体裁とは反対にひどく面白い、濃い内容で知的スリルもあり、止められなくなったのだ。こんなことで、この分厚い本は知人の支局長のO記者に返却するのが残念であったし、中央公民館から借りた「アンダーグランド」は後で、ブックオフの文庫本で見つけ出して50円で入手できたのであった。

 今この二書が記憶に甦ってきたのは、いずれも「大衆」というキーワードが大きな意味を担わされていた。前者はオームのサリン・テロの犠牲になった62人の犠牲者のインタービューであった。1995年の早朝、東京の地下鉄でサリンを吸う人々には有名人も会社の重役も、マスメディア関係者も、高級官僚も、芸術家も作家も居ない。生きるためにこんな満員電車にぎゅうぎゅうづめで出勤する必要はないわけであるから、このしがない企業のサラリーマン層こそ、大衆そのものといえるかもしれない。また、「民主と愛国」戦後思想を担ってきた学者、知識人、作家の国家か自分かという生き方を、かれらの膨大な著書を分析して明らかにした内容であり、このとき、これらインテリゲンツィアの「大衆」への解釈が、自分の立ち位置を示すものとなっていた。大衆は革命の主体であったり、戦後民主主義を崩壊する愚集であったり、大衆から学ぶのか、啓蒙するのか、全体主義を下でささえる無批判の群集と否定されたり、それぞれであり、その見方によって自分の人生を左右されている。

 右から左まであり、英知から痴呆まであり、純粋から卑劣まである、戦後思想家や芸術家の断定する「大衆」とは、どれがほんとうの姿なのか、それぞれの論拠によりながらわからなくなってくる。だんだん読みながら、ぼくは、大衆とは具体的にどこのだれなのか、論者たちは指すことが可能なのかどうかと、この一事に興味を惹かれだしてきたのだ。かれらが、国家か自己かに賭けて、自分の人生を問いつつけているその視点に大衆観が物指しのように置かれているのに、具体的な大衆がはっきりしていないというのは、ぼくにとっては大変な驚きであったのだ。大衆は善なのか、悪なのか、そして生きている大衆の一人に今どこで会えるのか?それがわからないのである。そんな問いそのものが無駄な問いであるのか。

 先週、これもぐうぜん手にした小谷野 敦(コヤノ アツシ)の「すばらしき愚民社会」は、「大衆論とその後」という序文から始まるのだが、「今や「大衆」は司馬遼太郎さへ読まない」「ハリポタをリクエストする東大生」という小見出しからみて、まずむつかしい本を読まないやつと規定されている。もっとも内容はそれほど単純に割り切れるものでなく、どうも難しい本を商売道具とうる同業の大学人たちへのルサンチマンがあちこちに噴出している文化論であるようだ。ほんとうのバカはかれらであるというような内容ともとれるのであるが、大学人が、バカが利口かは、ぼくの関知することでなく関心も今このときには無いのだが、ただ小谷野の大衆概念に興味があるのだ。しかしこの本を読んでもやっぱり大衆とはなんなのか、はっきりしない。彼は、この本のあとがきで「・・・私は、そこに働く三人〔父、母、娘 筆者註〕、三島由紀夫やトルストイの名を知らなかろうと、一向に構わないんだ。彼らは選挙になれば、テレビでおなじみのタレント候補に投票するかもしれない。が、それがかれらの罪だろうか。かれらは「愚民」ではない。」とサンドウッチをつくるパンやの一家をたたえる。じゃあいったい彼らはなんなのだろう。多分大衆の範疇には定義では入るだろう。しかし、あいまいではなにか、つづけてかれは結論を述べる 「私はビニール袋に入った、あまり美味しくもなさそうなサンドウィッチを購って、本当の「愚民」たちの群れ集う「学会」に向かった。」と終わる。そうか愚民というのは学者という名の業界人なのか、これも不可解な断定でしかぼくにはないのだが。

 そのときだ、ぼくが突然思いついてしまったのは、小谷野敦教授が、もしぼくのご町内の班長総会に群れ集う集会に着てもらったとき、かれはこの総会をどうとらえるかを知りたいのだ。たぶん、どこからみても、この集会の役員たち、またじいちゃんばあちゃんが奥田英二や村上春樹のこの著作を読むことはありえないと思えるし、その言動から判断して、あるいは日本現代美術の尖端についての探索をしているとも思えないし、現代の文化・芸術の評論を読んでるとも思えぬし、つまりかれらは、大衆か、それとも、愚民か、そこで小谷野教授はなにをすべきか、判断がつくだろうか。ここが知りたいのである。つまりご近所で暮らすとは、なにか、なにに遭遇するのかと聞きたいのだ。 
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班長さんになる、ふたたび

2010-04-14 | 生き方
  
 隣近所というよりご町内、近くの孫が通った保育園、また散歩道にある小学校で有名になっているのは、ぼくがチップを朝夕引いて散歩しているからだ。これも10年以上なると、多くの奥さんたちが、チップちゃーんと声をかけてくださる。孤立主義者であっても、多くの縁に囲まれてくる。とくに小学校新入生、保育園で孫の同級生だった一年生がトナミ君のおじーちゃーんと集団で声をあびせることもあったのだ。もうあれから丸三年たったのだが、孤立が好きだといっても、ご近所の奥さん方が声を下さるとはありがたいことだ。今、チップの体調は、絶好調に近いかも。排便大量,良便。皮膚炎沈静中、食欲旺盛、毛並み良しで、鼻ツヤあり。だが、歩行能力はどこかよちよちである。老犬になったのは否定できなく、悲しい。そうだなあ、もう11年散歩の毎日だもんな。

 ところで先日の自転車ぶらりで悪化しだした「魚の目」〔左足指間)とそれをかばおうとしての右足膝関節の痛みである。経験した方はわかると思うが「魚の目」の痛みは、どくとくの不快感がある。痛みが、胸に響くというか、気分がなえるような痛みなのだ。冷えた足元からずきずきという鈍痛、ごんという激痛、とまらないじんじんという痛みが錯綜して一日中、ふとんに寝てまで止まないのである。これに耐えかねて、なんとかしたいと治療法を調べていたら、にんにくが効くという民間療法を知った。さっさく試していると、もったいない、100円3個の中国にんにくにしてねと節子が言うのだ。わかったと毎朝使っているのをスライスしかかっていると、これがいい、これがいいと、チューブ入りのにんにくを冷蔵庫からひっぱりだして、手渡したのだ。2年くらい前のやつで、にんにくには変わらないからと言い張るのだ。

 09年7月24日期限の桃色のちゅうぶに入ったもので、黄色いにんにくがどろりと出てきた。これを小指と第4指の目に塗り、間に綿を挟んで、靴下を履いた。その弾力で綿も安定できるのだ。すると、なんということだ、たちまち不快な痛みが潮が引くように引いていったのであった。すごいよこれ!!と思わす、節子に歓喜の声を掛けると、まだどうなるかわからないわよと、返答するのであった。あれからもう10日あまり、痛みだけは解放されてきている。これはぼくにとって恵みの雨である。しかし、右足の痛みは執拗につづいている。日常に差し障りはないが、痛みは頑として自転車ぶらりには使用不能と警告を発しつつけているのである。節子が昨日、桑畑整形に行ってドクターから聞いた話では、高齢になって膝の軟骨や靭帯の伸びなどをしたら、もう快復不能だから、行動に用心するようにとの話を告げるのであった。

 そうか、ひょっとしたら、これ治癒できぬかもナ、70キロの自転車走行は、無理だったのかも。そうか、加齢とは、あちこちが、回復不能で、一つ、一つと停止状態化していくことだなと、あらてめて自覚できるのであった。しかし、これはいいことだと思う。だんだん死への準備を自覚できるし、しかも死こそは人間すべて平等という現実、幻想でない民主主義そのものではないかとうれしくなる。だれでも年をトルそして死んでいく。ざまあみれということになる。生き物は人間だけではないのだ、この地球上での自然の法則に歓喜を感じるのである。

 こんな日々、思いもしなった隣組の班長さんになることになった。4月10日、町内総会があった。2005年の同じ日からだから5年ぶり。あのときは8年ぶりだった。
3年短くなったというのは、半年交代だから6人分早くなったのだ。その間に亡くなったひと、年寄りになって持病をかかえこんでて動けなくなった人たちが6人でたということである。老いてシングル所帯となり80歳代の所帯も半分くらいに及んできているわが隣組は、班そのものが後期高齢となってきてしまったのである。チップもぼくも隣近所も、老いという日々になってきたのだ。

 前回の班長さんのときは、ぼくはぼくなりの誠実さを班に注ごうと決意したのであったが、こんどはそうは行かなかった。ぼくの意識を占有しているのは、どうしようもないシニシズム(cynicism)である。こんな馬鹿なことにつきあってられるかという思い、それでもせざるを得ないという立場をぬぐいきれない思い、そんな目にふたたび遭遇という不快感を、持ちこたえるには、皮肉と冷笑で〔シニシズムまたはシニカル)意識で支えとするしかないのである。さらに意識は、すでに班をこえて、この町内、わが町を越えて宮崎市、そのシンガポール幻想都市をこえて地方都市へ、さらにこえて日本という方向にふらふらとさまよい出している。今からまずは総会の夜の話からスタートしようか。

 午後7時半、30分ばかりわざと遅れて、遅れてきたのはたったぼく一人でしかなかった。なるほどやっぱしと思いながらも、役員さんたちはにこやかにぼくを迎えてくれて、席に案内してもらえた。席は、知人の中年御夫人と退職互助会の老女の間であった。副会長の挨拶はすでに済み、今や第2号議案という予算執行についての話にはいろうとしていた。日常会話では聞くこともない議案だとか、決議とか報告とか、現状とか、問題とかの言葉が会場に流れていく。しわぶきひとつ無い会場は、これらの言葉に威圧されたかのようで、しーんとしていた。ぼくはふと思いついて中年の美人の御夫人に、小さな声でささやいたのだ。
「どうです、この会場、ばっちゃまとじっさまばかりじゃないですか!」
 と小声でささやくと、とたんに彼女はプーット噴出して、顔を真っ赤にしてなんとか笑いを押し込めようとするのであった。互助会の知人ばっちゃまは、ほんまや、これからどうなるんかと冷笑を浮かべるしで、ぼくの席だけが、ゆらめくのであった。ぼくはうれしかった、このお二人、じつに反応がいい、この笑いもあでやかでいい。そしてなにより一瞬にして、この町内総会の形式主義を捉えられた感性が、いいではないかとおもえたのであった。

 もはや楽隠居状態になってしまっているばっちゃんやじっさまに町内の発展がどうの、互助精神がどうの、予算執行がどうのと大問題をぶち上げていってどうすんだという空ろな議場のおかしさを彼女たちはすでに知ってしまっている。おそらく会場の高齢者すべてが、このことを把握しているのではないかということ、それでも総会はつづく。5年前、ぼくが班長生活半年でとことん知りえたのは、この日本人特有の和の集団のスノビズムであった。会議は踊るのでなく、会議は天を舞う。その舞の空虚さを理解していながら、その舞に自分を合わせて澄ます気取り、スノビズムがどう現実に日常生活と折り合いをつけてくるのかであった。今回もまた間違いなくそうなる。この意識が隣近所を超えて飛翔していくのである。日本の大空へと、なんのために、なんの目標へ向かって,今回はここを学んでみようかと思い立てた一夜であった。
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